馬超が出て行ったことで、一人の生活が戻ってきた。
他人の気配がないことが却って空気を濃密にし、居心地悪いざわめきのように肌を刺激する。
馬超と暮らし始めてどれくらい経っていただろうかと考えたが、よく分からなかった。色々あったし、あり過ぎた。馬超と『馬超』の記憶がごっちゃになりかかっていることに、俺は少しばかりの衝撃を受けていた。
人の記憶なんて、曖昧で無責任なものだ。
だが、だからこそ俺のようなちゃらんぽらんな人間でも生きていけるのかもしれない。
食事を取ろうと冷蔵庫を開けると、馬超の置き土産の食料がみっちりと詰まっていた。
これ全部片すのに、いったい何日掛かるだろう。
その前に腐ってしまいやしないかと、俺は眉の根を寄せた。
趙雲ともあの日以来になった。
手持ちの仕事が詰まっていて、俺を構う余裕もないらしい。
避けられているのだと勘繰れなくもないが、職場で顔を合わすことすらほとんどないのでは、そこまで盛り上がれようもなかった。
馬超も忙しいらしく、やはりほとんど顔を合わせない。
出かける間際、上司と短い打ち合わせをする声くらいは聞こえてくるが、それも一日数える程もない。
自然消滅する前に似ていた。
仕方ないというより、望ましいことに思えた。
馬超は『馬超』と同じくらい綺麗で(同じ顔をしているのだから当たり前といえば当たり前だ)、女性からも人気があるのは見ているだけで良く分かる。
男と生産性のない恋愛にはまっているよりは、可愛くていじらしい女の子と幸せな結婚でもしていてくれた方がいいと思う。
俺はとにかく、貯金もない今の生活に少しでもゆとりを与えるべく、仕事に専念することにした。
第一、データの打ち込みなんて、言い方は失礼だがバイトでも出来るような仕事だ。そればかりをやっている俺の立場は、正直肩叩きしやすいベストポジションと言っても過言ではない。
単純作業させて、どのくらいやる気があるのか推し量られているのかもしれない、などと考えてしまう。入社初日に対面した諸葛亮課長は、それくらい極自然にやってくれそうな得体の知れなさがあった(酷いだろうか)。
K.A.Nと言えば一流企業で通っている。打ち込み作業なんかは外部に頼んでもおかしくないように思えたから(実際他の社員は忙しくて残業もデフォだ)、穿ち過ぎということでもなさそうだった。
分厚いファイル一冊を攻略し、諸葛亮課長の所へ戻しに行く。報告がてら次のファイルを受け取りに行くのも兼ねるのだ。
諸葛亮課長は俺からファイルを受け取ると、デスクワゴンから新しいファイルを取って差し出してきた。ほとんど会話らしい会話をしないのが常なのだが、今日は違った。
「慣れましたか?」
薄く微笑みながら問われて、俺は内心の動揺を隠しつつ、はい、何とかと短く返答した。
「凡庸な返答を選ばれるものだ」
笑われてしまった。
上司との遣り取りに凡庸も非凡もないように思えるが、確かに意識して差障りのない返答を選んだので、言い返すこともない。
こういう時ですら、考えていることを見抜かれてしまって恥ずかしいとか腹が立つとかがないのが、我ながら救いがたい。
民主主義という名の競争社会で、俺のようなタイプが生き残っていけるのかどうか。いつも自信はなかったが、自信がないからとくよくよすることもない。
お前はどうでもいいんだ、と俺を見抜いた曹丕は、やはり人を見る目があるのかもしれない。
「飽きませんか」
打ち込みの単純作業を差しているのだろう。俺は首を振った。
「前にも言いましたけど、俺はこういう勤めは初めてなんですよ。業務の内容も分からないし、だから取引先一覧とか、扱っている商品の名前を見させてもらえるのは正直有り難いです」
これもK.A.Nの商品だったのかとか、有名な病院、施設などにも納品しているのに驚いた。だから、単純作業とは言っても割合楽しんでやっている。
諸葛亮課長は俺の返答に満足げに頷いた。
「……まだはっきりと決まったわけではありませんが、貴方には私の補佐をしてもらおうかと思っています」
ということは、内勤事務と言うことだ。
「え、営業じゃ……」
思わず聞き返すと、諸葛亮課長は不思議そうに見上げてくる。
「営業をご希望でしたか?」
「あ、いえ」
希望を聞かれて、正直分からないのでどこでもいいと言ってある。その言葉に嘘はないし、今でもどこでもいいと思っている。
ただ、馬超から『は俺と同じ営業だ』と吹き込まれていたから、驚いただけだ。
「……営業やってる人から、営業だと、言われていたもので」
馬超の名を出していいものか躊躇われて、誤魔化した。
諸葛亮課長は何か言いたげだったが、流すことに決めたようだ。
「営業も忙しいですから、人手が欲しいのでしょうね」
雇えばいいのに。
俺は小首を傾げることで諸葛亮課長に問いかける。聡い人だから、これだけでちゃんと伝わった。
人手は欲しいが、却って仕事を増やすような新人に来られても困るのだと諸葛亮課長は苦笑いした。欲しいのは『頭数』ではなく『労働力』なのだと説明されて、納得する。
「私事を業務に持ち込むような社員では話になりませんし、自分の体調管理することも出来ないのでは、働く資格を問われても致し方ないのですよ。その点、貴方は文句なしでした」
字面だけ見れば、褒め言葉だ。だが、何か含むところを感じて俺は口篭った。
諸葛亮課長は悠然と微笑むと、仕事に戻れと促した。
仕事が終わると、俺は家には向かわず某有名ホテルのロビーに足を運んでいた。
しばらくぼーっと立っていると、待ち合わせ相手がガラス張りの玄関を潜ってくるのに気が付く。
「早いな」
曹丕は、この暑い中濃い色のスーツをぴっしりと着込んでいた。汗一つかいていない。二十台半ばにも関わらず、ホテルの重厚なインテリアに相応しい貫禄があった。
「座っていれば良かっただろうに」
待ち合わせはロビーにある喫茶室だったが、時間的にデートの待ち合わせ客が多いらしく、少し混んでいた。
曹丕が見つけられないのを不安に思ったのではなく、何となくあの半端に幸せそうな、弾むような賑々しさの渦中に身を置くのがはばかられたのだ。
「……すぐ見つかっただろ」
喫茶室脇の白い柱前には俺一人だった。安物と曹丕が蔑んだスーツは、場所に馴染むこともなく浮き上がって見えたことだろう。
とにかく、貯金がないのに堅気っぽく見えるスーツを揃えなければならなくて、それだけでも結構な痛手だった。馬超の買い物癖がなかったら、何日かは食事を抜いていたことだろう。
最初は、馬超が買ってやるとか抜かしていたのだが、さすがにそれは断った。
しつこく食い下がられたけれど、もうホストじゃないんだから、と言ったら、ようやく納得して諦めてくれた。
俺は基本的に、物をもらうのは好きじゃない性質だった。縛られるみたいで、嫌なのだ。特に、身に着けるものとかは駄目だ。手編みのマフラーなんて、首を絞められている気がしてぞっとしない。
無事に合流したところで、曹丕の案内でホテルの中にあるというレストランに向かって歩き出す。
カップル達が軒並みエレベーターへと流れていく中、曹丕は人気のない階段の方へ歩いていく。
「……何階?」
「二階だ」
ここのホテルは最上階の展望レストランを売りにしていたから、一瞬、カップル嫌さに階段で行くつもりなのかと思ったが、そうではなかったようだ。
馬鹿な話だが、曹丕だとそれぐらいやりかねないと思ってしまう。
階段の踊り場まで上がると、壁の角度のせいか突然人の声が遠のいた。
後ろ髪引かれるように振り返った俺は、唐突に踊り場の角に押し込められた。
え、と曹丕を見上げると、キスされた。
触れるだけの口付けはあっという間に終わり、まるで夢でも見たかのような気持ちに陥った。
曹丕は一人、すたすたと階段を上がっていく。
俺は踊り場で突っ立ったままなのに、曹丕は俺を振り返りもしない。
階段を上りきった辺りでようやく足が止まり、小馬鹿にしたような視線を俺に向けて寄越す。
「何をしている」
渋々と追いかけると、曹丕はまた階段を上り始めた。ロビーは天井が高いから、階段も少し長めだ。俺は段抜かしで駆け上がると、曹丕の隣に並んだ。
「今の、何」
問いかけても、曹丕は俺を無視している。
階段を登り切り、曲がったところのすぐがレストランの入口だった。
如何にも高そうなたたずまいと雰囲気が、俺の足を止めた。
一万二万のコースなら何とか、と覚悟を決めて曹丕の呼び出しに応じたのだが、相当甘かったらしい。下手をすると桁が一つ増えそうな予感に、俺は冷や汗を垂らした。
「……何をしている」
入口に足を踏み入れようとしている曹丕が、俺を見咎めた。
手持ちが危うい、とは言いにくく、む、と唇を尖らせる俺に、曹丕は微かに笑った。
いつもの嫌味っぽさはない。例えて言うなら、初めて対面した我が子を見つめる親のような、そんな柔和な微笑だった。
曹丕がこんな顔で笑えるというのは、俺にとってはかなりショッキングな事実だった。宇宙人でも見たかのような衝撃が走り、俺はその場に固まってしまった。
そんな俺のざまはかなり笑えたのだろう、曹丕にしては珍しく、声を潜めながらも愉快そうな笑い声を上げた。俺のところまでゆっくり戻ってくる姿が、ドラマのワンシーンじみていて目を奪われる。
「いらぬ心配をするな。ここは、私が持つ」
そういうわけにもいかないだろう。
女じゃないんだから、と反論すると、曹丕は更に愉快そうに俺の目を覗き込んだ。
「対価なら、先にもらっただろう」
先程のキスがそうなのだと気付き、俺は顔を顰めた。
「だから、女じゃねぇって言ってるだろ。もう、ホストも辞めたんだし」
不貞腐れた俺に構うこともなく、曹丕は俺の肘の上を掴んで歩き出した。
逆らうことも出来ず、振り払うことすらしないで俺は渋々と曹丕に付き従った。
料理も酒も美味かったが、男二人のテーブルは俺達の席だけだった。ウェイターはしかし、よく躾けられているようで、おくびにも出さず完璧なサービスをこなしていく。
しばらくは無言で食事を楽しんだ。
口直しのシャンパンのシャーベットを味わっていると、曹丕が口を開いた。
「あの男とは、終わったのか」
「……唐突だな」
危うくスプーンを取り落としかけた。
行儀悪くスプーンを咥えたまま曹丕を睨め付けると、曹丕は軽く肩をすくめた。
「一人別れても、まだ他にもいるのだろう。早く全員別れて、私のところに来い」
「行かないって。彼女居るくせに阿呆なことを言うなよ」
呆れて言い返すと、曹丕は暗く目を伏せた。
「……やはり、嫌なものなのか?」
何が、と問い返すと、曹丕はスプーンを置いた。
「同じ女ならばともかく、お前は男だ。それでも、嫌なものなのか。……私には、よく分からん」
甄姫のことを言っているのだろうか。
だとしたら、こいつは相当阿呆だ。
「……女より男の方が救い難いと思うけど」
対抗するにもしようがないだろう。全然違う生き物なのだから。
それと知って諦めが付けばいいが、俺から見たところ、甄姫の場合は煮詰まって爆発しそうなタイプに見えた。
「いい女じゃん」
「……あぁ」
「あんたのこと、滅茶苦茶惚れてんじゃん。大事にしてやれよ、俺なんか構ってる場合じゃないだろ」
返事はなかった。
ウェイターがやって来て、空いた食器を下げていく。すぐにメインが運ばれてきて、食事が再開すると、もう会話らしい会話はなくなってしまった。
男二人でバーと言うのも色気がない。
会話が弾むわけでもないのに、何で俺は味も分からないコニャックすすってるんだろうなぁと疑問に思っていた。
食事が済んだらご赦免、と思っていたのに、半ば曹丕に引き摺られて来てここに居る。
そもそも、メールには『今日、会いたい』といつもの短いメッセージしかなかったから、曹丕が何の目的で俺を呼び出したのかさっぱり分からない。
会いたかっただけなのだろうか。
まさか、と曹丕を振り返ると、曹丕も俺の視線に気付いて顔を向ける。
何だと問われても答えようもないが、代わりになる会話が見つからない。
「今日、俺呼び出したのって、何?」
曹丕が口篭り、返答を飲み込むようにコニャックを煽る。
やっぱり、理由などなかったのだろうか。俺もコニャックをちびりと舐めた。
「……何故、来た?」
酒臭い息と共に吐き出されたのは、そんな問いかけだった。
問いかけに問いかけで返したら、会話なんて成立しないだろうに。
そんな風に頭の中で茶化してしまうのは、逃げているからなのだろうか。
「言え、何故、私の誘いに応じた」
無理に酔っ払っているかのような曹丕の様に、俺はどうあしらったものかと困惑した。
続