女にとって初めての男はかけがえない思い出となるらしいが、俺にとってはただの通過点だったように思う。
 思いたかっただけかもしれない。
 再会した曹丕はあまりにもそのまま過ぎて、俺の感覚を狂わせていく。
 今が何年で、ここが何処なのかということも瞬時に消え去った。
 足蹴にされていることも忘れ、ぽかんと口を開いている俺を、曹丕はただ口元を歪めて見下ろしていた。
 どこまでも不遜で、自らを貶めることがない。
 今にして思えば、そんな曹丕が何故俺に構ってきたのかが分からない。

 学生の頃の俺は、いつも何処か遠くを見ていた。家も学校も、どうしてか俺が居るところじゃないと信じて疑わなかった。
 暴言を吐きもせず暴れもせず、かと言っておとなしく授業を受けることもない俺は、一風変わった不良(言い方は古いが)として教師達にもホントの不良達にも目を付けられていた。
 一人で居ることが不思議と怖くなかった。むしろ一人で居たい、誰とも接触したくないと感じていたように思う。
 授業中の屋上、給水タンクの影が俺の一番好きな場所だった。
 あまり綺麗な場所ではなかったが、死角にもならないからか不良達が溜まることもない。
 そこで煙草をふかすのが俺の唯一の楽しみで、よく晴れた日に空を見上げ、青い空と薄い灰色の煙のコントラストを見るのが好きだった。
 ぼんやりとしていた俺は、不意に誰かの影に包まれた。
 日差しを遮った長身の持ち主こそ何を隠そう曹丕であり、俺達の最初の出会いだ。
 曹丕から、偉そうな、まるで警官のような高飛車さで『何をしている』と問いかけてきたのが始まりだった。
 煙草をふかしている、と答えると、体に悪いと指摘された。叱られたというよりは、煙草が人体に害があるという事実を発表しているような態だった。
 うん、でも、ふかしてるだけだから。
 俺が強固に主張すると、彼もまた強固に指摘してくる。
 周りの人間の方が、より強い害を受ける。
 俺が『周りの人間』を求めて辺りを見回していると、曹丕は俺が咥えている煙草を取り上げ、給水タンクに押し付けた。じゅ、と甲高い悲鳴を上げて、煙草の火が消される。
 ちょうどそこに教師がやってきて、俺達を見咎めた。授業中に何をしているか、と、極当たり前に叱り付けられた。
 正確には、叱られたのは俺だけだった。
 曹丕は、家の都合で遅刻して登校して来たのだが、屋上に居る俺を認めてここまでやって来ただけだった。
 加えて、手にした吸殻は俺が咥えていたのを消しただけで、曹丕が吸っていた事実はない。
 本当のことではあったが、曹丕がそう主張しただけで、職員室に居た教師達は軒並み頭を下げて寄越した。要するに信用があるのだろう。
 信用のない俺は、叩かれ、ど突かれて生活指導室に連行されかけた。
 俺も当たり前だと思っていたし、教師達も当たり前だと思っていた。
 それを留めたのは、曹丕だった。渋る教師達に、自分が保障するからと言って俺を職員室から連れ出した。
 信用があるだけではないと薄々察した俺は、職員室前の廊下で立ち去りもせず黙って曹丕を見詰めた。
 媚びようと思ったわけではない、どうしてこんなことをするのか、その真意を見極めたかったのだ。
 礼を言え、と言われて、何で、と返すと、曹丕は目を顰めて俺を睨め付けた。
 やっちゃいけないことをしたんだから、叱られて当たり前だろう。叱られずに済んだ、と安心するのは無罪の人間だけであるべきだと言う俺を、曹丕は長いこと馬鹿にしたような目で見ていた。

 ともかく、それを契機に俺と曹丕の付き合いが始まった。
 時折目を合わせるだけの、知人と言うよりは顔見知りと言うに相応しい縁遠い仲だったが、少なくとも俺達は赤の他人ではなかった。
 俺は相変わらず紐のついていない風船のような生活をして、曹丕は教師達の信用厚い優等生を続けていた。
 ある日、俺が不良達に絡まれて、彼らのやるせない情熱の迸りをこの身に受ける羽目になった時(簡単に言えば囲まれてボコボコにされた時)があった。
 何故か曹丕がひょっこり現れて、不良達を押しのけて俺をその場から連れ出してくれた。
 教師だけでなく不良達にも顔が利くのか、と、俺は曹丕に背負われながら、ぼんやりと考えていたものだ。
 曹丕は、親が不在がちだという自宅に俺を運び入れ、怪我の手当てをしてくれた。
 何故おとなしく殴られていた、と尋ねられ、抵抗したらもっと殴られると言った俺を、いつもの小馬鹿にした目で見下ろす。
 顔の腫れが引いたので、お礼に(と言いつつ、俺の腹が減っていただけだったのだが)簡単な夜食を作って曹丕と二人で食べた。
 この時、初めて曹丕の俺を見る目が変わった気がする。
 でも、その困惑したような目はこの時一度きりで、それ以降見ることはなかったのだが。
 それ以来、何かに付け曹丕は俺の前に現れた。
 一言も口を聞かず、ただ並んで座っているだけのこともあった。
 何でだろうとも思わなかった。
 教師達との口約束を忠実に守っているだけと言えばそれまでだったし、俺の思い込みかもしれなかったが、曹丕は俺のことが好きなんじゃないかと思っていた。
 男同士なのに、おかしな話だ。
 俺自身は、気持ち悪いとかはまったく感じなくて、だから自分がバイなのかな、と意識したのもこの頃だったように思う。
 けれど、曹丕の存在は俺の思考行動にも影響して、いつも一人だった俺にも友達めいた知り合いが増え、授業にも時折だが顔を出すようになっていた。
 逃げたかったのかもしれない。
 気持ち悪いと感じてはいなかったわけだが、と言って曹丕を受け入れようと思っていたわけでもない。理由は定かではないが、何処かへ行きたいという夢想じみた願いは、曹丕から逃げたいというしっかりとした形を取っていた。
 俺には曹丕が居なくても大丈夫だという、積極的とは言い難い逃避を曹丕が許してくれるはずもなかった。
 誘われて、世話になっているからとのこのこ付いて行った俺を、曹丕がどう思ったか知らない。
 女とは二三度寝て童貞は捨てていた。初体験は大した感動もなく、こんなもんかと思っただけだった。相手も俺も子供だったし、下手だったのだろう。
 曹丕も、上手くはなかったけれど、女の子達とは何かが違った。
 セックスがスポーツなどではなく、もっとえげつなくてもっと高尚な行為なのだと教えてくれたのは、曹丕だったと思う。
 俺の体を何度となく嘗め回し、アレを扱き上げては白く濁った粘液を吐き出させ、俺を泣き喚かせては薄く笑っていた。
 曹丕の執念深い愛撫が、俺の日常生活にも及んだ時、俺は曹丕から逃げ出した。
 逃げ出したというか、傍にいられなくなったと言った方が正しいと思う。何時でも小姓のように曹丕の手元に置かれることに困惑したのだ。俺は彼の小姓ではないし、彼の取り巻きが好きなわけでもない。
 彼とその取り巻きに合わせてちんぷんかんぷんな話を聞かされるのも苦痛だったし、そも彼に合わせて生きるということ自体が俺には考えられなかった。
 俺は、いつか何処かへ行くのだから、曹丕の行くところへは行けない。
 そんな風に感じていた。
 俺は曹丕を避けるようになり、お気に入りの場所にも行かなくなった。学校ではなく公園や街中のファーストフード店でぼーっとしていることが多くなった。
 学校と言う領域を抜ければ、曹丕との関わり合いはとても希薄だった。
 それに気付いた俺が学校から遠ざかるようになると、曹丕との関係は更に希薄になり、俺が誰にも言わずに家を出たのを契機に完全に絶たれた。

 それだと言うのに、どうして俺は曹丕と向き直っているのだろう。
 自分が置かれた体勢が、曹丕と俺の関係を如実に指し示しているように思えた。
 鳩尾に乗せられた足は、けれど体重が載っている訳ではない。だから俺はさして苦しくはなく、苦しい体勢でいるのはたぶん足を浮かせているも同然な曹丕の方だろう。
「何で、今更」
 ぽつりと呟いた俺に、曹丕は薄笑いをやめた。
「今更? 今更私の前に現れたのは、誰だ」
 現れたのではなく、呼びつけられたのだ。文句があるなら、甄姫に言えば良かろう。
 への字に曲げた口元のみで俺の言いたいことを察したのか、曹丕は再びその足に力を篭めた。
「お前だ、。お前が私の前に現れたのだ。……あの日、お前を見た私がどれだけ驚いたか、お前は知るまい。相も変らぬ腑抜けた顔で、私の前に現れておいて何を」
 怒りを押し殺したような声が、俺を殴りつけるように襲い掛かる。
 何処かで会っていたのだろうか。知らぬ内に再会を果たしていたのだろうか。
 いくら考えても思い出せない。
 うろたえだした俺に焦れたのか、曹丕は足を退けると俺の胸元を掴んで引き摺り起こした。
 手近にあった革張りのソファに投げ落とすと、当たり前のようにネクタイを引っこ抜かれた。そのタイで、俺の手首を背中で拘束してしまう。
 早業と言うこともあったが、俺が放心して為すがままだったのが阿呆だ。
 慌てて外そうともがくが、ぎちぎちと言うばかりで外れそうな気配もない。
 曹丕は悠然と俺の傍らに腰掛け、焦ってもがいている俺を見下ろす。ワイングラスの一つもあれば、狩の戦利品を前にした貴族の風情だったろう。
「あれから、お前は何人の男を相手にしてきた。何人の女を抱いてよがらせた? 口は塞がずに置いてやる、言え、。私に、包み隠さず申告しろ」
「何で」
 あくまで言うことを聞こうとしない俺に、曹丕は短気を起こすこともなく俺のスーツを暴いて寄越す。
「……仕立ての悪い安物のスーツだ。こんなものを身に着けるな。お前は、もっと己に相応しいものを着けろ」
 難癖を付けながら、手馴れた風に俺の服を剥いでいく。
 俺はどっと冷や汗を掻きつつ、何故か金縛りにあったかのように動けずにいた。
 胸元から腿の辺りまで、本来隠さなくてはならない箇所が剥き出しにされる。項垂れた肉に曹丕の指が絡みつき、いたぶるように撫でまわす。
 反応は薄いのに、曹丕は知ったことかといわんばかりに飽かず撫で回している。確認しているようにも見えた。
「曹丕」
 びくびくしながらも声を掛けると、俺の下半身をじっと見詰めていた曹丕が顔を上げた。
「何人抱いて、抱かれた。……ホストをしていたそうだな。何故、そんな下劣な職を選んだ。金に困ってか。ならば、何故私のところに来なかった」
「俺は、下劣な仕事だとは思ってないよ」
 今でもそうは思っていない。あれはあれで大変な仕事なのだ。もっとも、曹丕に分かれと言うのが無理かもしれないが。
「生きる為に、俺がこれをやろうって決めた仕事だ。俺の、天職だと思った時期もあるよ。これしかできそうにないって。お前がどう思おうとお前の勝手だけど……」
「ああ、私の勝手だ。勝手にさせてもらおう」
 曹丕が俺にキスをする。押し付けられる冷たく潤んだ感触に、俺は目を閉じないように眉間に力を篭めて堪えた。
 口付けを交わしている間に、冷たかった唇にも温もりが宿った。代わりに、俺の唇からは熱が奪われ冷めていく。
 どうしたいんだ、と俺は戸惑った。
 かつての『裏切り』を責めたいのか、それともあの頃を取り戻したいのか。そも、あの頃の俺達の関係が正常だったとも思えない。曹丕は何を望んでいるのだろう。
 答えは、曹丕が直接くれた。
、異動願いを書いて来い。私の元に、TEAM魏に入れ。昔のように私の隣に来るのだ」
「嫌だ」
 要求が露骨で、その分俺も気兼ねなく断れた。
 曹丕の眉が歪にたわむ。
「俺、あんたの傍には居られないよ」
「……私の傍に居られないと言うなら、今すぐこの会社を辞めさせてやる。それでもいいのか」
 いいよ。
 答えを口にした瞬間、盛大に殴られた。馬乗りされてるのと変わらないから、避けられないし逃げようもない。
 いいのをしたたかにいただいて、俺は瞼に火花が飛び散るのを見た。
「許さん、お前は、私の元に返ってきたのだ。もう逃がさん、逃すつもりも毛頭ない。お前は私の元に居るのだ、いいな」
「嫌だって」
 また、殴られた。
 殴られれば殴られるほど、俺の気持ちは冷えて固まっていく。
 馬鹿な遣り取りを数度繰り返した後、突然曹丕の動きが止まった。
 腫れ始めた目で見上げると、張遼が曹丕の腕を取り押さえている。無言で、いけない、と諭すように首を振っていた。
 曹丕は俺の上から降り、代わりに張遼が俺を見下ろす位置に来た。
「このままお返しするわけには行かぬ。申し訳ないが、ご同行願おう」
 何処へと問い返す気力もない。何処だろうと強制連行される事実には変わりがないのだから。
 目を閉じて顔を背けた俺を、曹丕がじっと見ている気がした。


  

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