趙雲は事を済ませるだけ済ませるとさっさと帰った。
 馬超が戻ったのも零時を大分回ってからだったから、面倒にはならずに済んだ。
 と言っても、馬超は良く帰って来れたなと感心するぐらいべろべろだったので、俺がどうであろうが気付かなかったかもしれない。
 玄関に入るなり崩れ落ちて眠ってしまったもんだから、ソファに運ぶのにえらい苦労をさせられた(二階に上げてやるなんて真似は、端から諦めている)。
 翌朝、馬超は二日酔いからくる頭痛と吐き気で完全に伸びていた。
「どうする」
 生憎、今日はしっかり出勤日である。
 とは言え、こんなザマでは仕事になるまい。
 俺の問いは、『代わりに会社に連絡してやろうか』という意味での『どうする』だった。
 馬超は、ひき殺されたカエルみたいな体勢でもぞもぞしていたが、おもむろに顔を上げる。
「……いい、行く……」
 死に掛けの、己の墓場となる戦地に赴く兵士のような足取りで、馬超は風呂場に向かった。
 それを見送り、俺は二日酔いの薬をローテーブルにセッティングする。
 スポーツドリンクも効くらしいので、それも並べて置いておいた。
 そしてすることがなくなった。
 することがなくなると、忘れようと思っていた声が蘇ってくる。
 馬超があんな状態なお陰で、言いたくないことも言わずに済んだというのに、何なんだ。
――ごめん。
 こちらが悪いような気にさせられる、何とも痛ましげな声だ。
 思い出す度、鬱になる。
 けれど、同時に凌統の遣り口を鮮明に思い出し、むかついてしまうのもまた事実だった。
 同情半分、反感半分で、ますます複雑になるのが更に腹立たしい。
 朝っぱらからテレビのボリュームを上げて、俺は瀕死の馬超の為に、これも二日酔いに効くらしい大根の味噌汁を作ってやることにした。

 例え化学調味料含有でも味噌汁は偉大だということなのか、昼頃になると馬超はそこそこに回復していた。
 会社に着いた瞬間、酒臭いと趙雲にトゲトゲやられ、張飛部長にだらしないと罵られ、姜維主任に平謝りされた馬超は、俺と一緒に馬岱のところで飯を食うまでに戻った。
 普段なら、外回りの営業と昼食を共にするなんてことはまずないのだが、今日の馬超は酒臭さが災いして、午前一杯は内勤に従事させられていたのだ。
「これでは、今日も遅くなるな」
 むすっとしている馬超に、馬岱が慰めの言葉を掛けている。
 俺は敢えて黙っていた。
が寂しがるな」
 それが面白くなかったのか、馬超が嫌み混じりに俺を引き合いに出してくる。
 本人を目の前に、とんだ与太を飛ばすものだ。さすがに見逃す訳には行かなくて、俺も応戦する。
「飯が食えなくて寂しかったな、胃が」
 馬超がぐっと詰まる。
 夕食を共にする約束をしていたのに、呑みにかまけてすっぽかすからいけない。
 俺は一応義理立てて、趙雲の誘いを断っていたから尚更だ。
 ただ、まぁこちらも後ろ暗いものがあるから黙っていてやったのだが、自分から墓穴掘るなら遠慮することもあるまい。
 雉も鳴かずば打たれまいに、馬鹿な奴だ。
 馬岱が探るように俺を見るが、先日の一件(自分からキスしろと迫った癖に、いいように俺のせいにした件)以来、俺の馬岱に対する恩義は目に見えて目減りしていたので気にしない。
 馬岱が作ったナポリタンを、用心しいしい口に運ぶ。シャツに跳ねたら事だ。
「……今日は、早く帰るようにしよう」
「趙雲が許してくれないだろ」
 形の上では、趙雲は馬超の上役に当たる。
 実際がどうであれ、仕事に関してはかなりきっちりしている趙雲が、部下たる馬超に仕事の遅延を許すとは思えなかった。
「業務時間外に営業先を回っても、相手が居ないだろう」
「居る居ないは問題じゃないだろ。それに、もしそうなら丸一日動けるように、明日明後日の分の事務をやっとけって言われるに決まってる」
 馬超が詰まる。
 本当の話だから仕方ない。
 余談だが、趙雲の仕事のやり方は諸葛亮課長のやり方にとても良く似ている。
 結果は勿論、そこに至る過程にもとても気を配るし、ストイックなまでに自分に厳しい。
 その厳しさを、己のみならず共に仕事に就く皆にも求めるところがまたそっくりだ。
 程度の話で言えば、趙雲の方がずっと緩くはあるのだが。
 まぁ、そんな次第で、馬超が残業食らうだろうことは、ほぼ確実と言って良かろう。
「今日は、飯食ってこいよ。俺、昨日の飯食っとくから」
 馬超は恨みがましく俺を見たが、どのみち一人分しかないから仕方がない。
 昨日の分は朝食にシフトしようと思っていたのに、馬超があんなだったから、一人分しか消費できなかった。
 単純な差し引きの問題と、俺に取り憑いたもったいないお化けが合体した末の処置だから、元の原因たる馬超に文句は言わせない。
 本当は趙雲と食べても良かったのだが、あの時点で馬超が遅くなるとは思わなかったのだ。
 趙雲も、馬超を待つのは嫌だと帰ってしまっていたが、結果的には正解だったかもしれない。
「たまには、趙雲と食えよ。俺が居るから喧嘩するってんじゃ、俺も立つ瀬ない」
「……そういう問題では……」
 ぶつぶつ言ってはいるが、歯切れが悪いのは馬超も内心でそう思っている証拠だろう。
「そういや、お前、どこまで聞いてるの?」
 趙雲には、いわゆる『前世』の記憶がある。
 俺とのことのみならず、馬超とのことも覚えている筈だった。
 が、俺の言葉を受けて、いきなり馬超の顔が曇る。
「……ん?」
 何かまずかったろうか。
 馬超はコーヒーを啜り、カップの縁ぎりぎりでぼそっと呟いた。
、俺は、下手か」
「は?」
 思わず強く聞き返すと、馬超の顔が真っ赤になる。
「趙雲が、が、俺は力任せで痛い、と、言っていたと……」
 聞いている話の種類が違うだろう。
 俺は、冷たい視線を惜しみなく送る。
「……い、痛かったか? 良く、ないのか。ならば、俺は」
「馬超」
 放っておくといつまでも続けそうだったので、やむなく遮る。
「時と、場所と、場合を考えろ」
 馬超は、俺に向けていた顔をついっと前に戻した。
 カウンター越しの馬岱が、微妙な笑みを浮かべて立ち尽くしている。
「居たのか、岱」
 盛大に目を瞬かせる馬超は、夢現の人間くらいしか許してもらえないような寝言を吐いた。
 馬超の前に置いてあった和風リゾットが、ひょいと軽く持ち上げられる。
「帰って下さい、従兄上」
 溺愛対象の従兄に対し、ツンドラ並に冷えきった言葉を投げ掛ける。
「岱」
 ようやく気が付いたらしい馬超が、おろおろしてリゾットの皿を奪還すべく指を伸ばす。馬岱が許す筈もなく、リゾットを巡って不毛な争いが始まった。
 俺は騒ぎに背を向け、気付かれないようにナポリタンを啜り込んだ。
 ソースが跳ねるのは気になったが、リゾットにありつけなかった馬超に横取りされるのだけは御免だ。
 お陰で本当に跳ねて、シャツの胸元に赤い染みが出来てしまった。

 絶妙な位置に出来た染みを気にしながら、俺は家路を辿っていた。
 白だったせいか、洗っても落ちなかった。
 帰ったらクリーニングに持っていこうと思うと、自然足の運びが忙しくなる。
 残業の馬超とは裏腹に、俺の仕事は早くに終わっていたので、すぐに着替えて家を出れば、十分間に合う時間だった。
 深夜営業のクリーニング屋もあるにはあるが、早く閉まる店の方がやっぱり安い。
 前の仕事は昼夜逆転してたから気にならなかったのだが、今の仕事に就いてからはそんなことも気になるようになった。
 いいのか悪いのか分からない。
 そんな感じで、俺はこの時かなりそぞろに歩いていた。
 体験したことのある人は分かると思うのだが、目立つ場所に染みがあるというだけで、これがかなり気になる。俺の意識は、ほぼ胸元の染みと、如何にしてこの染みを落とすかに集中していたから分からなかったのだ。
 いきなり、何かに引っ掛かったみたいに体が後ろに戻される。
 行きたい方向と真逆の方向に引っ張られ、俺は危うくこけそうになった。
 俺を引き戻したのは、凌統だった。
 思わず無言になる。
「……悪かった……悪かったから、頼むから」
 無視しないでくれと泣きそうな声で言われて初めて、俺は凌統の前を堂々と横切っていたことに気が付いた。
 凌統が俺を捕まえなければ、そのままガン無視して通り過ぎていたことだろう。
 位置的に、どうやら凌統の真ん前を通り過ぎていたらしい。
 何でそんなことが言えるかと言うと、凌統は自前のものらしい赤い車の前で俺を捕まえていたからだ。
 エンジンが掛かっていたと思しき排気の温もりもなく、ドアもきっちり閉まってたから、俺を見付けてから降りたのじゃなく、降りて俺を待ってたらしい。
 寒いのに、とまず思った。
 それが良くなかった。
 俺の中で、凌統への嫌悪感が萎み、罪悪感が膨らむ。
「……何してんだよ、こんなとこで」
 俺が嫌悪感を奮い立たせようと素っ気なく吐き捨てると、凌統の目が泣きそうに歪む。
 この乾燥した時期にも関わらず、凌統の目が潤んでいるのをうっかり見届けてしまった。
 嘘泣きに決まってる。
 女の扱いにあれだけ長けている奴だ、涙の一つや二つ、簡単に零して見せるに違いない。
 と、思う。
 俺は、どうにも踏ん切りを付けられず、凌統の手を振り払えないままでいた。
 乱雑に俺を犯そうとする凌統と、泣き出しそうな目の前の凌統が、どうしても重ならない。
 力ないこの手を振り払おうと思えば簡単に叶う筈なのに、俺は出来なかった。
 ある意味、答えが出ているようなものだろう。
「……で?」
 凌統が、伏せていた顔を上げた。
「で?」
 俺はただ繰り返す。
 最大限の譲歩だ。気付かなければ、それでもいい。
「……うん」
 けれど、凌統は気付いた。
 力の篭っていなかった手に、わずかばかりの力を篭めて、俺の手を引いた。
 凌統は、なかなか次の言葉を吐こうとしない。
 俺は、焦れる気持ちを白い息を吐き出すことで堪えた。

 

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