その日、は妙な夢を見た。
 起きた時には何も覚えていなかったが、世界が蕩けてマーブル模様に混じり合うような、何とも言えない不可思議な夢だったように思った。

 どんなに好きでも、写真の一枚も残っていないでは面影は薄れていくものだ。
 すっきりしない目覚めの後、布団の中に寝転んだままで、もはや薄っすらとしか思い出せなくなってきた馬超の顔を思い浮かべる。
 好きだよ、と呟いた。
 あんなに綺麗な男を、もう二度と出会えない男を、こんな早くに忘れようとしている。
 俺が薄情なのか、それとも世間の平均としてはこんなものなのか、判別はつかなかった。
 カーテンをめくると、まだ朝の光がビルの壁面を漸う照らし出した、というところだった。
 年寄りか、と我ながら情けなくなったが、窓の下に見える青いポリバケツがひっくり返っているのが見えた。多分、その騒音が俺を覚醒させたのだろう。
 最近ではめっきり見かけなくなったが、また野良犬が生ゴミを漁っていったのだろうかと思った。だが、バケツの陰に男物の靴が見え、野良犬ではなく野良人間の仕業だと知れた。
 ホームレスはこんな荒らし方はしない。最近はどうか知らないが(と言うのも、善意の市民達のご意向で、彼らの寝床はうちの近所から綺麗になくなってしまったからだ)、彼らのモットーは地域住民との共存のはずなので、住民が嫌がるような真似はまずしないはずだからだ。
 と言うことは、もっと性質の悪い『ヨッパライ』という生物だろう。
 しばらく見ていたが、まったく動かない。
 死んでるんじゃないだろうな、と眉間に皺を寄せて考える。
 ここは血税の見返りとして、官憲などを呼ぶのが得策なのだろうが、生憎俺はあの方々がとても苦手なのだ。一応、きちんと納税している身なのに、彼らからすると俺はどうも血税を啜るダニみたいな存在らしい。やたらと目の敵にされるケースが多く、逆に面倒になりかねなかった。
 仕方ない。
 俺が玄関からサンダルを突っかけて外に赴くと、足は相変わらずそこに落ちていた。
 横倒しになったポリバケツを直し、うつ伏せになっている男の肩を揺する。
 相当吐いたらしい、そこら辺中に吐瀉物の痕跡が残っていた。片付けるのは慣れているが、やはり気分のいいものではない。
 死んでいるのかと思った男が、突然呻き声を上げた。
「水……」
 指が、アスファルトを引っ掻くようにもがいている。
 俺は一度家に戻り、コップに冷たいミネラルウォーターを満たして男の手に握らせる。
 冷たさに反応したのか、男はもぞもぞと起き出した。
 俺は。
 しゃがみこんで膝を抱えた間抜けな体勢のまま、我が目を疑って硬直していた。
 馬超。
 あの美しく整った精悍な顔が、今目の前に在る。
 男は、コップの水を一口含むと、そのまま地面に吐き出した。
 改めてコップに口をつけると、まるで乾いた砂に水が滲みこんでいくような早さで飲み干した。
 ふ、と軽く吐息を漏らす。やや色素の薄い目が、きょろりと浮かんで俺を映した。
「……誰だ、お前」
 声まで同じだった。特徴のある、少し勢い込むような話し方も同じだ。
 固まったまま動けないでいる俺を早々に見限って、馬超(にそっくりな男)は辺りをきょろきょろと見回した。
 やや視線を俯け、物思いに耽っているように見えるのは、恐らく自分の昨夜の記憶でも辿っているのだろう。
 俺は、やっと冷静さを取り戻した。
 馬超じゃない。馬超であるはずがない。馬超は、俺が、俺の目の前で元の世界に帰してやったのだから。
 俺は目の前の馬超に似た男に住所を告げ、タクシーを拾える通りまでの道程を教えてやった。
「……じゃ、早く帰りなよ。家族が心配してるだろ」
 空になったコップを手に、俺が立ち上がるのを馬超に似た男はじっと見上げていた。
 俺は、よせばいいのについその視線に問いかけてしまった。声が、聞きたかったのかもしれない。
「何」
 男は俺から視線を逸らすと、放り出してあった上着に手を掛け引き寄せる。
 帰るのかと思ったが、立ちもせず、飽かず座り込んでいる。
 いい加減、付き合ってられるかと俺は男に背を向けた。
「……家族は、いない」
 ポツリと呟かれた言葉に、俺は嫌気が差しつつも振り返る。
 それが如何した。家族が居ない奴なんて、世の中にはごまんといるだろう。
 生きているか死んでいるかの差はあっても、家族が居ない奴なんて、本当に当たり前の世界に
なった。
 それが、とても哀しい、淋しいことだとしても、揺るぎない事実なのだから。
 けれど。
 俺は大袈裟に溜息を吐いた。自分の馬鹿さ加減につくづく呆れ返っていた。
 男の前にしゃがみこみ、とても嫌そうに眉を顰めながら、家に上がり風呂を使うことを勧めた。ついでに嘔吐臭の染み付いたお洋服を洗濯し、コーヒーの一杯もお飲みになりませんかと進言もした。
 胡散臭い申し出だから、断ってくると思った。
 だが、男は俺の誘いにあっさりと頷き、のこのこと俺に着いて来た。
 俺は、俺自身にも呆れてはいたが、この男の考えなしなんだか図々しいだけなんだかの態度に、呆れを通り越して驚愕すらしていた。
 馬鹿だ、こいつ。
 さっさとバスルームに押し込み、コーヒーを淹れる準備をしに、俺は台所に向かった。

 男が風呂を使っている間、脱ぎ散らかした服はまとめて紙袋に突っ込んだ。後で持って帰らせれば良かろう。
 体格から言って俺の服では合わないだろうから、ジム用に使っているジャージを出した。これなら多少融通が利く。
 コーヒーメーカーがコーヒーを淹れている間に、トースターにパンを突っ込み、ソーセージを茹でて目玉焼きに添える。トマトときゅうりを切ってレタスと一緒に盛り付け、インスタントのスープを作る。
 それらとドレッシングを並べ、テレビを点けて新聞を広げた。
 片手にフォークを持ち、適当な朝食を適当に摘まむ。
 扉が開く気配に顔を上げると、風呂から上がったばかりで水を滴らせている男が俺を見ていた。
「適当に座って……コーヒー、今出すから」
 俺が立ち上がると、ぎゅう、ぐるる、とすごい音がした。
 見ると、男が腹を押さえながら、赤面して立ち尽くしていた。
 俺は無言のまま台所に向かい、トースターに新しいパンを突っ込んだ。

 男は、良く食べた。
 俺があまり食べない方だからかもしれないが、その食欲は誰かを髣髴とさせてしまう。
 食べ方は綺麗なのに、量が半端ないのだ。
 じっと見てしまっていたらしい、男は俺を振り返ると、黙って見つめ返してきた。
 俺は視線を避けた。
「……俺は、あなたと会ったことがあっただろうか」
 突然おかしなことを言い出すので、俺は思わず顔を上げた。
「何で」
 初めて会うはずだった。馬超以上に美しい男を、俺は知らないからだ。
 男は困ったように首を傾げると、俺が見も知らない自分にあまりに親切だからだと答えた。
 ある意味、俺は安心した。
 やっぱり、この男が馬超ではないとはっきりしたからだ。見も知らない、初めて会うと本人の口から聞くことで、俺はやっと馬超とこの男を切り離して見ることが出来た。
 安心から、俺は饒舌になった。
「いや、初めてだ。ただ、俺が知っている奴とお前があんまり似てたから、ちょっと仏心が出たのかも、な」
 馬超は、自分の顔を乱雑に撫でながら、少し考え込んでいるようだった。
「……似ている、のか……」
 自問自答のように呟くので、俺は何だか可笑しくなった。そんなに深刻になるようなことじゃないと笑い、空いた皿を片付けた。
「落ち着いたら、帰れよ。その服は、やるから」
 そうはいかないと慌てる男に、俺はただ、いいよやるよ、いらなければ捨てろよと繰り返した。
 男は、急に居心地悪くなったように席を立った。
 帰るのか、と問うと、黙って頷いた。
 見送りがてら、洗濯物の入った紙袋を取りに行く。
 玄関で靴を履いている男に差し出すと、頭を下げて寄越した。
 やっぱり馬超とは違う。大学生か何かなのか、何処か幼い感じがした。
「あ……迷惑かけてすまなかった……俺は……」
 名乗ろうとするのを遮った。もうこれきりなのだから、名前を聞いたって仕方ないだろう。
 男は、かなり戸惑っていたようだが、俺が玄関を開けると渋々と言った感じで外に出た。
「道、分かるか」
 ステップを降りる男の足取りは重く、まだ酒が残っているのかと心配になるほどだった。
「ここら辺は、良く来るから……」
 泥酔した己が恥ずかしいのか、ぼそぼそと呟く男に笑いかけ、じゃあな、と言ってドアを閉めた。
 何か言いかけていたような気もしたが、礼とか、何かそんな他愛もないことだろうと勝手に決め付けてドアに鍵を締めた。
 振り返った時、かかとに何かが当たった。
 並べてあった靴がずれて、その下から何かカードのようなものが見える。
 何だ、と思って拾い上げると、学生証だった。
 どうしてこんなものが、と表を返し、俺は息を飲んだ。
 馬超。
 そこにはそう、記されていた。
 印刷された小さな写真には、先程の男が映っていた。
 呆然とする。
 馬超と同じ顔、同じ声、名前も同じ『馬超』。
 そんな馬鹿な、と頭の中が真っ白になった。
 おかしいじゃないか。
 だって、馬超と言う名は……ここは日本で……おかしい……いや、おかしく……ない……?
 激しい違和感がある。
 だが、何が原因だか探り取れない。
 馬超と言う名は珍しいが、ないわけではない……いや……ない……あるのか……? 中国の……歴史上……何が……いや……。
 俺はパニックに陥りながら、弾かれたようにドアに張り付く。
 開かないドアに苛つきながら、鍵を掛けていたのだと慌てて鍵を開ける。
 外に飛び出し、辺りを見回すが、『馬超』の影は何処にもなかった。
 馬超。
 本当に、馬超なのか。
 手の中の学生証に記された名前は、何度目をこすっても『馬超』としか読めない。
「馬超」
 名前を呼ぶだけで胸が苦しくなって、息が出来なくなる。
 馬超は愚か、人通りもほとんどない。
 俺は、家に帰って頭を冷やそうと踵を返し、初めて気がついた。
 裸足だった。


  

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