車を出すという凌統の申し出を断り、俺は趙雲と外に出た。
単純な話、二シーターの車に三人は乗れないという理由もあるが、あんな場面を見られておいて、平然と車に乗せてもらうような厚かましさなど持ち合わせがない。
シャツ一枚ないだけでも、心持ち寒さに差が出る気がする。
前を掻き合わせるようにして、趙雲の後を追った。
俺にはさっぱりのこの街も、趙雲には通い慣れた場所の一つらしい。得意先でもあるのだろうか、等と気楽に考えていた。
「……趙雲、車?」
「いえ」
やけに素っ気ない趙雲の態度が何となく気に掛かったが、今さっきの話だから仕方ないと思えた。
「タクシー、拾うか? 俺、顔がこんなだからさ、電車は厳しいな」
「」
趙雲が足を止めて振り返る。
いつにない厳しい口調に、俺はひょいと趙雲の顔を見遣る。
目と目が合って、沈黙が肌が痛い。
「、私は、一度社に戻ります」
「……あ、うん」
言外に『一緒には帰らない』と宣告され、俺はややうろたえながら頷いた。
心臓の辺りがざわざわしている。
努めて平静を装いながら、次の言葉を探す。
「うん、じゃあ、俺、タクシーで帰るわ」
趙雲は動かない。
それなら途中まで、とか、同乗させてくれ、とかもない。
どうにもならなくて、俺はぎこちなく足を上げた。
「うん、じゃあ……」
のろのろ背中を向けるも、趙雲は口を開こうともしなかった。
そんなに機嫌を損ねるような真似をしただろうか。
まぁ、気持ちを伴わないと言っても、凌統とそんな真似をしでかしたのは事実だから、趙雲が腹を立てるのも当たり前か。
完全に俺が悪い。
ともかく、日を改めようと思いながら、腹の底はずんと暗く重くなる。
一歩二歩三歩、と、元来た道を辿った。
こっちでいいかも分からなかったが、趙雲が一緒にいたくないとはっきり態度に示しているのだから、同じ方向に向かう訳にはいかなかったのだ。
「どうして」
静寂を割り開く声がした。
驚いて振り返った俺の目に、今にも泣き出しそうな趙雲の姿が映る。
それでまた驚いた。
趙雲はとにかく肝が据わっていて、笑うのも怒るのもそれなり静かで幅がない。
こんな風に感情を剥き出しにするなど、早々ないことだった。
言いたいことを言えずにいる風な唇が、寒さのせいでなく細かく震えている。慟哭を堪えているようにも見えて、何故か母親の姿を見失った幼子を連想させた。
「趙雲」
名を呼ぶと、潤んだ目が俺にすがってくる。
何がそんなに悲しいのか。
俺は、引き寄せられるように趙雲の前に戻った。
「どうした?」
問い掛けると、苦しげに目を閉じる。
伸びてきた指が俺の肩に食い込み、結構な痛みをもたらしたが、そこは耐えた。
たぶん、今趙雲が味わっている心の痛みは、俺の倍かそれ以上だと思えたからだ。
「……どうした?」
俺のことだと思う。
けど、たぶん凌統とのどうこうとか、そういうことではないように思えた。
それだったら、今頃こんな風になってないと思う。俺があいつに殴られてる時とか、凌統とのことを暴露した時とか、その時点で腹を立てて行動に出てると思う(まぁ、凌統の前で俺のものを露出させたのが怒った証拠と言えば証拠だが)。
何にこんなに打ちのめされているのか、申し訳ないが俺にはよく分からない。
だからこんな風に、愚直に問うことしか出来ないで居る。
曲がりなりにも『接客業』に就いていた身でこの体たらくな訳で、それはそれである程度落ち込む要因ではある。
ただ、俺のことよりまず趙雲の方が心配だった。
「趙雲」
再度呼び掛けると、趙雲が目を開けた。
勢い、涙が零れ落ちるのを見た。
無駄のない頬のラインを伝う涙が、とても綺麗だ。
「どうして、貴方はそうなんです」
普段の冷静さなど微塵も伺わせない、感情のままに荒げた声で趙雲は俺に詰め寄ってくる。
何を問われているか分からなくて、俺は困惑して沈黙を守った。
趙雲はお構いなしに、俺の肩を掴む指に更に力を込めて詰め寄る。
「どうして、ですか。何故変わらないんです。やっと、これでやっと何かが変わると、そう思っていたのに、どうして貴方は変わらないんですか」
持て余した熱を叩きつけるような、切羽詰まった言葉だった。
ずっとずっと、言いたくて言えずにいた言葉を、最大の勇気を振り絞って吐き出したと言わんばかりに、趙雲の呼吸は酷く荒い。
俺は、ただ、困っていた。
どうしようかと、どうするべきかを考えて、でも思い浮かばなくて、ただ困惑する。
俺が『本音』を吐き出して、本当は失うのが怖いと、捨てられることが恐ろしいのだと認めて、そして趙雲は何かが変わると思っていた。
何も変わらないと、変わらなかったと苛立ち、焦れて、俺を問い詰めている。
にも関わらず、俺に返す言葉はない。
何故ならば、と敢えて示すとしたら。
「……俺は……さ」
言い難い。
でも、言うのを止めるつもりはない。
「俺は、結構、お前に甘えてるつもり、だったんだけど」
もしも以前の俺なら、こんなことは決して言わなかったと思う。
去るなら去れ、通り過ぎたければ過ぎろというのが、俺のモットーというか、『基本』だったからだ。
そうしようと思ってしている訳でさえなく、自然にそういう風にしていた。
だからこそ、趙雲や馬超に捨てられるのが怖いと思ってしまった時、俺はあれほど愕然とした挙句醜態をモロに曝した次第だ。
自然にしていたことだから、突然改心して何もかもを変えられる筈がない。
だが、俺は馬超に昼飯を取られまいと早々にかき込んだりするようにはなった。こんないじましい、けれど楽しい真似を、俺はしたことがない。
ナポリタンが惜しかったのでは決してなく、失言した馬超をやりこめるべくリゾットを取り上げた馬岱のおふざけに乗ってみたかっただけなのだ。
そんな心境に、俺は初めてなっていた。
あまりにも小さな変化だったが、俺にとっては大きな変化だ。
何も変わってない訳じゃ、ない。
趙雲の言いたいこととは違っていたかもしれない。
それでも俺は、心から楽しんでいたこのささやかな変化に水を差されたような気になって、少しばかりささくれ立つ。
こんな気持ちも、俺には新鮮で目新しいのが、何だかなという気持ちでもある。
妙に申し訳ない気持ちになって、沈黙に押されるように足が退く。
回れ右してよろけるように進み出した俺だったが、何かにひっ掛かったように動けなくなった。
あれ、と目を向けると、俺のコートを誰かが掴んでいるのが見える。
誰かというか、趙雲しか居ないのだが、俺はその手の存在を理解できずにいた。
何故引き留められたのだろう。
怒って、であれば、殴られる。
マゾじゃないんだから、殴られて嬉しい筈もなく、俺は反射的に身を庇っていた。
趙雲が飛び掛かってくるのが見えて、思わず目を瞑る。
「」
俺の名を呼ぶ趙雲の声が、耳の極近くから聞こえた。
吐息が触れる距離に、俺は趙雲に抱きかかえられている恥ずかしい自分の現状を見い出した。
「おい、趙雲……」
これは幾らなんでも恥ずかし過ぎる。
家の中ならまだしも、夜とはいえ街中の話だ。
いつどこから人が出てくるとも限らず、ついでに言えば趙雲の取引先もここら辺の筈だろう。
「趙雲、マズい、マズいって」
焦る俺の口が、塞がれる。
マズいって言ってんだろうが。
押し付けられた腰に熱が唸っているのを感じて、どうしたものかと途方に暮れる。
「お前、会社に戻るって」
唇が外れた瞬間を逃さず、息を弾ませながら突っ込みを入れる。
趙雲の眉が不服げに歪んだ。
「……は?」
「俺?」
そりゃ、帰るしかないだろう。
「帰さない」
趙雲の手が俺のコートを引っかき回し、ぐちゃぐちゃにしていく。
もう、何が何だか分からない。
趙雲は、いったい何を駄々こねてるんだ。
「好きです、。好きです。今すぐ、したい」
幾つだお前、と問い掛けて、未だ二十代半ばだと思い返す。
妙に年不相応に落ち着いてたり出世が早かったりで忘れがちだが、趙雲は世間一般で言うところの『青臭い若造』なのだ。
じゃあお前は何だと言われると耳が痛いが、俺は一応、夜の街に身を沈めていた(とか言ってしまうと、如何にも古めかしいが)人間だし、それ相応に擦れていても仕方がないじゃないか。
「」
我に返ると、趙雲が憎々しげな目で俺を睨んでいた。
意識がすぐに逸れるのが、俺の悪い癖だ。
「……、して下さい」
趙雲の手が俺の手を取り、スラックスの下で凝る肉に導く。
「ここじゃ、まずいって」
何度も言うが、住宅街のど真ん中なのだ。
住人は元より、巡回中のお巡りさんにでも見付かったら、どうする気だ。俺は、未だにあの紺色の制服を見ると落ち着きがなくなる。
趙雲は、不平たらしく唇を突き出したが、その形のまま俺の口に重ね、にやりと笑った。
「では、今夜はうちに泊まって下さい。それなら、いいでしょう?」
「馬超は」
「放っときなさい」
皆まで言わせず、きっぱり言い放つ。
怒っていいのか呆れていいのか、分からない。
「……えっと」
「放っときなさい」
趙雲の言う通りにすると、明日酷い目に遭わされるのは間違いなく俺な訳なのだが、その点趙雲はどう考えているんだ。
俺の疑問に、趙雲は至極あっさりと答える。
「そんなことは、私の知ったことではありません」
えぇー。
「貴方が悪い」
言い切られてしまえば、確かにその通りだ。
それでも、何となく納得し難くて、俺は口をへの字に曲げる。
途端、ぴりっと刺激的な痛みが走った。
「……趙雲、俺、顔、こんななんだけど」
指先で恐る恐る触れれば、腫れているのだろう、かなり熱を持っていた。
「気にしません」
やはりあっさりと突き放された。
「と言うか、気になりません。は、であればどんなでも私は大丈夫です」
あんまり嬉しくない。
「……死体でも?」
「死体でも」
嫌みを含めてギャグを飛ばすも、趙雲には通用しなかった。これまたあっさり言い返されて、俺の凹みは深度を増す。
「さぁ、早く帰りましょう。冗談抜きで、凄いことになってますから」
どこからどこまでが冗談なのか全然分からないが、このまま立ち尽くしていても仕方がないので、趙雲の手にはまってやることにした。
唯一、否、唯二で有難かったのは、外気が冷たくて、俺の顔の腫れを冷ましてくれることと、顔が赤くなってもばれないことだった。