元の世界へ返したはずの馬超が、また俺の前に現れた。
 違う。
 中身はまったく違う人間なのだから、馬超であるはずがない。
 だが、奴の名も確かに馬超なのだ。
 この学生証が、何かとんでもない悪戯ではないとして、の話ではあったが、俺は呆然としてその学生証を見入っていた。
 とある有名私立大学の名前が書いてある。政経学部、とあって、俺は何故だか苦笑した。
 馬超が、政経学部。はぁ。
 似合うような似合わないような、妙にくすぐったくなった。
 馬超じゃ、ない。
 例え名前が一緒だったとしても、顔がそっくりだったとしても、やっぱり俺にとっての馬超はあの馬超一人なのだ。
 学生証をテーブルの上に投げ捨て、俺はソファに寝転がった。
 馬超。
 無意識に、考えないようにしていた。
 考えても何にもならない、ただ辛いだけだったからだ。
 今日は、もうずっと馬超のことを考えている。
 股間に疼くものを感じて、面倒に思いつつも指を伸ばす。
 固くなって、勃ち上がっていた。
 玄関前を綺麗に掃除してすぐ、風呂に入ったのだが、だるいままうだうだと過ごしていたので、店に出る迄にはまだ時間があった。
 慰めてやろうか?
 自分のものに話し掛けるようにして指で辿ると、奥の方から引き攣れるような軽い痛みが走った。
 ジッパーを下ろして下着ごと剥くと、汚い色をした肉塊が現れた。
 こんなものに、馬超は舌を這わせたのだ。
 思い出すと、それだけで先端が揺れ、滲み出る透明な雫が零れた。
 馬超の艶やかな表情を思い出しながら、俺は自らを慰めた。
 不思議なことに、顔自体の記憶は薄れているのに、滑らかな肌や鍛え上げられた腹筋のなだらかな窪み、快楽に震える睫などは怖いぐらいに鮮明に思い出された。
「ん……馬超……う……ん……」
 名前を呼ぶと、悦が急速に加速する。体を捻って悦を味わい、丹念に扱いていると、意外に早く果てが来た。
「……ん……く……ぅん……」
 肌が汗ばむのが分かる。体の奥で焼ける熱が、表皮にまで達しているのだ。
「あっ……う、うく……っ……んっ……」
 慌ててボックスティッシュの箱を引き寄せ、股間に押し当てる。抑えた手の中で俺の肉塊は勢い良く跳ね、吐精した。
 薄いティッシュが、重く湿っていくのが分かる。
 新しいものに替え、綺麗に拭き取るが、粘度の高い液の為かティッシュの白い屑がへばりついて汚らしかった。
 馬超がいなくなって、初めて自慰したかもしれない。
 もう一度シャワーを浴びなければならない破目に陥って、俺はうんざりしながら重い腰を上げた。

 髪をワックスで固めて整えると、夏用のジャケットを羽織って外に出た。
 ステップに足を掛け、びっくりしたように俺を見上げている『馬超』がそこに居た。
 帰って一眠りでもしたのか、重たげだった目はすっきりとしていて、そうしているとますます馬超にそっくりだった。
 服もこざっぱりとしたものに変えて、よく見れば海外ブランドを品良く着こなしている。
 私立大にいることと言い、何処かのお坊ちゃんなのかもしれない。
「何」
 俺は、何の感動もなく問うた。『馬超』の目は泳ぎ、滑稽なほどうろたえていた。
「……あ、の……忘れ物……を……」
 何が忘れ物だ。
 どう考えても仕込んだとしか思えなかった。
 けれど、俺は突っ込むのも面倒で、おざなりに相槌を打った。
「学生証?」
 こくり、と馬超が頷く。
 俺は家の中に戻ると、テーブルの下に滑り落ちていた学生証を見つけ、玄関に向かった。
 玄関には、何時の間にか『馬超』が入り込んでいて、ドアはかろうじて細く開けられていた。
 その隙間の狭さに、俺は何故だか憤りを感じた。
 外からは見えない、けれど『馬超』がその気になれば何時でも逃げ出せるように仕込まれている、そんな風に思ったのだ。
 卑怯だ。
 理由もなく、俺はただ腹立たしかった。
 無言で『馬超』に学生証を差し出すと、『馬超』はぎこちなくそれを受け取り、内ポケットに仕舞いこんだ。
「あの……」
「用は済んだだろ? 俺、これから仕事なんだよ。急いでるから」
 時間に余裕はあったのだが、俺は早くこの『馬超』と別れたい一心で小さな嘘を吐いた。
 『馬超』は何故かぐずぐずしながら、しかし俺の為に玄関を開けてステップを降りた。
 俺は靴を履き、玄関のドアに施錠する。
 振り返ってステップを降りようとすると、『馬超』はステップに設えられた手すりを掴んで、通せんぼするみたいに立ち塞がっていた。
「何」
 俺は更に苛ついてつっけんどんになっていった。
 俺の苛立ちをどう受け取っているのか、『馬超』は困惑したように俺の顔色を伺い、車で来ているから、職場まで送ると申し出た。
 いらぬお世話だ。
 俺の職場は繁華街の中央からは外れているが、実は自転車で行くのが一番手っ取り早い近場にあるのだ。さすがにそれは禁じられていたし、自転車なんか下手に置いておくとすぐにパチられる素晴らしい街なので、持ってはいなかったのだが。
 要するに、下手に車で赴くよりは、歩いて行った方が全然マシなのだ。
 言葉は多少柔らかくして(ここら辺は自分でもいい加減人が良過ぎると思っている)告げると、『馬超』は凹んだようにステップから半身ずらした。
 その隙間を通り抜け、俺はそのまま職場に向かう。
 後ろから、おずおずと足音が着いて来た。
 帰るのだろう、車に向かっているのだろうと敢えて無視していたのだが、足音は何時までも着いて来る。
 繁華街に入り、雑踏の中に紛れても、何故だかその足音は絶えず聞こえてくるような気がした。
 店の近くまで来て、ようやく俺は後ろを振り返った。
 『馬超』が、当たり前のようにそこに居た。
「……車、こっちなのか」
 俺の視線を受けて、『馬超』は戸惑ったように首を横に振った。
「……ここら、辺、なのか?」
 何がここら辺なんだよ。
 分かってて俺は訊く。『馬超』は、俺の勤め先を知りたがっているのだ。
 予想通り俺の職場を尋ねてくる『馬超』に、俺は鼻で笑った。
「聞いて、どうすんだよ」
「……いや、ちょっと……」
 あからさまに困惑している。俺がどうして腹を立てているのか、理由も分からないようだ。
 俺にだって分からない。
「何、売り上げに貢献してくれるってのか」
 俺の言葉に、『馬超』はようやく話の糸口を見つけられたとでも思ったか、ぎこちないながらも笑顔になった。
 そんなつもりは、ない。
 笑みを浮かべた『馬超』に、吐き捨てるように事実を告白する。
「俺、ホストだよ」
 侮蔑の笑みを浮かべ、俺は『馬超』を冷ややかに見つめた。
 案の定、驚き凍りついたように立ち竦む『馬超』に一瞥くれて、俺は職場に向かった。
 足音が、着いて来た。
「……男でも、行っていいのか?」
 はぁ?
 俺は、思い切り呆れて後ろを振り返った。
 だけど、『馬超』は真面目そうに俺を見つめて、同じ問いを繰り返した。
「指名、すればいいんだろう? だったら……」
「馬鹿か、お前」
 呆れて物が言えない、というのはこういうことを言うのだろう。
「ホストクラブ、なんだと思ってんだ。ゲイバーじゃねぇんだぞ。うちは男の客なんか受付も通さねぇよ。何言ってんだ、帰れ」
 帰れ、車なんだろ、帰れよ。
 繰り返し念を押し、俺は背を向けた。
 そして、足音。
「……いい加減にしろよ」
 うんざりとして、俺は背後を振り返った。
「俺と、会ったことはないか」
 『馬超』は、突然そんなことを言い出して俺の度肝を抜いた。
「な」
 何言ってんだ、と続けたかったのに、俺の口は声を出すことを忘れてしまったように強張ってしまった。
「俺と、何処かで会ったことは、ないか。遠い昔、のような気もするし……ついこの間のような気もする」
 『馬超』が俺の肩を掴む。指が食い込んで痛い。どれだけ馬鹿力なんだ。
「な、俺と会ったことは、ないか? ずっと……名を、思い出そうとしているんだ……ここまで出掛かっているのに、何故か出てこない……」
 違う。
 俺は、俺が会ったのは違う馬超だと理解している。お前は、『馬超』は、違う。
「教えてくれないか、お前の名を」
 駄目だ。
 教えては、いけない。
 お前が俺の名を『思い出した』ら、駄目なんだ。
さん」
 俺の必死の決意は、脇からひょっこりと顔を出したJによって脆くも崩れ去った。
 さっと青褪める俺と、ぱっと明るい表情を浮かべる『馬超』は、まるで反比例するグラフの線みたいだった。
「…………」
 懐かしげに、愛しげに『馬超』が俺の名を口にする。
 駄目だ、その名は、俺の名前は馬超だけがそう呼んでいい……そういう、名前なんだ。
 お前じゃない。
「あれ、馬超さんじゃないスか。ちーす」
 Jが、『馬超』に気安く声を掛ける。『馬超』は初めて会うJの顔を、驚いたように見つめている。
「あ、ひょっとして、忘れちゃったんですかぁ? 酷ぇな、一緒に呑んだじゃないですかぁ……そりゃ一回限りだったけど。今日も、さんと一緒に社会見学ですか?」
 いいお兄さん持って、幸せですねぇとJは呑気に繋げた。
 『馬超』の顔が強張り、のろのろと俺を振り返る。
 目が合う前に、俺はJの肘を掴んで、何も言わずに駆け出した。
「ちょ、あれ、さん? 馬超さんが」
「違う」
 引き摺られながら、後ろを振り返り指差すJに、俺は常にない強張った声を上げた。
「え」
 きょとんとして後ろ振り返るJに、苛立って更に力を篭めて引っ張る。
「いた、痛いですよぉさん!」
 聞く耳持たない。
 『馬超』は、もう俺を追ってこない。
 けれど、その目が俺を追って来ている。
「あれは、馬超じゃない」
 Jに、というより、自分に向かって言い聞かせるように、俺は何度も繰り返した。
「あれは、馬超じゃない」
 俺に気圧されたのか、Jは黙って、だが怪しい人間でも見るかのような、訝しげな視線を向けてきた。
 構ってなどいられない。
 あれは、馬超ではないのだから。
 角を曲がって、店の中に飛び込んでも、『馬超』の目が俺を追いかけているような気がして、俺は神経質に後ろを振り返った。


  

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