顔を洗うだけに留めようと思っていたのだが、凌統のものが髪にも掛かっていた為、急遽シャワーを借りる羽目になった。
違うシャンプーの匂いに馬超がどう反応するかは定かではないが、『泥被って銭湯に入ってきた』で乗り切るつもりだ。
馬超に嘘を吐くのは気乗りしない(他の時のアレは、詳細を語らないだけだ)が、正直に話して聞かす訳にもいかないので多めに見て欲しいところだ。
凌統の見送りを断って外に出ると、もう結構な時間になっているようだった。
しんとした街並には、人の気配がない。街全体が死んでしまったかのような印象を受ける。
俺は、一人生きている自分の浮いた感に苦笑いしながら、ふと気付いてシャツの胸元に目を落とした。
ナポリタンの染みが、執念深く残っている。
凌統だったら、この手の染みの落とし方くらい知っていたかもしれない。
聞いておけば良かったな、と小さく鼻を鳴らした。
抜けていった息よりもずいぶん物騒な風切り音が、俺の鼓膜を貫く。
はっと我に返ったせいで、御丁寧に拳をモロに顔面に食らった。
呆けているなら呆けたままでいれば良かった。
俺は、塀に背中をしたたかに打ち付けられ、一瞬呼吸できなくなる。
肺がぐぅっと押されて、破裂寸前まで追い遣られた。
鼻の奥がつんとして、すぐに唇を割って鉄錆臭い匂いがなだれ込む。
あ、鼻血出た、と他人事のように感じていた。
ぼたぼたと、黒い地面により深い黒の水玉が描かれていく。
視界が急展開して、今度は黒い空に白い点々が見えた。
「てめぇ」
唸るような声が顎の先の方から聞こえ、俺は首を軽く捻って声の主を見遣る。
先程の男が、目を爛々と輝かせて俺を睨め付けていた。
「凌統に、何してやがった」
俺は、直感した。
――あぁ、見られた、こいつ、俺と凌統の『前戯』を覗き見してやがった。
そう思った。
たぶんだが、そうなのだという確信があった。
けれども、俺には返すべき言葉がなかった。
凌統に何をしていたかなど、言ってやろうという気も欠片もないし、かと言って言い訳がましい言葉をだらだら垂れ流すのも御免被るところだ。
ただ、男の怒りの根源には少しばかり興味がある。
何に対して、どうして怒っているかによって、凌統の救い難い恋に何らかの救済が望めるかもしれなかった。
我ながら馬鹿の極みだとは思うが、俺は凌統のことを結構気に入っているらしい。
「……何、笑ってんだよ……!」
殴られた。
わずかに口の端が緩むのさえ、男の怒りに油を注ぐようだ。
まぁ、こんな状態でちらとでも笑ってしまった俺が馬鹿だった。殴りたくなっても、仕方ないかもしれない。
「てめぇ、てめぇが、凌統を変にしたのか」
「違うよ」
それだけは、否定した。
それだけは違うからだ。
男は訝しげに眉を顰め、しかし転瞬、素っ転んで半ば倒れていた俺の腹を蹴る。
正確にレバーに直撃する男の爪先に、俺は男の喧嘩慣れの度合いを感じ取った。
ちょっと、ヤバイかもしれない。
これ程喧嘩に慣れた奴が、怒りに我を忘れて俺を痛め付けているのだ。
下手をすると死ぬかもしれない。
「……この」
ひゅっと冷たい風が沸き起こる。
殴られる、こめかみ直撃で、まずい。
途切れ途切れながらフラッシュのように明滅する言葉が、俺の脳裏に閃いた。
ぶつんと掻き消される筈の映像は、俺が目を開けることで霧のように消え失せる。
恐れていた痛みは一向に届かず、俺の視界には滅茶苦茶怒った男の顔が映るのみだった。
ただし、男が顔を向けているのは俺ではない。
「趙雲」
俺が名を呟くと、趙雲は不機嫌そうに俺を見遣り、けれどすぐに男に視線を戻す。
代わりに、男が歯をぎしぎし軋ませながら俺を振り返った。
「……てめぇの、ダチか!!」
「ダチって言うか」
何と言うべきだろう?
歯切れの悪い俺に、趙雲の目が一瞬揺れたような気がした。
あれ、と思う間もなく、趙雲の目は冷たく凝って男を睨め付ける。
視線で縛り付けると言うが、今の趙雲は正にそんな感じだった。
「……下らんことを言うな。警察を呼ばれたくなければ、とっとと失せろ」
「あぁ!?」
男が歯を剥くが、趙雲はまったく動じない。
しばらくきりきり歯ぎしりしていたが、不意に身を翻して趙雲の腕を振り解くと、真っ直ぐ駆け去って行ってしまった。
俺は、この時ようやく神経が繋がったようで、今更ながら受けた痛みに悶絶する。
「……何をやっているんですか、貴方は」
うんざりしたような趙雲の声が聞こえてくるものの、俺はあまりの痛さにとても返事をするどこではない。
涙の滲む目をぎゅっと瞑って、主に痛むレバーを必死に押さえた。
いいのを食らった、などと余裕かましていたが、本当に正確にレバーを蹴り上げられていたらこんなものでは済むまい。
胃液吐いて白目向いて引っ繰り返っていただろうから、俺は冷静なようで全然冷静じゃなかった訳だ。
態のいい現実逃避に、ちょっとばかし玄人っぽく解説を加えていただけの話なのだろう。
うん、どうにも格好が悪い。
「?」
それでも、また一段と間の悪いタイミングで出て来た凌統の方が、俺に取ってはずっとずっと痛手だったと思う。
凌統の家に逆戻りして、俺は凌統といちゃ付いていた(と言い切っていいのかどうかは甚だ疑問だが)ソファに寝かされていた。
幾分かしっとりした感触に、たぶん消臭剤かなんかを撒いて拭いたかなんかしたんだろうと予想が付く。
二回抜いてやったというのに、随分マメと言うか、元気なものだ。
俺は、腹に貼られた湿布の冷たさと、相対して膿んでいくような腹の熱に揉まれて声もなく呻いていた。
相殺してくれればいいものを、ちっともそうならないのが腹立たしい。
俺の膝の辺りに趙雲が腰掛けて、呆れたように見ているのを肌で感じていた。
「大丈夫か? 寒かったら、毛布でも被ってるとか」
凌統だけが、重い空気にもめげず細々と立ち働いている。
分厚い毛布が掛けられ、打ちのめされた皮膚が小さい悲鳴を上げると、後は少しずつ楽になって来る。
あれだけ綺麗に食らってこの程度で済んでいるなら、やはりあの男は喧嘩慣れしていたのかもしれない。
知ってか知らずかセーブしていたのだとしたら、よっぽど場慣れしてるんだと思う。
少なくとも、あの目は俺に憤り、怒り狂っていた。
理由を知りたかったなぁと、改めて思う。
「……で?」
趙雲の声は、あくまで俺に向けられている。
凌統の存在などガン無視で、俺に答えろと無言の内に威圧していた。
「……でって言われると……説明し難いな」
「では、何と言って問い詰めれば正直に答えるつもりです」
問い詰める気か。
俺は、温まって来た毛布の下で、堪えられる程度に変質した痛みに眉を顰めながら、もぞもぞ動いて趙雲を見た。
趙雲越しに凌統の顔も見え、説明するのにどうしても必要な凌統の秘密をどうすべきかと悩む。
「俺が」
「お前に訊いた覚えはない」
気を利かせた凌統が俺の代わりに答えてくれようとするも、ばっさり切り捨てられる。
さすがに気を悪くしただろう凌統に目で合図して、俺は粘付く舌に辟易しながら言葉を綴った。
「……だから……凌統が、さ。俺達と、同じような感じになって。だから」
「だから、何です」
趙雲の声が、俺のもどかしい説明を打ち切った。
意味が分からなくて焦れたのではない。瞬時にすべてを察し、腹を立てての仕業だ。
「だから、貴方がこの男に手解きした挙句、先程の男に見咎められて鉄拳制裁を受けたと、そんな阿呆なことを言うのではないでしょうね、貴方は」
案の定だ。
足りることも余ることもない趙雲の洞察力には舌を巻く思いだが、俺はむしろ、ここまでの事の成り行きを理解してしまった凌統のことが気に病まれた。
凌統は、最初こそはっと青ざめたけれども、こちらも予想はしていたようで、申し訳なさそうに、また悲しそうに俺を見る。
理由の如何によっては喜んでもいいところだが、凌統としてはそんな気にはなれないのだろうか。
俺も幾分複雑な思いに駆られ、血生臭い口内を舌でなぞったりした。
急に寒気が走る。
掛けられていた毛布が勢い良く剥がされたせいだと、俺の鈍い神経は実に数秒掛けてやっと脳に報告してくる。
それに対応するべく脳が指示を出す前に、俺の体は趙雲に抑え込まれていた。
「趙雲」
何をするんだ、と続けたかったが、声が出なかった。
趙雲は優しく笑っていた。
これ以上はないくらい、優しく、恐ろしく笑っている。
「そういうことを教えるつもりなら、中途半端にではなく徹底的にしたら如何か」
強張った声音が、趙雲の中の感情の凄まじさを物語っている。
俺の、最早使えそうにもないシャツが、音を立てて引き裂かれた。
ボタンが飛び、織り込まれた糸が繊維となって宙に舞い、蛍光灯の光を受けてきらきら光る。
まるでストップモーションのようにゆっくり動くそれらを、俺は興味ない映画でも見るようにぼんやり眺めていた。
使えなくなったとはいえ、家に帰るまでは必要な代物だ。
どーすんだこれ、と、至って見当違いな感想を抱く俺は、完全に現実逃避していたのだと思う。
がちゃがちゃ音を立ててベルトを外しに掛かる趙雲に対し、俺でなく凌統が止めに入った。
入って、吹っ飛ばされた。
どんだけ馬鹿力なのかと呆れたくなるが、俺は恐怖に体ががちがちになってて、とてもじゃないが動けそうにない。
動いたら殺られる、みたいな、変な緊張感があった。
正直言って、さっきの男なんか全然目じゃない。
「シャワーも済んでいる辺り、準備万端のご様子」
皮肉にキレがない辺り、本気で怒っていると窺わせる。
下着をずり下ろし、こんな状態でも立ち上がっている命知らずな自分の分身を、情けない気持ちで見遣る。
趙雲が憎々しげに笑い、俺のそれをぎゅっと握る。
痛い。
顔を顰めるも、却って趙雲を喜ばすだけに終わった。にやにやと目が笑わない嫌な笑みを浮かべながら、俺のものに爪を立ててくる。
はっきり言って、スゲェ痛い。
けど、それ以上に趙雲が怖くて何も言えない。
殴られたりするのはないと思う。
思うが、でも、俺はやっぱり今の趙雲が物凄く怖かった。
「……あの……さ……」
凌統が、恐る恐る声を掛けて寄越す。
「……その人……俺の時は、ちゃんと……変な話だけど……勃たなかったよ……」
場違いもいいとこな発言だ。
しかし、趙雲の手から力が抜けた。
俺の体からも、痛みに耐える力が抜ける。
「トイレは」
趙雲が立ち上がり様、凌統に訊ねる。
吐き捨てるかの如くな言い様にも関わらず、凌統は子供のようにぴっと指を差して答えていた。
「お借りする」
短く言い残し、趙雲はトイレに向かった。
残された俺と凌統は、嫌な空気のど真ん中に取り残された。
「……あの人、あんたのこと、よっぽど好きなんだな……」
俺は一先ずずり落ちた下着を上げて、身支度を整える。
破かれてしまったシャツはもうどうしようもなかったが、未練たらしく着ているのも癪に障って、脱いでしまった。
アンダーシャツの上から毛布を被り、ようやく一心地付いた俺は、軽く溜息を吐く。
「うん、そう」
かなり間を空けた返事は、かなり間が抜けている。
凌統も、一瞬意味が分からなかったようだ。
「……あんた、馬鹿だな……」
「うん、そう」
感嘆めいた言葉に、今度はすぐに答えられた。