酔って潰れた曹丕に肩を貸し、俺は途方に暮れつつ自宅に向かうことにした。
 曹丕の家の住所は知らなかった。
 確かに一度は連れて行かれたのだけれども、行きは拉致だし帰りは寝惚け眼でタクシーを使ったのだから、知りようがない。
 どうでもいいと投げ出しがちな性分がこんなところで災いしているわけだが、曹丕をこのままにしておくのもはばかられた。
 ほぼ潰れているような状態で、暴れはしないけれどぐったりとしている。傍目には病人に見えるかもしれないが、吐く息の酒臭さは誤魔化しようもない。
 こういうホテルに来るタクシーは、やはりよく躾が行き届いているのか、そんな曹丕を見ても嫌そうな顔一つしなかった。ホストやってた時分、酔っ払った女の子を乗せようとして乗車拒否食らったことがあるもので、そんなどうでもいいことを考えた。
 ちょっとした逃避だったのかもしれない。
 着ているものにすらケチをつける曹丕のことだ、俺の家を見たら何を言われることだろう。
 少しばかり憂鬱になりながら、俺は流れる夜景に目を向けた。

 車で入れるぎりぎりのところまで入ってもらい、釣りはいらないなどと豪気なことを言ってタクシーを降りた。
 財政を圧迫するにはするが、端から今日は散財予定だったので、とんとんかあるいは少しプラスで済んだはずだ。
 我ながら貧乏臭いと嫌になったが、とにかく曹丕を家まで引き摺っていった。
「……ここは」
 鍵を開けていると、曹丕が気が付いた。
「俺の家」
 ドアを引くと、曹丕を中に押し込む。
 足元が危ないながらも曹丕は一人で歩き出し、そしてよろけて俺の家の玄関に土足で上がりこんだ。
 ある意味予想通りだとがっくりしていると、曹丕は黙ったままじっと足元を伺っている。
、ここで靴を脱ぐのだな……?」
 わずかに怯んだ風に俺を振り返る曹丕に、俺の方が驚かされる。文句を言うに決まっていると思い込んでいたから尚更だ。
「……そうだけど」
 何をそんなに驚いているのかと、逆に不安になる。が。
「これほど狭いのか」
 ぽつりと呟かれた言葉に、殴ってやりたい衝動に駆られた。

 酔って潰れていたはずの曹丕は、きょろきょろと辺りを見回している。
 嫌味どころでなく、あまりの狭さに驚嘆しているのが癪に障る。
 確かに、曹丕のあのマンションに比べれば俺の家などウサギ小屋も同然だろう。
 テラスハウスの二階建てではあるが、立地の兼ね合いから縦に長く、それに合わせて玄関も廊下も狭めに作られている。
 住み慣れた俺には圧迫感があるとも思えないが、広々開放的というわけでは勿論ない。
 あの曹丕が身を縮めて天井を仰ぎ見ている様は何となく笑えるものだったが、それ以前に、どうしてそこまで驚かれなくてはならないのか分からない。
 ぶっきらぼうに水を注いだグラスを差し出すと、曹丕は黙って受け取り、やはり天井を仰いだ。
「……落ちては来ないよ」
 うんざりとした態で教えてやると、曹丕は否定もせず、かと言って安心した様子でもなくやはり天井を仰いだ。
 馬超だってこんな反応は見せなかった。いったいどんな育ち方をしているのだろう。
「……狭くてびっくりした?」
 嫌味で訊いたのに、曹丕はこともなげに『ああ』と深く頷いて見せた。
 ソファに腰掛けると、また天井を見上げ、今度は部屋の中をぐるりと見回した。
「ミニチュアハウスのようだ」
「……そりゃ、どうも」
 言うにこと欠いてそれか。
 俺は怒鳴りつける気力もなくなって、礼を述べるに留めた。
 曹丕は飽きもせず、部屋の中を見回している。
「誰も、居ないのか」
「居ないよ」
 自分の分の水をグラスに注ぐ。グラスの底を叩いて弾けた水が、シャツの袖に不規則な模様を描いた。
 沈黙が落ちると、一人で居る時に感じるざわめきが戻ってきた。
 それでも、視界の隅に曹丕が映るとざわめきは消失し空気が緩む。
 おかしなことだと思った。曹丕のことは、苦手だったはずだったのに。
「一人で暮らしているのか」
「そうだよ……あんたは? 違うのか?」
 曹丕のマンションに行った時、甄姫と張遼が居たけれど、共に暮らしている風ではなかった。他に誰かが居るとも思えず、だから曹丕が俺の一人暮らしを気にする理由が分からなかった。俺達ぐらいの年になれば、一人暮らししていても何の違和感もない。曹丕が気にすることなどあるわけがなかった。

「ん?」
「何か作ってくれ」
「はぁ?」
 声の音量を絞りもせず、俺は盛大に呆れて見せた。
 あれだけ美味いものをコースで食った後に、いったい何を食べたいというのか。
 俺自身、まだ胃に膨満感があって何か食べたいとも思えない。
「何か、軽いものを」
 しかし曹丕は、当たり前のように命じてくる。
 俺はしばらく呆けて曹丕の顔を見遣っていたが、諦めてキッチンに向かった。
 金持ちと言う奴は、鋼鉄の胃袋でも持ち合わせているのだろうか。
 嫌がらせにカツ丼でも作ってやろうかと思ったが、曹丕に無言で責められるのもおっかないので(ああ、ヘタレだ)簡単に煮麺にした。
 素麺のあったかい奴だ。
 市販の汁に作っておいた出汁を加え、冷蔵庫にあった野菜をぶち込んで煮ておく。隣の鍋に水を張り、沸騰するのを待って素麺を茹でる。茹だったらざるにあけ、水に晒し揉む。よく水を切って、汁の鍋にぶち込んだ。
「何故、鍋に戻す」
 いつの間にか背後に曹丕が立っていた。
「このまま汁かけたら、温くなる」
 温い麺が嫌いだ。熱いんだったら熱い、冷たいんだったら冷たくないと嫌なのだ。
「ならば、初めから同じ鍋で茹でればいいだろう」
「汁が濁る」
 それに、素麺の塩気は俺には強過ぎてあまり好かない。あれがいいという人もいるが、俺は好かない。
 俺の家なんだから、食べるのが曹丕だろうと俺の好みに作るのだ。
「お前は、私の家でも自分の好みで作ったではないか」
 出来上がった煮麺を椀に移していると、曹丕がそんなことを言い出した。
 何のことかと首を傾げそうになり、直前で思い出した。
 学生の時、殴られていたところを助けられ、曹丕の家で手当てしてもらった時、腹が減ったので夜食を作ったことがあった。そのことを言っているのだろう。
「あれは、だってさ」
「何だ」
 あれは、曹丕が悪いのだ。
 俺は常の通り、曹丕の好みの味付けを尋ねた。
 俺は、人の家で何か作る時には一応相手の好みに合わせることにしている。例えば、目玉焼きには醤油だソースだと、各家庭の『定例』がある。それだけで喧嘩にすら発展しかねないということを俺は重々承知していた。その家の台所を借りるのだから、その家の主に合わせるのが当たり前だろう。作る前には必ず訊いていた。
 だが、曹丕は困惑するだけでうんともすんとも言わなかった。
 簡単に作ったはずだから、チャーハンか焼きそば、せいぜいそれにスープか副菜を一品というメニューだったと思う。
 材料は好きに使えと偉そうに許可を下ろしたくせに、何味がいいかと訊いた瞬間、困ったように唇を噛んで返事もしない。
 俺は、『俺の好みで作っていい?』と持ち出して、その場を流した。何となく、曹丕が傷ついたように思えたのだ。何でかはまったく分からなかったけれど。
「……早く、食いたかったし」
 曹丕に椀を押し付け、引き出しから割り箸を探す振りをして背を向けた。
 触れてはいけないと思ったことをようやく思い出したのだ。ならば、今更触れない方がいいだろう。
 割り箸を渡し、勢い自分の分も用意してソファに戻る。
 横目で曹丕を伺うと、大した感慨もなさげに煮麺を口に運んでいた。曹丕に煮麺という組み合わせも妙だと思うが、俺がケチつけることじゃないので黙って食べた。
「どうしたいかと、訊かれたことがなかった」
 曹丕が口を開き、そんなことを言い出した。
 俺はわざと音を立てて煮麺を啜り、聞き流す風を装った。
「トップを取れ、賞を取れと言われれば、そうするのが当然だと思っていた。むしろ、自然だと思っていたな。食事は出されるものを食し、服は出されるものを着る。尋ねられるのはいつも、『どうしたらいいか』と指示を求められることのみで、だからだろう、私が」
 戸惑ったのは。
 どうしてそんな告白をし始めたのかは分からないが、やはり曹丕はあの時戸惑っていた、いや、むしろ困っていたことがはっきりした。
「だから?」
 止めときゃいいのに、俺の口からつるりと疑問の言葉が飛び出してしまった。
 誤魔化すように汁を啜ったけれど、曹丕の耳には届いてしまったらしい。
「だから、とは?」
 問いかけに問いかけで返したら、会話は成立しないんだと教えてやった方がいいのだろうか。
 この場合は、でも、曖昧に濁した俺こそが悪いのであって、曹丕が悪いわけではない。
 質問は発せられていない、だったら、上手く誤魔化せるはずだ。
 俺が口を開いた瞬間、曹丕は箸と椀を置いた。
 咄嗟に、残すなよ、と文句を言って誤魔化すことに切り替わった俺の脳味噌は、その椀の中が綺麗に空になっているという事実を視神経から申し伝えられ、一瞬にしてパニックを起こした。
 ここだけは詰まったらダメなのだ、というキーポイントで無様に言葉を詰まらせた俺は、泡食ってる間に曹丕に箸と椀を取り上げられてしまった。
「……だから、私がお前に執着するようになった。そう、訊きたいのか?」
 否定しようと俺は口を開いた。ここで否定しておけば、失態を取り戻せる。
 だが、曹丕はそんなに優しい男ではなかった。
「その通りだ」
 俺が否定するよりも早く、曹丕は高らかに答えを返して寄越した。くく、と低い笑い声が、直接鼓膜に吹き込まれる。
「そんなの」
 おかしいだろう。『どうしたい』なんて言葉、日常に溢れているではないか。
 曹丕ほどの男ならば、ブランドショップの一つも出入りするだろう、店に入れば『如何いたしますか』の一言も掛けられるはずだろう。レストランに行けば、ワインはどうする、メニューはどうするといった話に当然なるはずだ。友人と旅行のスケジュールを立てる話になれば、何処に行きたいの何をしたいのという話が出てこないわけがない。
「おかしいか? だが、。勧められることはあっても、本当に私に尋ねてきたのはお前一人だ。昔も、今も、お前だけが阿呆面を下げて、私に尋ねてくる」
 曹丕には、俺がずっと『どうしたい?』と問いかけているように見えていたのかもしれない。
 嫌なら気付かぬ内にとっとと逃げればいいものを、わざわざ『逃げるよ』と見え見えの態度にして寄越したり、拒否するくせにのこのこと傍に寄ってくる俺は、曹丕にとって未だに戸惑い困惑させられる存在だったのだろう。
「どうしたい、。お前の方こそ、私をいったいどうしたいのだ。追い詰めて服従させればいいのか、それとも屈従させるを装って、お前に屈服すればいいのか」
 どちらも御免だ。
 曹丕は、俺が曹丕の周りをこれ見よがしにふらふらしていると受け取っているのかもしれないが、俺はただ、生きる為の糧を得ようとやって来た場所で、たまたま曹丕と再会してしまっただけに過ぎないのだ。曹丕を縛るつもりもないし、縛られたいとも思わない。
 返事をしない俺に見切りを付け、曹丕は俺を押し倒す。端から急所を握りこまれて、俺は逃げ出せなくなってしまった。
 一応抵抗を試みているのだが、曹丕は有無を言わせぬ強引さで俺を圧倒してしまう。
 逃げれば、辞めればいいのだろうか。
 決着の試算をしている俺に感付いたのか、突然咥えられて俺は悲鳴を上げた。
 卑猥な水音に意識が濁る。
「ちょ、待っ、曹丕……!」
 慌てて逃れようとした俺を、曹丕の腕が引き摺り戻す。
 上目遣いに俺を見上げた曹丕は、その凄惨さ故に俺の目を奪う笑みを浮かべていた。


  

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