帰り道、俺は思いがけず馬超と一緒になった。
というか、俺が帰ろうと駅のホームに立っていた時、帰社途中だった馬超に発見されて拉致された結果だった。
馬超は、帰社してからも仕事があるとかで、直帰する訳にはいかない。
けれど、どうしても俺と帰るのだと言って聞かず、それで一旦家に帰って休憩するという馬鹿げた目的で俺と同道する羽目になった。
馬超と帰るのは初めてではないが、確かに久し振りではある。
ただそれだけのことなのだが、馬超はやたらと嬉しそうだ。
そして俺はと言うと、馬超程ではないにせよ、実はちょっとだけ嬉しかった。
特に理由はないのだが、何となく、隣に馬超がいるだけのことが『いい』。
絶対調子に乗るから、絶対言わないが。
馬超がすっかり『自分の家』呼ばわりしている俺の家を目前にして、記憶に新しい顔が待ち伏せていた。
が、馬超の姿を認めると、妙にびくついた表情を曝け出す。
昼の憎々しげな表情とは打って変わって、年相応、もしくは年若な印象が強い。
垂れ目なこともあって、人好きするような愛嬌のある顔をしていることに今更気が付いた。
よっぽど憎ったらしい顔をしていたものと見受けられる。
とは言え、俺も昼の騒動でそれなり警戒心を持たざるを得なかったから、迂闊に近寄ることが出来ないで居た。
「、誰だあの男は」
ぱっと振り返ってみると、馬超が誰かに襲い掛かる前のドーベルマンみたいな顔をしていた。
剣呑な台詞に、迂闊なのは自分だったと思い知らされる。
熱血馬鹿の代名詞みたいな馬超を前に、少しでも隙を見せたら駄目なのだ。
何せ、張り切る。
この時も、まるで俺が深窓のお嬢様か何かだとでも言いたげに、俺を背に庇いずいっと前に出るという愚行に出た。
何が困るって、俺がかっこ悪過ぎなのが困る。
一応、これでも歴とした男なのだ。
「『凌統』だよ」
わざとぶっきら棒に呼び捨てて、馬超という『壁』を潜り抜けて前に出る。
凌統は、俺の不意を突く接近にたじろいでいるようだった。
好きで近付いてる訳じゃない。
「……家、良く分かったな」
ここの辺りは結構複雑に入り組んでいる。
住所自体は社員のデータを検索して調べるなりは出来ただろうが、実際にここを見付けだすのはかなりの骨だ。
凌統は、恥ずかしげに顔を赤らめた。
何にせよ、こっそり俺の家を探りに来たのは間違いないので、そのことを恥じているのだろう。
それにしても、昼間の威勢は欠片もない。
いっそ情緒不安と言っても差し支えないくらいだ。
「上がってくか?」
俺が玄関の方を親指で指すと、凌統は俺の背後を心配そうに窺った。
「いいよな?」
振り返った先にある馬超の顔は、決して『うん』とは言ってなかったのだが、口に出しての反対ではなかったのをいいことに、俺は無視をすることに決めた。
家の中に入ると、凌統のびくつきは更に増したような気がする。
アウェイに弱いタイプなのかもしれない。
そう考えると、昼間の態度と今の態度のギャップに説明が付くような気もした。
つまり、文字通りホームに在る俺は、圧倒的有利ということになる。
一応、クレーマー対応のお約束に則り、茶などは出さないでソファを勧める。
敢えてソファを勧めたのは、その大きさに身を持て余すだろうことを想定してだ。プラス、殴り掛かろうとする時にも慣れないソファのスプリングが邪魔してくれようという、実に王道的なセコい考えもあったからだった。
何と言われようと、俺は殴り合いにはとことん弱い。
打たれ強い方だとは思うが、どうも人を殴るの蹴るのと言った行為が苦手だ。
それを平気でやる(あるいはやりそうに思える)馬超や趙雲、曹丕に弱いのも、その辺が理由かもしれない。
ダイニングテーブルから引き摺ってきた椅子に腰掛けると、馬超はさも当たり前のように椅子の背もたれに手を置く。
絵面的にはマフィアのボスとその愛人といった構図になろうが、腕っ節の実力的には逆だった。
変えようがない現実にいささかげんなりしながら、俺は凌統を促す。
「で?」
「で……?」
切り口が良過ぎたか、凌統は困惑したように俺を見るだけだった。
想定外の反応に、少しばかり恥ずかしくなる。
「えぇと」
何と言ったらいいのか分からなくなって、俺は口ごもる。
俺の代わりに馬超が口を開いた。
「何をしに来た」
のはいいが、何でそんな詰問口調なのか。
趙雲との一件以来、馬超は俺の周りに居る男という男に対して変に過敏気味だった。
肝心の趙雲が、そんな馬超に対してどこ吹く風なのが、また馬超の癇に障るらしい。
周りの人間はいい迷惑だろう(ひょっとして、最近姜維主任が俺を避けている風なのもそのせいだろうか)。
と言う訳で、勿論凌統に対しても手厳しい態度を取ってくれる。
心強い気もするのだが、これでは話にならない。
案の定、凌統は不審げな顔を惜しみなく馬超に向け、穴が開く程見ているなと思い始めたくらいに視線を俺に戻した。
「……あんたの、男?」
「そうだ」
俺が答えるより早く、馬超が答えていた。
ただの一音も挟ませない。
どんだけ超反応なんだ。
「馬超」
俺は出来得る限り不機嫌を装い、腹に力を篭めて低い声を作る。
「一旦、会社に戻ってこいよ。仕事、あんだろ」
馬超は思い切り顔を顰めたが、俺が立ち上がって肩を押すと、情けなく眉尻を下げた。
「いいから」
押し出すように玄関まで追いやって、更に背中を押す。
物凄く嫌そうに、渋々であるとこれ見よがしにゆっくり靴を履く馬超に、その肩にぶら下がるようにして腕を回す。
「大丈夫だから」
ひそと囁くと、馬超は長い睫の生え揃った目を瞬かせた。
「ありがとな。飯は、一緒に食おう。な」
素早く唇を重ねると、馬超の顔が赤らむ。
こく、と素直に頷くと、俺の指にそっと指を絡めて、名残惜しそうに出ていった。
後で帰ってくるというのに、大袈裟な奴だ。
まぁ、馬超相手に何のてらいもなく舌先三寸で丸め込むような真似が出来てしまう辺り、俺もかなり図太くなっている。
戻ろうと踵を返すと、そこに凌統が立っていた。
ぎょっとするが、特に殺気立った様子はない。
内心恐る恐るながら凌統を避けて部屋に戻ると、凌統は俺の後ろを黙って着いてくる。
俺が椅子に座ると、凌統もソファに戻った。
ただ、気のせいでなければ凌統の腰掛けた位置は、先程より俺に近い気がする。
「……あのさ」
凌統は、何故か妙にもじもじしながら俺をちら見する。
何だと思って黙っていると、凌統も開き掛けた口を閉ざしてしまった。
訳が分からない。
「……何?」
仕方なく促すと、凌統も踏ん切りを付けたようだった。
緊張した面持ちで何かを考え込んでいたようだが、不意に膝にぐっと力を篭めて、俺の方へと向き直る。
「男、と、そういうこと、する訳?」
相変わらず言わんとすることが分からない。
けれど、言葉ではなく気配のようなもので察するところはあった。
「凌統さ」
呼び掛けて初めて、俺は凌統を呼び捨てにしていることに気が付いた。
今更なので、敢えて気が付かなかったことにする。
「凌統、同性に興味がある?」
かなりぼやかしたつもりではあったが、誤解しようもない言葉を選んでも居た。
凌統の顔がみるみる強張り、そうとは言わなくともそうなのだと知れる。
俺は沈黙を守った。
黙っていることで何も気が付かない振りをし、気が付かない振りをすることですべての選択権を凌統に投げた。
認めたくなければ昼の時のように俺を詰ればいいし、黙ったまま立ち去ることでなかったことにしてもいい。
凌統の内に芽生えた感情が、どんなものでどう生まれたにせよ、未だ赤の他人の線引きを越えない俺が踏み込んでいいとは思えなかったのだ。
沈黙は、しかしそれ程長くは続かなかった。
凌統の双眸から、堰を切ったように涙が溢れ出た。
最初、凌統はその涙に気が付かなかった。
膝に置いた手の甲に涙が落ちたことで、初めて自分が泣いていることに気が付いたようだ。
手を濡らしたものに心当たりを見出せず、一瞬呆け、次いではっとして両の眼を擦り上げる。
拭っても拭っても拭い切れない大量の涙に、仕舞には頭を抱え込むようにして突っ伏した。
込み上げる嗚咽が噛み締めた歯列を割って漏れ出し、白けた空気を痛々しく染める。
俺は、そんな凌統を黙って見ていた。
凌統がどんな男に心を奪われてしまったのかは、分からない。
分からないけれど、凌統が堕ちた恋情がどれだけ鋭く容赦のないものなのかは、今の凌統を見ていれば分かる。
その姿は、俺には分かった振りも許されない、でもとても見慣れた姿でもあった。
馬超、趙雲、曹丕。
形や状態は違えども、皆、泣きながら俺に詰め寄ってきた男達だった。
俺が奴らを振り払いきれないのも、もしかしたら俺が決して感じることの出来ない痛みに耐えているからだったかもしれない。
欲して止まない恋情など、俺には理解できない。
したくもなかったし、それを真実だと認めてやることも出来ない。
結局、俺という人間はとてつもなく狭量なのだ。
ただ、そうと知っているからこそ、俺は他者に対して踏み込むことを由としない。
その距離感は、恐らく癒すこともないけれど傷口をえぐることもない、絶妙の位置にあるのだろう。
馬超達が俺に執着するのも、その届きそうで届かないもどかしさが醸す何かにそそられるからだと思っている。
俺は、たた傍に居るだけなのだ。
おざなりな慰めも、露骨な嫌悪もなく、道端の石っころのように居るだけしか出来ない。
かつて、それがいい、それでいいと言う人がいた。
そうであってこそ俺なのだそうだ。
本当にそれでいいのか、俺自身には分からない。
むしろ、俺はそうであっては駄目なんじゃないかと消極的ながら心のどこかで考えるようにはなっていた。
だけれども、俺はそんな『駄目な自分』を変えることが出来ない。
変わることが怖い。
変えてどうなる、とも思う。
そのままでいいという言葉に乗せられて、それならこのままでいいか、と気を緩めてしまうのだ。
あんな下らなくも熾烈な修羅場を越えても、どうしても変わらなかった。
そんな俺だからこそ、留まることさえ許されず押し流されて変化『させられてしまった』凌統に、甚く同情するのかもしれない。
と言って、俺がやることと言ったら、やっぱりただ居るだけのことなのだが。
凌統の嗚咽が徐々に小さくなり、やがて静まった。
俺は冷蔵庫に向かうと、中からミネラルウォーターのペットボトルを取り出して、凌統の前に置く。
凌統は、顔を覆っていた手を除けると、俺の顔をわずかに見上げる。
目も、目元も、真っ赤だった。
泣いたせいか洟まで垂れて、失礼だとは思うのだがちょっと笑えた。
ティッシュボックスを勧めると、凌統は無言で一枚摘まみ上げ、洟をかむ。
投げ捨てられた丸めたティッシュが、ごみ箱の中へ綺麗に堕ちた。
ナイスコントロールだ。
少しだけ、仕切り直しの空気が漂い始めた。
ペットボトルに手を伸ばした凌統は、蓋を開けながら、何の気なしを装って俺に話し掛ける。
「……あのさ……」
もう外れているだろうに、凌統の指はいつまでも蓋を捻っている。
「うん」
俺は合いの手を入れた。
「うん、何?」
その先にある言葉をある程度は察していたのに、俺は凌統を力強く促す。
「あんた……さっき、……してたよな?」
凌統は遂に蓋を開けると、ペットボトルの飲み口をまじまじと見詰めている。
ペットボトルを見ているんじゃあないんだろうな、と、こっそり思った。
俺は、核心を得てふっと笑う。
「うん、してた。けど?」
何、という一言は省いた。
省くことで、凌統が繋ぎやすくした。
案の定、凌統は吸い付くように言葉を継いで来る。
「男でも……そういうこと、するもん……?」
不安そうな、けれど期待を込めたような口振りだった。
俺は凌統の期待に応えて、はっきりと答えてやる。
「するよ」
凌統の肩が小さく跳ねた。
胸の真ん中を射抜かれたような、脊髄反射みたいな動きだった。
あんまり『まんま』な凌統の反応に、俺は何だか面白くなって、凌統が無性に可愛くなっていた。
「してみる?」
凌統の期待通りの言葉を口にすると、凌統はぎょっとして、次いで狼狽し、仕舞いには意識した唇をわずかにすぼめた。
俺は身を乗り出し、凌統の唇を吸った。