全部が夢だったみたいに、日常が戻ってきた。
 日常というと語弊があるかもしれない。
 馬超がいない日々に戻った。
 これが正しい。
 あんなに綺麗な人間は、もう会えないだろうな、と俺は毎朝目覚めるたびに思う。
 朝起きて、俺は馬超の姿を思い出して、好きだよ、と言う。
 忘れないと誓ったけれど、俺の中からどんどん馬超が消えていく。これは、未練たらしい俺の儀式だ。

「アホか」
 開口一番、KASUKAはそんなことを言った。
 浸ってるわー、嫌ぁねぇ、と水割りを一口飲んだ。
 KASUKAはネットで知り合った友達だ。初めて会ったのが俺の職場(要するにホストクラブ)という変り種だ。ホストクラブにはいっぺん行ってみたかった、けど一度でいいわ、と言ってそれきり来な
かったのだが、何故か今日、突然連絡を寄越して二度目の来店となったわけだ。
 KASUKAという名が本名なのかそれともハンドルネームなのか分からない。けれど、KASUKAという響きは彼女にまったくそぐわないような、それでいてこれ以上ぴったりの名前はないような、そんなヒトだった。
 俺の顔を見るなり『何があった、さっさと白状しろ』と言い出し、俺ものこのこと彼女の言うまま白状に及んだというわけだ。
 その感想が冒頭の『アホか』になるわけで、このヒトにかかると叙情と名のつくものはすべてアホ扱いされかねない気がする。
「一緒に行けば良かったのに」
 そんなわけにも行かないでしょ、と返事すると、また『アホか』と言われた。
「女々しい毎日送るってわかっていながら、何で着いていかないかね。いいじゃん、向こうでもホストやってれば。決まった相手だったら、エイズの心配ないでしょ」
 むしろアンタが危ないわ、としゃあしゃあと言ってのける。女傑なのだ。
「行けないって」
 俺が困ったように眉を顰めると、面白そうに俺を覗き込んだ。
「焼きもち焼くから?」
 このヒトは、本当に何でもずばずば言い当ててくる。
「そうよね、好きな相手の相手も好きでも、そりゃあ二人でいちゃつかれたら腹もたつわよ。間違ってない、アンタは正しいぞぉ」
 やたらめったら楽しげに笑うので、俺も少しは反論したくなってくる。
「……嬉しいっていうのも、嘘じゃないよ」
「ムカつくってのも嘘じゃないでしょうよ」
 けらけら笑われて、俺は言葉に行き詰って水割りを含んだ。
 馬超が好きだ。趙雲も、好きだ。だから、二人が仲良くしてくれるのは本当に嬉しかった。これ以上相応しい相手は他にいないだろうと思った。
「淋しいわね」
 KASUKAが優しく笑う。
 俺の入り込む隙なんてない、だから安心できて、そう、淋しかった。
 二人にはお互いがいれば十分だ。俺なんて、いなくても大丈夫。分かっていたから、俺は着いていかなかった。
「言い訳よ、そんなの」
 KASUKAは俺に空のグラスをずいっと押し遣ってくる。受け取って新しい水割りを作り、ついでに俺のにも足した。
「自信がなかったから、駄々こねただけよ。それで相手に忘れられないように傷作って、自分は自分でうじうじしてんだから、ホントしょーもないわアンタ」
 よしよし、とワックスのついた頭を撫でられ、ぐしゃぐしゃにされる。
「……詰るか慰めるか、どっちかにしてくんないかなぁ」
「あたしは慰めてあげたいけど、アンタが詰ってくれって言うから詰ってんだもん。文句言うな」
 誰が何時詰ってくれなんて頼んだよ、と文句を言うと、KASUKAは素知らぬふりで、お絞りで念入りに手についたワックスを拭う。それが済むと、俺の手から水割りのグラスを取り上げて一気に煽った。
「ずっと言ってるじゃない、詰ってくれ、叱ってくれって」
 目が、と言って笑う。
 このヒトには敵わない。
「KASUKAが、じゃあ俺だったら如何すると思う?」
「行かないわよ」
 即答して、決まってるでしょう、と大意張りする。何だそれ、と苦笑すると、KASUKAはけらけら笑った。
「でも、いいこと聞いたわ」
 何が、とおざなりに突っ込むと、KASUKAはにっこりと笑った。綺麗な笑みだった。
「うちにも一人、何処だか分かんないとこから来た男がいるのよね。ギ、つったかなあ、そこから来たんだって言うんだけど、今度の新月に試してみよう」
 は、と思わず間抜けな声を上げた。
 KASUKAは悪戯っぽく微笑み、俺の頬にキスをしてきた。
「内緒にしとけー」
 ふふふ、と笑う声が、やけに色っぽい。俺はKASUKAの唇が触れたところに手をやって、その熱に何故かどぎまぎしていた。
「KASUKAは、行かないの」
 行った方がいいと思った。KASUKAがそいつが好きなのは、何故か直感で分かったから。KASUKAは女なんだから、そいつに着いていって、それこそ嫁か妾にでもなって安穏と暮らしてもいいはずだ。
 KASUKAは、水割りの氷を舐めながら、上目遣いに何処か遠くを見つめていた。
 不意に首を振った。髪の毛が、しゃらしゃらと鈴みたいに鳴った。
「……んーん、やっぱ行かない」
 が一人になっちゃうからね、と言って笑った。

 そいつが帰ったら、また呑みに来る、と言ってKASUKAは帰っていった。そしたら、二人で失恋
パーティーしよ、と笑っていた。
「そしたら、体で慰めてやろうか」
「いらねぇよ」
 ホストと寝るほど落ちぶれてねーよ、とKASUKAは最後に笑って言った。とても陽気で、淋しそうに見えた。
 きっとKASUKAは、約束を作りに来たのだ。
 連れて行かれないように。着いて行ってしまわないように。
 そんな小手先の細工をするくらいなら、着いて行ってしまえばいいのに。そしたら、俺は伝言を頼もうと思う。馬超と趙雲に、時間はどれだけかかってもいいから伝えて欲しい言葉がある。
 店が引けて、俺は回り道して例の公園を通りかかった。
 公園は、朝の明るくて埃っぽい光をいっぱいに孕んでいた。
 何もかもが馬超と趙雲が消えた時と変わらなかった。
 俺は両手を前に差し出した。あの時、どうしても差し出せなかった手は、すんなりと前に伸びた。
「好きだよ」
 声に出して、今はいない影に囁く。
「ずっと一緒にいたかった」
 人影は何処にもない。だから、返事はない。
「ごめんな」
 傷つけて、悲しませてごめん。そうして刻まないと、ずっと好きでいてもらえないと思ったんだ。ずっと一緒にいて、いつか離れ離れになるより、そっちの方がいいと思ったんだ。
 卑怯だった。ずるいって、だから言っただろう。俺はずるいんだ。怒ってくれていい、詰ってくれていい。嫌いになっても、我慢する。
 忘れないでいてくれたらいい。いつか俺の弱さを、許してくれとは言わない、仕方なかったかもしれないと、微かにでも思ってくれたらいい。
 その時には、どうか俺のつけた傷が癒えていますように。
 何処までもずるい俺は、そうして二人のいない場所でこっそり謝って、図々しく生きていく。
 ずっと忘れない。
 好きだよ。


  

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