黒塗りの馬鹿でかい車に乗せられ、俺は曹丕のマンションに運ばれた。
 会社の駐車場は地下にあり、エレベーターさえクリアしてしまえば後は人気もなく、見られる心配もないという按配だった。
 そんなわけで、誰かに会わないかという俺の密かな願望は、曹丕のマンションでも叶えられることはなかった。
 目撃者一人作れず、俺は身勝手に殴られて腫れた面を晒し、更に不貞腐れていた。荷物は会社に残してきていたし、携帯以外は何も持っていないという体たらくだ。
 そも、ここが何処かも分からない(車の窓には濃いスモークが張られていて、外が良く見えなかったせいもある)から、不安は割増で膨れ上がった。
 曹丕は、玄関に入るとそのまま奥に進んで戻ってこない。
 一緒に着いて来た張遼も曹丕の後を追い、俺は甄姫に手を引かれてソファに腰を下ろした。
「俺をどうしたいんだよ」
 自棄になり、どうにでもなれと投槍に問いかけたが、甄姫は冷たい視線をちらりと投げて寄越しただけだった。
 甄姫は部屋に設えられた棚から四角い箱を取り出すと、それを下げて俺の近くに戻ってきた。中には薬やらガーゼやらが使われた形跡もないまま綺麗に収められている。救急箱だった。
 俺の顔を強引に自分に向かせると、酷く乱暴に手当てを施す。痛みに眉を顰めてしまった。
「自分でやるよ」
 俺が甄姫の手を押さえると、汚らわしいと言わんばかりの勢いでぱっと振り払われてしまった。
 まぁいいや、とガーゼに消毒液を浸し、ひりひりとする口の端を軽く押さえる。見た目は派手かもしれないが、この程度ならすぐに治りそうだ。一日二日で完治と言うわけにはいかないだろうが。
 馬超をどう誤魔化すかと考え込んでいると、甄姫が隣に腰掛けた。
 女心が複雑なのは分かっているつもりだが、このひとはずば抜けて複雑なようだ。
 ホストクラブで見せた愉しげな表情と態度が、今、こうして隣で腰を下ろし、悩ましげに眉を顰めている姿と重ならない。
「……貴方、我が君といったいどんなご関係でしたの」
 我が君とはまた、ずいぶん古風な言い様だ。
 だが、耐え難いと言った風情で漏れた言葉は茶化すこともはばかられるような、力なく悲しげなものだった。
「どんなと言うか」
 何と言ったらいいのか、俺にもよく分からない。学生時代、同性ながら体を合わせた仲、それは確かなのだが、それだけと言っていいものかどうか。
「俺の方が、よく分かってないかもしれない。俺、曹丕とはもう終わってるつもりだったし」
 通りすがりに起こした、曹丕の気まぐれ。
 そう受け止めたかったし、そうとしてしか納得がいかなかった。何もかもに恵まれた曹丕が、俺にすがりついてくるわけがない。
――後で、いつもの場所で。
 懇願されたと俺は取ったが、果たして本当にそうだったのかはイマイチ自信がない。屑の癖に言うことを聞かない俺に焦れたのかもしれないし、最後のチャンスだぞと慎重に言い聞かせていただけだったのかもしれない。声が震えていたから『泣きそうだ』と思ったけれど、顔を見たわけじゃないから確とは知れない
 あの時の俺は、とにかく曹丕が怖かった。
 嫌いではなかったけれど、いつか曹丕に鎖で繋がれる日が来るかもしれないと感じていたように思う。何処かに行くつもりでいた俺には、それがとても恐ろしかった。
 本当はどうだったかな、と思い詰めれば詰めるほどよく分からなくなっていく。特に、曹丕といた頃の俺は薄のろに近い愚鈍さでぼんやりしていて、思考という思考を放棄していたようなところがあった。
 記憶なんて曖昧で、朧だ。
 俺はそれでいいと思っていたし、そも無理して続けようと思った関係は一つとしてない。
 望んだのは、『馬超』だけだ。
 だから、曹丕のことは俺の中の思い出というゴミ箱に沈んでいくだけだった。
「……貴方を見た時の我が君のお顔を、私は忘れられませんわ」
 急に車を止めさせて、真っ青な顔をして窓の外を見遣っていたそうだ。唇が戦慄き、まるで過去に殺した人間の亡霊を見てしまったかのような挙動不審ぶりに、甄姫は職務中だということも忘れ曹丕を抱き締めた。
「肩が、可哀想なぐらい震えてらして……」
 見かねた甄姫は車を降り、俺を追ったそうだ。
 よく俺を見ていたと分かったな、と首を傾げると、曹丕が小さな声ながら俺の名を呟いたからだという。
「貴方とその時一緒に居た、馬超とかいう男。貴方の名前を連呼しながら社内に入っていくのですもの、分からない方がどうかしていると思いますわ」
 納得して、ふっと思い当たった。
 甄姫がホストクラブに乗り込んできた日、その前に俺はK.A.Nに来ていたのだ。そこで劉備専務に面会して、では、あの黒塗りの車、あれに曹丕が乗っていたのだ。
 どっと疲れを感じ、俺はソファに身を沈めた。心地よい革の感触と共に俺の体は深く沈んでいくが、疲れは軽減されることなくむしろ増していくような気がして仕方がない。
「……着けたんですか、俺のこと」
 甄姫は屈辱に頬を染めながら、小さく頷いた。
 このひとと曹丕の関係は分からないが、恐らく男女の仲になっているのは違いない。
 嫌だったろうな、と思うと、それまでの甄姫の行動がすべて許せる気がしてきた。
 好きな男の、昔の『男』を追い回す。
 口で言うほど容易に出来ることではないだろう。屈辱だろうし、情けないだろうし、悲しいはずだ。
 あの時、あんな修羅場に出くわした俺を、ざまを見ろとせせら笑っていることもできたはずだ。敢えて調停に乗り出したのは、甄姫のプライドの高さ、そして恐らく、曹丕への愛情の現われでもあったのだろう。
「貴方の所在を告げると、我が君はそれは驚かれて……ご不興を買ったかもしれないと思うほど、酷くお怒りのご様子でしたわ。でも、私が翌日、今一度貴方を訪ねてここにお連れしますと申し上げたら、逡巡されて……でも頷かれて……」
 それなのに、俺は辞めてしまっていたわけだ。
 オーナーは、あの業界でも口が堅いと評判の人だ。不義理な俺のことだとしても、個人情報は決して漏らすまいし、実際漏らさなかったのだろう。
 俺の携番はJくらいしか知らないし、後腐れないように電源落として、翌日速攻で解約したから連絡の取りようもなかったはずだ。
「初めて、叩かれましたわ」
 ぎょっとした。
 それまで、不機嫌になることはあっても決して手は上げない曹丕が、俺を見失ったと報告した途端甄姫を打ったと言う。
「けれど、私を打った後、やはり初めて……私に詫びられましたわ……私には、その言葉の方が痛かった……」
 今も思い出すだけで胸が苦しくなるのか、甄姫は豊かな胸にそっと手を添えた。食い込んだ指が作る深い皺が、甄姫の中の嵐の激しさを物語っているような気がする。
 俺は、見ない振りをした。
 何をどうしたら彼女の慰めになるか、まったく分からなかった。
 ホストなんぞという仕事についておきながら、俺は役立たずもいいところだった。
 詫びるのは簡単だ。
 けれど、それは彼女のプライドをいたく傷付けるに違いない。
 俺は所在無げに膝を抱き、俯くしかなかった。
 そこに張遼が戻ってきた。
 涙に目を潤ませた甄姫を連れ、俺を顧みることもなく出て行ってしまう。
 広いリビングに一人残され、俺は困惑して体を丸めうずくまる。酷く居心地が悪かった。
 どのくらい時間が経ったのか、いきなりリビングの灯りが消えた。
 辺りを見回しても、急に暗くなった視界に見えるものは何もない。カーテンの掛かっていない大きな窓から夜景が広がっているのが見えて、それだけがこの部屋の中の灯りになっていた。
 微かな摩擦音に振り返れば、いつの間にか曹丕が俺の横に来ていた。
 甄姫の座っていた辺りに乱雑に腰を下ろすと、俯いてしまう。
 夜景がもたらす光が、曹丕のアウトラインを細く描き出す。
 表情は、その長い前髪と組んだ手に隠れて見えなかったけれど、きっと困惑しているのだろうと俺は勝手に決め付けた。
 わけが分からないまま始まった関係は、わけが分からないまま深みにはまり、わけが分からないまま終わってしまった。
 いざ再会してみて、俺も曹丕もそのことに戸惑っている。
 あの時、ちゃんとさよならをしていたら、こんなことにはならなかったのだろうか。
 こんなことって、どんなことだ。
 混ぜっ返す思考に、俺は苦笑した。
 真剣になれない、なりきれない、いつも肝心な時に逃げ出してしまう俺は、人からすれば厄介な存在だと思う。
 曹丕がかつて俺に言った言葉が、今更身に染みてきた。
「……ごめん」
 謝罪の言葉に、曹丕は垂れた前髪の間からキツイ視線を投げて寄越した。
「何を謝る」
「わかんないけど、……謝りたかった。ごめん」
 曹丕は歯軋りをして、俺から目を逸らした。
 その様が酷く痛々しく思えて、俺は困惑した。
「謝るぐらいなら、これからは私の元に居ると誓え」
 それは、できない。
 きっぱりと拒絶する俺に、曹丕はノロノロと視線を向けてきた。
 動作の緩慢さとは違って、その目は怖いぐらい荒んでいた。
 理由を求めては居ないだろうと思いつつ、俺は言い訳がましく理由を口にした。
「俺は、曹丕のところには居られないよ。考え方も、何もかも違う。曹丕とも、曹丕の周りの人間ともだ。曹丕だって分かるだろう、俺が曹丕の隣に居たって、違和感が生まれるだけだって」
 曹丕は答えない。
 感情的に言い返してくれた方が楽だと思う。沈黙は、そんなこととっくに飲み込んでいると言っているのと変わらない。
 おっかねぇな、と茶化す胸の底が、ざわざわとして落ち着かない。
 追い立てられるように俺は言葉を募った。
「甄姫、さん? あのひと、あんたの恋人なんだろ? 滅茶苦茶いい女じゃん、今更俺なんかに構わなくったってさ」
「やろうか」
 曹丕の短い言葉に、俺は言葉を切った。
 何を言ったのか、理解できなかった。したくなかった。
 曹丕はそんな俺の顔を見て、悪党然として薄ら笑った。
「やろうかと訊いている。抱いてみたければ、抱かせてやろう。お前の好きにするがいい」
「曹丕」
 咎め立てるように棘を含ませ名を呼ぶ俺に、曹丕はますます愉快そうに笑う。
「男でも、女でも、どちらでもいいのだろう? 抱かせてやる、だから私の言うことを聞け」
 俺は唇を噛んだ。
 甄姫が可哀想で仕方なかった。
 それ以上に、そんなことを言う曹丕が可哀想だった。
「俺がお前の傍に来たら、お前、満足するのか?」
 俺の問いかけが意外だったのか、曹丕の笑みがふっと消えた。
「お前の傍に来て、お前の言うとおりにしてれば満足なのか? ホントに、そうなのか?」
「……あぁ」
「本当に? ホントに、そうなのか?」
 曹丕の眉間に皺が浮く。
 追い詰められた風な様が、俺の中の憐憫を煽った。
「……くどい」
 小さく吐き捨てた曹丕に、俺は胸を貫かれるような痛みを感じる。
 どうしてここまで頑ななんだろう。もう少し、ほんの少しでいい、あんたが楽に生きていける生き方はないんだろうか。
 どうしていいか分からなくて、俺はソファに身を沈めた。
 沈黙が落ちた。
 関係そのものが間違っていたとしても、俺達が出会ってしまった事実を、共に過ごしてきた時間をなかったものには出来ない。
 こうして再会してしまったことを、なかったことには出来ないのだ。
 じゃあ、どうしたらいいんだろう。
 俺は、首だけ捻って曹丕の方に向けた。
「女の方は、分かんない。仕事で寝たこともあるから、覚えてない」
 曹丕が俺の方を見た。キツイ眼差しを受けながら、俺は話を続ける。
「男は……そんなでもないと思う。えぇと、1、2……6人か、7人……? そんぐらい」
 俺が思い出し思い出し『過去に関係した人数』を申告すると、曹丕の口元が微かに歪んだ。
「……馬鹿が」
 俺が苦笑すると、曹丕はソファの背もたれに深くもたれ、顔を天井に向けた。
 長い前髪がさらりと音を立てて流れ落ち、曹丕の表情を露にする。
 泣きたいような、笑いたいような、複雑な表情だった。
 きちきちに詰めていた気が、すっぽり抜け落ちたようにも見えた。
「お前のそういうところが、小狡くて嫌いだった」
「……ごめん」
 何だか妙に申し訳なくて、俺は小さく詫びた。
 曹丕が苦笑するのを、俺はじっと見詰める。
「変わらんな、。狡くて、卑怯で狡猾だ……腹立たしくて仕方ない」
「ごめん」
 謝る他仕方ない。その点に関しては、曹丕の指摘どおりだという自覚があった。
 曹丕の指が伸びてくる。
 顎を取られ、口付けられるのを黙って受けた。
 唇が離れていく。けれど、曹丕の顔は間近で留まった。
「本当に」
 曹丕の目が顰められて、細くなった。その目で俺を見る。前髪が隠していた感情が、そこに剥き出しで映っていた。
「腹立たしい奴だな」
「ごめんて」
 もう一度口付けられて、そのまま倒された。
 曹丕の手の中で、俺のものが固くなっていく。
 弾けて震える肉を曹丕の舌が舐め上げていく様を見て、俺のものは再び反り返り、曹丕の笑いを誘っていた。
 笑ってろ、と目を逸らした俺を叱咤するように、後孔に衝撃が走る。
 何年か振りに受け入れた曹丕は、相変わらず手酷くまた執念深く俺をえぐった。


  

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