長いこと沈黙していた凌統だったが、身に沁みる冷たい空気に押されたか、ようようのことで提案してきた。
 場所を変えてもいいか、という、ただそれだけのことだったけれども、それでも男二人でこんな所に立ち尽くしているよりは、幾らもマシだ。
 凌統の車の助手席を勧められ、俺は素直に乗り込む。
 シートベルトを締めると、凌統はエンジンのキーを回しながらどこか遠くをじっと見据えていた。
 どこに行こうか考えているようでもあり、実はもう決めていて、しかし果たしてそこに行くべきかどうかを悩んでいるようにも見える。
 凌統は、手持ち無沙汰にルームミラーを調節すると、やや強張った面持ちでぼそりと呟いた。
「……俺の家でも、いいかい」
 そうなると、俺は完全アウェイとなる。
 俺はちらりと外に目を遣って、見慣れた、俺の家へ続いている道を眺めた。
「……いいよ」
 妙案が浮かぶ訳でもない。
 仕方なく、ただ流されてみることにした。

 凌統の家は、閑静な住宅街の一角にあった。
 地価も高かろうに、広い庭のある一軒家で、文明開化の色濃いシックな洋館だ。
 時代の波に揉まれた風合いが、建物に箔を付けているかのようだ。
 建物自体は大きくないが、それでもウチとは比べようがない、比べることも考えつかない程度には、広い。
 ドアはさすがに新しいものを使っているようだったが、屋敷に合わせて古めかしいデザインのものが使われている。
 両開きのドアという辺りが、この屋敷の古さと贅沢さをよく示しているように見えた。
「どうぞ」
 凌統がドアを開け、中を指し示す。
 赤いレンガが敷き詰められた玄関の向こうに、ふかふかのカーペットが見える。
 だが、レンガとカーペットの間には、ほとんど段差がなかった。
「前は土足だったんだけどさ」
 立ち尽くす俺に、凌統がばつ悪そうに肩をすくめる。
 外見だけのなんちゃって洋館でなく、改築もろくにしてないような、本物の洋館なのだ。
「やっぱり、色々不便だからね。でも……まぁ、何となくね、いじれなくってさ」
 カーペットの手前には、同系色の泥落としが敷いてある。
 特注なのかなぁ、と、変なところに意識が向く。
 その間に、凌統がスリッパを出してくれた。
 居間辺りにでも案内されるのかと思っていたのだが、凌統はホールを抜け、緩いカーブを描く階段を上っていく。
 みしみしと怪しげな音に誘われるように、俺は凌統の後を追った。
 階段の手すりは、つるつるしてぴかぴかだ。
 何人もの人がこの手すりに掴まって階段を行き来し、その繰り返しで磨き上げられたのだろう。
 俺は、撫でるように手すりに触れた。冷たく重い木材の感触が心地いい。
「……どうか、した?」
 階段上から凌統が訝しげに見下ろしている。
「ここ、何年くらい前の?」
 俺が聞き返すと、凌統は面食らったような顔をした。
「……さぁ。百年くらい前、だと思うけど」
 凌統は、あまりこの家に興味がないらしい。
 なら、さっさと壊すなり改築するなりすればいいだろうに、何でまたそうしないのだろう。
 短いながらも読み取った凌統の性格なら、また好みなら、さっさとやってしまいそうなもんだ。
 本当によく分からない男だ。
「何でここに住んでるんだよ」
 階段を上りながら何気なく訊ねると、凌統の表情が暗くなる。
「……実家、だからな」
 俺は、凌統が何でまたそんな顔をするのか、よく分からなかった。
 だけども、凌統いわくのこの『実家』には、他に人の気配を感じない。
 一人暮らしなのだと直感して、それはたぶん正しかったろう。
 実家で、一人暮らし。
 何とも物悲しい、侘びしい響きだ。
 当たり前に聞き流そうと思えば思えるだけ、寂しさが増す気がする。
 兄弟姉妹なんかが別宅に居を構えていないとも限らなかったが、俺は、何となくそうじゃないと感じていた。
 そして、そこまで考えておきながら、聞き流す。
 聞き返したりはしない。
 それは、俺が凌統に関わることに繋がるからだ。
 人に踏み込むのは、怖い。
「ふぅん」
 おざなりな相槌をどう聞いていたのか、俺には分からない。
 考えもしない。
 凌統に追い付いて、俺は立ち尽くす凌統に視線を投げ、無神経を装う。
 次はどうするんだ、どこの部屋に入ればいいと、無言で促した。
「……こっち」
 凌統は、軽い失望を覚えたようだった。
 それでいい。
 俺なんかをあんまり頼るもんじゃない。
 内心ほっとしながら、再び凌統の後を追った。

 ドアの中に一歩踏み込むと、嗅ぎ慣れない匂いが漂った。
 誰かの使った整髪料や洗剤なんかが混じり合い、住む人の体臭と相まって生まれる家の匂いだ。
 この家に入って初めて、生活感みたいなものを感じた気がする。
 広い部屋の中、家具がそこここに点在している。
 変な話、この一室だけで生活しているのかもしれない。
 ベッドにテレビ、ソファ、パソコンとパソコンラックはともかく、実家暮らしで自室に冷蔵庫持ち込んでる奴なんて、日本に何人居るだろう。
 案外珍しいことではないかもしれないが、少なくとも俺が知る限りでは少ない。
 と言うか、居ない。
 ブックラックに乱雑に差し込まれたファッション雑誌や英字新聞、その横に積まれた読み古しの雑誌と新聞の山、脱ぎ捨てたシャツなんかが如何にも凌統のものらしい。
 凌統の部屋なんだろう。
 俺があたりを付けている間に、凌統はソファの背もたれに投げ掛けられていた服なんかを片付けていた。
 ごそごそしていると思ったら、かちんと小さな音が聞こえた。
 首を横に伸ばして凌統の手元を見ると、どうやらコーヒーメーカーにスイッチを入れた音のようだった。
 振り返った凌統が、俺の視線をまともに受けて、面喰ったように赤面する。
「……何だっての」
 一瞬でも怯んだ自分が恥ずかしかったのか、居心地悪そうに目をうろうろ走らせる。
 本当に、純朴なんだか性悪なんだか。
「座っても、い?」
 俺がソファを指差すと、凌統はきょとんとしている。
「そんなもん、勝手に座ればいいじゃないか」
「ん」
 凌統の流儀はそうなのかもしれないが、俺の流儀はそうではない。
 生まれ育ちが異なるように、例えば考え方から話の受け止め方まで、俺と凌統は何もかもが違うのだろう。
 それが普通だと思う。
 早くもコーヒーのいい匂いが立ち込め始めていた。
 が、俺は別にコーヒーをご馳走になりに来た訳じゃない。
「で」
「……で?」
 凌統が訊き返してくるが、俺は黙っていた。
 そも、凌統が何故に俺を自宅に連れて来たのか、そこからして分からないから仕方がない。
 察するところはあっても、すべて想像であって事実ではない。
 折角無神経を装ったのだから、継続させることにした。
 凌統が俺を見る。
 俺も、凌統を見返す。
 凌統から先に逸らした。
「……悪かったって。……謝りたくてさ」
「それだけか?」
 煽るつもりはないが、思わず声を上げていた。
 たかがとまでは言わないが、わざわざ人を自宅に招き入れてでしか言えない言葉ではないと思う。
 凌統の顔が、ますます赤くなる。
 背丈はあるが厚みのない体を縮込めていた。
 もどかしげに口をすぼめ、ぱっと見には不貞腐れた子供そっくりだ。
「ってか……」
「てか?」
「………………俺のやり方、そんなにおかしかった?」
 沈黙が落ちた。
「……いつも、ああなのか」
「まぁ……やっぱ、おかしい?」
 おかしいだろう。
 俺の表情から察したのか、凌統はきゅっと唇を噛んだ。
「でも、俺はいつもああなんだっての。女だって、いつもノリノリで、だから、俺……」
「あのなぁ」
 俺は心底呆れていた。
 馬超並に俺を呆れさせる奴なんて早々いないと思っていたのだが、どうも凌統に限って別枠扱いになるらしい。
 慣れているなとは思ったが、そっち方面の女に特化して慣れているとは考えてもみなかった。
 確かに世の中には、男に乱雑に扱われるプレイが大好きだという奇特な女の子(俺からすれば)が少なからずいるらしいことは知り置いている。
 凌統なんかは、なまじ坊っちゃん坊っちゃんしているから、多少の責め文句はちょうどいい刺激くらいに収まってしまうのだろう。
 別に殴ったり蹴ったりじゃないから、プレイとしては最適な訳だ。
 だからこその、『怒ってんのか』だったのか。
 そりゃあ、いつもだったら、涙目の女の子が誘い受けしてもっとやってってなもんだろうから、確認の一つも取りたくなるだろうなぁ、ああ、そうかそうか。
 馬鹿馬鹿しい。
 俺は、遠慮がちに座っていたソファの背もたれに、思い切り体を沈ませた。
 高いんだろう、ソファは俺の体重を容易く受け止め、尚且つふんわりと押し返す。
 確かに、車の中とかじゃ話し難い。
 茶店やレストランじゃ、周囲の好奇心を盛大にけしかけるばっかりになってしまう。
 それで自宅の自室を選んだのだろうが、何と言うか、疲れた。
 凌統は、未だ何かもじもじしている。
「……何」
 俺も、大概親切だなぁと思う。
 思うのだが、毒を食らわば皿までの格言にならい、とりあえず聞くだけ聞いてしまえという気持ちになっていた。
 まぁ、自棄になったとも言える。
 俺の誘い水に乗ったと思しき凌統が、ベッドに向かう。ヘッドポートの辺りで何かごそごそし出したと思ったら、薄いケースを手に戻って来た。
 DVDらしい。
 俺の目が点になる。
 凌統が俺に差し出したDVDは、いわゆる『同性愛者もの』、もっとはっきり言ってしまえば、ホモビデオ(DVDだからホモDVDと言うべきか?)だった。
「……お前、これ、見たの」
 呆れ果てて、言葉遣いもついついおざなりになる。
 凌統は気付いてないようだ。
 俺が呆れるのも想定の範囲内ということか、顔を真っ赤にしつつも俺の隣に座る。
「……一応……」
 聞き逃してしまいそうな小さい声で、凌統は自分の愚行を認めた。
 が、次の瞬間、怒涛の勢いで言い訳に入る。
「でも、これ見ても全然受け付けなくて、だから俺、違うって安心してたんだって。もう、見た瞬間からげんなりして、正直、乾いた笑いしか浮かばないし、早回しで一通り見て、処分に困って、今の今までずっとあそこに仕舞いこんでてさ、だけど」
 言葉が途切れる。
 凌統の顔から、徐々に血の気が引いていく。
「……だけど……その日からずっと、夢に……俺、あいつに………して……それが、凄い生々しくて……頭、おかしくなるっての……!」
 がっくり項垂れ、組んだ手の中に顔を隠してしまった凌統の表情は窺えない。
 けれど、凌統の気持ちは何となく感じられた。
 同性の、少なくとも顔見知り以上の相手を、夜毎組み敷き苛んでいる、または組み敷かれ苛まれているとしたら、その相手に対しての罪悪感は凄まじいことになるだろう。
 一度であれば青ざめ、あるいは赤くなり、何という夢を見てしまったのかと冷や汗垂らして終わりになる話だ。
 しかし、それが毎晩の話ともなれば、受け止めようも変わってくる。
 何故、どうしてと苛立ち、怯えながらも、夜になれば何も知らぬ相手の姿を犯すのだ。
 心が定まらぬまま、妄執だけが暴走する様をありありと見せ付けられる。
 恐ろしいだろうし、いたたまれないだろう。
 俺は凌統の肩に手を掛けた。
 凌統が顔を上げる。
 救いを求める目をしていた。
 否、救いなんて大袈裟な類のものでなく、ただ、ほんの一時の逃げ場所を欲していただけかもしれない。
 キスを強請っていた。
 口で言わずとも、目で言っていた。
 俺は戸惑っている。
 キスをするのは簡単だ。
 だけど、凌統を救うべき腕は、俺の腕は、もう疾うに塞がってしまっていた。
 悪戯に救いの手を差し伸べる残酷さを、俺は知っている。
 どうすべきか。
 俺は悩んだ。
 リミットは数瞬の話だ。
 それ以上は、してもしなくても凌統のプライドを傷つけるしかない。
 俺は、ほんの数ミリ、前に出た。
「おう、凌統、居るかー」
 暢気な、それでいてけたたましい声が、場の空気を粉微塵にする。
 その見事な空気の破壊の仕方には、覚えがある。
「……お」
 つんつん頭の吊り目の男は、俺を見て不思議そうな顔をしていた。

 

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