目を覚ますと、朝になっていた。
 俺の体の上には毛布が被せられていて、でも腕は拘束されたままだった。
 足は解かれている。
 犯された形跡は、ない。
 安堵はしたが、ただ、真後ろに誰かの熱を感じた。
「ん……?」
 もぞ、と蠢く気配がして、俺の顔を『馬超』が覗き込む。
 寝惚けたような顔が柔らかな笑みを浮かべるのを、俺はぞっとしながら見上げた。

 傷ついたように唇を噛み締める『馬超』から、目を逸らした。
 背中に回された手が不自由だったが、俺はベッドから降りようともがいた。

 『馬超』の手が背後から伸びてきて、俺の体を抱きすくめる。
「……やめろ、触んな」
「何処に行く」
 ここにいろ、と耳元で囁かれる。馬超と同じ声で。
 俺はとにかくじたばたと暴れた。
 ロマンの欠片もない。単に、トイレに行きたかったのだ。
 昨夜散々呑んだせいか、腹の中に圧迫感を感じるほどの尿意があって、焦った。
「……あぁ」
 にや、と口の端を上げて笑う『馬超』に、顔が焼ける。気付かれた。
 『馬超』は、俺の体を横抱きに抱えると、廊下に出て狭い階段を横歩きに降りる。女じゃあるまいし、何でこんな扱いを受けなくてはならないのか。
 情けなさに逆切れしている俺を他所に、『馬超』はトイレのドアを開け、俺を押し込んだ。
 背後に回ると、俺のものを掴んで支える。
「……ちょ」
 何をするんだと抗議する前に、限界を迎えていた膀胱は、『馬超』の指で促されて排出を始めてしまった。
 どん底に突き落とされるような気分だった。
 いくら腕を拘束されているとは言え、よりにもよって『馬超』に下の世話をさせることになろうとは思わなかった。
 なけなしのプライドが、みしみしと音を立てて軋んでいる。
 長い排泄が終わると、ご丁寧にもペーパーで先端の雫を拭い取られた。
 情けなさと悔しさが頭の中を真っ白に染めていく。
 派手な水音と共に汚物が流されて、『馬超』がシンクの上の水でおざなりに手を洗っているのをぼんやりと眺めた。
 再び抱きかかえられて二階に運ばれる。
 ベッドの上に寝かされて、『馬超』が覆い被さってきた。

 目が、必死だ。何にそんなに必死になっているのか、俺には理解できなかった。

 顔は『馬超』の手で固定されてしまっていたので、目を逸らせる。
 『馬超』が追って来る。また逸らす。追って来る。逸らす。
 ずっと、何度も繰り返す。
……!」
 焦れたように呼ばれても、反応を返すことはしなかった。
 『馬超』が唇を噛む。
「……お前のそばに、俺じゃない俺が居たんだろう。お前は、そいつが俺だと思ってるんだろう」
 その通りだ。
 敏い『馬超』は、俺の中の馬超に気がついていた。
 俺にとっては、馬超だけが馬超だ。
 綺麗で、プライドが高くて、傷つきやすくて、わがままで、でも、俺にとっては唯一無二の宝物だった。
 お前じゃない。
 馬超は緩く首を振って否定した。
「俺が、馬超だ。お前の……」
 違う。
 俺は顔を逸らした。『馬超』の手で押さえつけられてはいたけれど、出来うる限り『馬超』から逸らす。
 そうすることで、俺ができる精一杯の否定をした。
 違う、お前じゃない、お前は違う、と。
「俺は馬超だ! 生まれてからずっと、ずっとそうだった!」
 そうかもしれない。そうなんだろう。
「だけど、お前は俺の馬超じゃないだろ」
 お前の中に、俺と居た記憶があっても、俺と居た事実はあるのか。お前が生きていた中で、俺という、という男は居たのか。誰でもいい、お前の周りで、お前以外に俺を知っている奴はいるのか。写真は? ビデオは? 何でもいい、俺とお前が確かに一緒に居たという事実が、何か一つでもあるのか。
 お前の知っているは、お前の記憶の中で浮き上がった、誰か他の人間の記憶なんだろう?
 自分でない人間の記憶。
 そんなものが何になる。
 違和感の説明が着いた。そうか。そういうことか。
 それは『馬超』も同じだったらしい。打ちのめされたような顔をして、俺を呆然と見下ろしている。
「……何でお前が、馬超の記憶持ってるか知らないけど……もう、止めな」
 虚しい。
 馬超じゃない男と寝たって、俺には何の感慨もない。違和感と不快感に塗れるだけだ。どんなに似ていても、声が同じでも、馬超ではないのだから。
「な。もう、そんな記憶捨てちまって、俺のことなんか忘れて、普通に生活すればいいだろ。な。学生なんだろ。勉強とか、サークルとか、やることいっぱいあるんだろ。……男だぜ、俺。もっと可愛い女の子、当たれよ」
 馬超ならともかく、こいつには俺でなくてもいいはずだ。
 俺は、ただ懇々と説き伏せるように続けた。
 車だって持ってんだろ。服だって、センスいいし、お前、もてるだろ。そんなわけの分からない記憶、なくったっていいだろう。捨てちまえ。記憶なんて薄れてくもんだし、いつか何であんなことしたのかって思い出せなくなるようになるって。な。
 突然、『馬超』の目から涙が零れた。
 ぼろぼろと、それは堰を切ったかのように溢れて俺の顔に降ってきた。
「嫌だ」
 噛み締めた歯の間から、たった一言だけが漏れた。
 俺にしがみつくようにして、『馬超』はただ泣き続けた。
 そして俺は、俺の中に瞬間的に芽生えたある錯覚に呆然としていた。
―――馬超かもしれない。
 これまで散々否定し、納得していたのにも関わらず、『馬超』の泣き顔を見た、たったそれだけで俺は考えを翻しかけた。
 怒ったように、けれど大粒の涙を流す馬超の泣き顔と、『馬超』の泣き顔が、ぴったりと重なって網膜に焼き込まれてしまった。
 俺はものすごく焦りながら、早くこの錯覚から逃れようとうろたえた。
 『馬超』が顔を上げた。
 乾いた唇に『馬超』の柔らかい唇が重なって、ぬるりと舌が侵入してきた。
 留めようにも、腕はまだ拘束されている。
「抱く」
 短い宣言の後、『馬超』は俺の首筋に顔を埋めた。
 舌が、肌の上を滑っていく。
 濡れた感触から冷たい空気が滲み込み、乾いていく感覚に俺は身を震わせた。
「……な、やめろ! やめろって!」
 『馬超』は答えもしない。
 胸を滑り、腹を通り越して、下半身で熱を帯び始めた俺のものを掴む。
「バカ、やめ……」
 トイレで小便を垂らして、紙で拭いただけのそれを『馬超』は躊躇いなく咥えこむ。
「……き、たなっ……汚い、だ、ろ……っ!」
 強い愛撫に途切れがちになる声を、必死で繋げて『馬超』を押し留めようとする。
 包まれていた熱が消え、一瞬気が抜けるが、『馬超』は今度は俺の尻に舌を這わせ始めた。
 悲鳴が漏れた。
 後孔を舌で突付かれ、ねっとりと唾液を擦り込まれる。シャワーも浴びていないままの汚れた部位に舌を這わせられる屈辱と羞恥に、涙が浮かんだ。
「やめろ、やめろよ!」
 必死に叫ぶと、『馬超』が顔を上げた。
 何かを堪えているように眉間に皺を寄せ、おもむろに俺の股間のものを握り込んだ。
 やわやわと握られ、擦られると、俺の腰は意志と関係なくびくびくと跳ねた。
「……男と寝たことなんか、ない。でも、俺は、とどうやったら繋がるのか、知ってる」
 記憶があるのに、どうしてそれを忘れなくちゃならない、と『馬超』は叫んだ。
「どうでもいい記憶だったら、お前の言う通り忘れられるかもしれない。けれど、これはどうでもいい記憶なんかじゃない。ずっと探していた、ずっと求めていた人の記憶だ」
 『馬超』の手が、愛しくて仕方ないと言うように俺の頬を優しく、執拗に撫でた。
「……俺だ、。俺が、お前の馬超なんだ」
 否定しないでくれ。
 泣き出しそうな声が、胸をつんざくようだった。
 だが。
「………………」
 俺は、否定した。
 突然膝裏を抱え上げられ、腰が高々と持ち上げられる。
 大きく無様に開かれた足の間に、馬超の猛りが押し当てられた。
 まさか。
 さっと青褪める俺を、馬超は怒りに歪んだ目で睨めつけた。
「や、やめ……」
 震える声は一笑に付された。
 内臓を抉るような衝撃があって、体が嫌な音を立てて軋んだ。
 もう悲鳴も出ない。
 からからに渇いた喉は、引き攣れて、熱を含んだ痛みを訴えていた。
 ずきんずきんと、痛みが鼓動のように響いてくる。
 涙で潤んだ視界に、じっと俺を見下ろす『馬超』の顔が映った。
 どうして。
 声は出なかったが、何故か『馬超』には聞こえたらしい。
「……は、抱いてくれないだろう?」
 だから、俺がを抱くのだ。
 その声が、やけに痛ましく、哀しく聞こえて、俺は目を閉じ、『馬超』の姿を消した。
 目の奥で、馬超が俺を哀しげに見つめていた。


  

拾い武将シリーズINDEXへ→