落ち着かぬまま終業時間を迎え、頃合を見て人気のない場所を探してうろついた。
 歩いている内に食堂にあるラウンジまで辿り着き、隅に置かれた観葉植物の陰に隠れるように陣取る。辺りを見回してから携帯を取り出した。
 紙片(名刺だった)を見ながら、そこに印刷された番号を押す。
 彼女はTEAM魏の所属で、甄姫と言うらしい。常務秘書と言う肩書きが妙にそぐわしく、俺は却って憂鬱な気持ちにさせられた。
 常務秘書様が俺などにいったい何の用事だというのだろう。
 あのひとが俺に『ご奉仕』を望んでいるとは到底思えない。これから解剖する実験動物を観察しているかのような、何処かひんやりとした視線がそのいい証拠だ。
 侮蔑と言っていいあの目で、俺に何をさせようとしているのだろう。
 むしろ関わり合いになりたくないと、避けられるのが自然のような気がした。
 携帯が繋がるまでの短い間、俺はそんな埒もないことを考えていた。
『はい』
 優しげな、落ち着いた声だった。
「……あの……」
『ああ、貴方でしたの。遅かったですわね、何をしてらしたの?』
 がらりと声音が変わる。周囲には誰も居ないようだ。居たら、この変わり身の早さに仰天しているに違いない。
「仕事が終わるまでは、さすがに私用電話って訳にもいかないもんで」
『あら、感心ですのね。それはともかく』
 ともかくと来た。
 今すぐTEAM魏のフロアまで来いと言いつけられ、俺は口を歪めた。
 声は出ていないはずだが、女の第六感で嗅ぎつけたものか、甄姫はやや声を強張らせてもう一度同じことを繰り返した。
 俺はおざなりに了承し、返事も待たずに通話を切るという無礼を仕出かす。
 大体、俺の方には確かに借りのようなものがあるが、俺から希ったものではない。感謝するのはむしろオーナー達責任者の方で、こんな風に俺が命令されるようないわれはないはずなのだ。
 その節は有難うございました、礼もそこそこに行方をくらますような真似をして申し訳ありませんでした……と、これで済むような話だと思うのだが違うのだろうか。
 一流だのトップクラスだのと言われる企業の常務秘書が、やくざ紛いのやり口で俺に命令してくることに、俺は段々嫌気が差してきた。
 ホストをしていた俺の過去が職場に悪影響を及ぼすというなら、今すぐ辞めてもいいと思っている。仕事にもようやく慣れ始め、楽しくなりつつはあったが仕方ない。
 ある程度は覚悟していたことだし、劉備専務には申し訳ないが、職場に迷惑は掛けられない。
 何より、こんなうざったい話は俺の方で御免被りたかったのだ。
 決着を付けてしまおうと、俺は大股で魏のフロアを目指した。

 社内最大級のTEAMのフロアにしては、やけに人の気配がしない。終業時間を過ぎているとは言え、残業だ何だと居残りしている社員はいないのだろうか。
 フロアの入り口で首を傾げていると、突然背後から呼び掛けられて心臓が止まりかけた。
 慌てて振り返ると、皮製の細身のブリーフケースを下げた、如何にも営業然としたスーツ姿の男が立っていた。
「何か御用か」
 繰り返され、俺はしどろもどろになりながら、それでも常務秘書から呼び出された旨を申告した。
 男は、俺を見定めるように視線を流して寄越すと、改めて俺に誰何してきた。
 適当な返事をすることなど許されそうにない、冷たく険しい視線だった。
 フロアに入り込んだわけでもないのに、何故こうも厳しく詮議を受けるのか理解できない。同じ会社の人間だろうと吐き捨てたくなったが、TEAM同士で仲のいいところはほとんどないと聞いているから、これも本来なら極当たり前のことなのかもしれない。
 内勤の、パソコンの打ち込みやら資料作成が主な仕事で、外部はおろか社内をうろつくこともほとんどない俺には理解が出来ないことではあったが。
「俺は」
「張遼部長。その者は通して結構です」
 何処から現れたのか、甄姫がそこに立っていた。
「しかし」
「良いのです、常務からお許しが出ておりますから」
 甄姫は俺を手招くと、顧みもせずに足早にフロアの奥に向かう。
 俺抜きでとんとんと話が進む。張遼と呼ばれたスーツ姿の男は、動こうとしない俺の背を押して、中に入るよう促した。
 腹を立てて帰ることもできなくなり、俺は半ば強制連行されるように魏のフロアへと足を踏み入れた。
 入り口からは調度品や背の高い観賞植物に邪魔されてよく見えなかったのだが、驚いたことにフロアの中に人は居なかった。
 人が居ないと言っても、蜀のように人が足りなくて皆出払っているという感じでもなく、どうも終業時間とほぼ同時に全員引き上げてしまったものらしい。
 整然としたデスクの並びには人が使っている証の精気の残照みたいなものが残っていて、何となく放課後を過ぎた学校の教室を思わせた。
 張遼はフロアの途中で俺から離れ、自分のデスクらしい、他の物より一回りほど大きな机に向かって歩いていった。
 あの若さで部長と言っていたから、かなりの実力者なのだろう。
 俺は張遼を見遣りながら、離れつつある甄姫の後を追った。

 広いフロアを抜け、左右にドアが並ぶ廊下を奥に進む。
 どん詰まりに近い辺りで、甄姫が足を止めた。
「お入りなさい」
 重量感のあるマホガニー材のドアを開いて、俺に入室を促す。
 何となく、嫌だった。
 どうしてそんな風に思うのか知れない、とにかく俺は、ドアを潜るのも、その中を覗き込むことさえも嫌だった。
 立ち止まったまま微動だにしない俺に、甄姫はこれ見よがしに眉を顰めてみせる。
「何をなさっているの、早くなさい」
 きつい叱咤の声にも、俺は頑然として動かなかった。
 痺れを切らした甄姫は、ドアを押さえていた手を離し矢庭に俺の手を取り引き寄せようとした。
 男の俺が強情を張って動かずに居るものを、甄姫の細い手でどうにかできるものでもない。
 聡い彼女もすぐにそれと悟り、俺のことを憎々しげに睨め付けてきた。
「……ここまで来て逆らおうと仰るの。せめて、そのなけなしの誇りを保たせて差し上げようという心遣いがわからないのかしら」
 そんな気遣いなら無用だ、と俺は一歩退いた。
 付き合う必要もない、これは茶番だと自分に言い訳して、ともかくこの場を逃れようと思ったのだ。
 肩口に何かがぶつかった衝撃で、俺は退路を絶たれたことを察して立ちすくむ。
 いつの間にか近付いてきていた張遼が、俺を冷たく見下ろしていた。
 張遼に掛かれば、俺はそこら辺のごみ屑と変わらなかった。軽々と引き寄せられると、そのままドアの中へと押し込まれる。
 無様に床に転がり落ちると、その目の前でドアが閉められた。
 未練がましくドアを凝視する。
 あるいは、中に居る『彼』を見たくなかったのかもしれない。
 身動ぎ一つすれば視界に映るやも知れず、映れば『彼』を認識せざるを得なくなる。
 にっちもさっちもいかなくなって、俺はその場にへたり込んだまま、ドアを見詰め続けた。
 空気が揺れた。
 微かに笑う、その吐息のせいだった。
 背中に熱した油をぶちまけられたように、皮膚がかっと熱く燃え盛った。
「……相変わらずの意固地だな」
 かたん、と小さな音がした。
 椅子から立ち上がったのだろう。
 体が沈むほど柔らかな感触の絨毯は、足音を綺麗に消してしまう。それなのに、彼が近付いてくるのが何故かリアルに伝わってくる。
 俺はそれほど気配に敏感というわけではない。『彼』だからだろうか、と馬鹿な考えを思い浮かべて首を振った。
 無言で差し出された手が、俺の視界の中に無遠慮に入り込んできた。
 手だけで分かる。
 結構な時間が経っていた気もするのに、どうして俺は未だにこの手を忘れていないんだろう。
 泣きたくなるような衝動に駆られ、俺は固定したままだった顔の向きを不意に『彼』に合わせた。
 『彼』…あの人は、昔と何ら変わらぬ様子でそこに立っていた。
 最後に誘われたあの時のまま、二の腕を掴まれ軽々と引き起こされる。
 俺もこの人もあれから年を食って、少しは変わったはずなのに、俺は記憶の中に滑り込んでもう一度あの時をやり直しているような不思議な感覚に囚われていた。
 引き寄せる力が強過ぎて、俺の足元がよろける。勢いあまって胸元に飛び込むような形になり、耳元に吐息が触れるほど距離が近くなった。
――後で、いつもの場所で。
 記憶に刷り込まれた声が蘇る。
 けれど、俺の鼓膜に吹き込まれたのはまったく違う台詞だった。
「ようやく返ってきたか」
 台本どおりに進まない寸劇のヘボ役者のように、俺は驚きの余りアドリブを入れるのも忘れて目を瞬かせた。
 こう言うもの、と思い込んでいただけに、冷たい声に心臓を握り潰されるような怖気が走る。
 顔と顔が近くなり、俺は焦った。
 腕にすべての力を篭めて突き飛ばすと、勢い余って床に転がる。尻餅をついた痛みも構えず、飛び起きようとした俺の足に何かが引っかかってつんのめった。
 低い位置にあった肩を蹴り飛ばされ、重心を失った俺は無様に転倒した。
「逃がすと思ってか」
 今度は手を差し伸べることもなく、固い靴底で俺の鳩尾の辺りを踏みにじっている。
 見上げた角度から見る『彼』の顔は、昔以上に冷徹で近寄りがたい印象だった。
。私の元から何故逃げた」
 逃げたのではない。
 けれど、どう言い繕っても聞く耳は持つまい。
 何と言葉を繋げていいのか分からずに、俺は無言を守った。
 踏みにじる足に力が加わる。鳩尾から鈍い痛みが伝わってきた。
「曹丕」
 許しを請うようなへたれた俺の声に応えて、曹丕は緩やかに笑った。


  

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