チャイム(インターフォンなんて気の利いたものはない)を鳴らされるのは久方ぶりのことだ。
公共料金はすべて銀行で自動引き落とししていたし、我が国の国営放送に関してもちゃんと料金を納めている。判子がいるようなお届け物はまず届かないので、いったい誰が訪ねてきたのだろうと俺は無用心に覗き窓を覗いた。
本当は、分かっている。
そこには、ドアから離れて不安気に佇む馬超の姿があった。
もう少し近付いてくれれば、魚眼レンズの効用で愉快に歪んだ馬超の姿が見られただろうに、残念だ。
「新聞なら契約済みです。十年くらい」
「……新聞屋じゃない。と言うか、十年も契約できるか」
「押し売りなら間に合ってます」
「誰が押し売りか」
段々と声が焦れてくる。
「強姦魔はお断りです」
馬超の顔が一瞬歪む。
ドアが、ガン、と音を立てて軋むのと俺がドアから体を離したのは、ほんのわずかな差だったろう。
少しでも遅れていたら、ドア越しの衝撃とは言え、体のどこかを打ち付けていたかも知れない。
何という短気だ。
しばらくしんと静まり返ったドアの向こうで、小さく一度だけノックの音がした。
「……謝るから……開けてくれ」
俺は、ドアの前でじっと立ち尽くしているだろう馬超の姿を思い浮かべた。
もう、一週間くらいは顔を見ていない。
俺が避けるからだ。
無茶苦茶なセックスの後、俺は馬超の買ってきた飯を食い、帰りもせずに当たり前のように泊まった馬超の腕に抱かれて寝た。
腰は痛かったが、次の日には自力で歩ける程度には回復して、俺は一度家に帰ると言って出て
行った馬超を見送り、鍵をかけた。
それきり、馬超を家に入れていない。
馬超は、夕方には戻ってきた。
当然、すぐ入れてもらえると思っていたらしい馬超は、玄関に鍵が掛かっているのを知ってチャイムを鳴らしてきた。
俺は玄関口に出ると、鍵も開けずに誰何した。
鍵を開けてくれと言う馬超に、俺はたった一言発して、奥に引き込んだ。
「何で」
その一言が、どれだけ馬超の胸を抉ったのかは想像を絶する。
津波の前に波が一気に引くように音が消え、やはり津波が牙を剥くように重い鉄製のドアが激しく殴打される音が響いた。
馬超を、馬超として認めた。
だが、馬超を俺の情人と認めたわけでは、決してない。
見紛うべくもない強姦、それを俺が受け入れたわけではないと分かっていなかった馬超が迂闊だ。
俺は、コーヒーを啜りながら、何時までも止まない騒音に耳を傾けていた。
それから毎日、馬超はやって来た。
俺の携帯のナンバーは知らないから、そうするしか他に方法がないのだ。
時間帯はまちまちだ。
朝早くだったり、夜遅くだったり、昼日中のこともあった。
騒ぐだけ騒いで、俺が開けないでいると、今度は玄関前に座り込んで俺が出てくるのを待っているようだった。
学生は暇でいいなぁ、と俺は呑気に考えた。
冷蔵庫の中の物が底を尽き掛けていたが、元々あまり食べない方でもあったし、乾麺だの何だのは保存が効くから常備してあった。一日一食なら、まだしばらくはもちそうだ。
コーヒーは、仕方ないからインスタントででも我慢しよう。
店には、腰を酷く痛めてしまったのでしばらく休むと言ってあった。嘘ではなかったし、腰の引けたホストなんてお姫様達にも失礼だろう。
完治したら出るから、とオーナーに謝ると、そんなら仕方ないと渋々認めてくれた。
普通ならクビになってもおかしくないと思うが、そこら辺は日頃の行いだろう。当たり前だが、給金は入らないが。
何か持って行ってやろうか、と申し出てくれたオーナーの気持ちだけ有難く受け取ることにして、俺は日に数回起こる騒音に、時に付き合い時に無視しながら一週間を過ごして来たのだった。
腰の方はだいぶ回復した。
そろそろ店に出るか、と卓上カレンダーを見遣り、その隣に置かれた時計を見た。
午前四時を回った頃だ。
せっかくの休暇だし、そろそろ寝るかと欠伸をした。
戸締りはしたまんまだから問題ない。このくそ暑いのに雨戸まできっちり閉めてある。一日中まわしたクーラーのおかげで、今月の電気代はバカになるまい。
電気を消し、寝室に上がる。
ベッドに上がりこむと、目を閉じた。眠くはなかったが、そのうち眠るだろう。
がしゃん、と小さな音がした。
は、と息を飲み、起き上がる。
泥棒だろうか。
しかし、雨戸はすべて閉められている。今のはどう聞いてもガラスが割れる音で、では、流しに置いたコップが何かの拍子で倒れて割れでもしたのだろうか。
朝でいいかと一度は放置しかけたが、結局気になって確認することにした。
寝室のドアを開けると、そこに馬超が居た。
目の錯覚だ。
まずそう思った。
家中の鍵は閉まっていたし、馬超が入れる余地など何処にもない。
けれど、馬超の腕が俺の肩を掴み、勢い任せに床に引き摺り倒してきた時点で錯覚でも夢でもないと分かった。
背中から派手な音を立ててひっくり返る。
痛みに呻く間もなく馬超に顎を取られ、噛み付くように口付けられた。舌を絡められ、引きずり出され、痛みを覚えるほどに吸い上げられたかと思えば、今度は馬超の舌が突きこまれてくる。
噛み千切る余裕もなく、あったとしても顎を押さえられていて上手く出来そうもない。
突然離れたかと思えば、角度を変えてまた口付けが落とされる。
蹂躙するだけの行為に、呼吸もままならず溺れた。
俺の体から力が抜けるのを見計らって、馬超の手が俺の夜着のシャツを引き裂く。
ボタンが飛んだ。
何時か、同じようなことをされた気がする。
ああ、あれは、『馬超』が、趙雲のことで滅茶苦茶怒った時があって、それで。
では。
馬超は、怒っているのだろうか。
ふざけるな、と俺は抵抗を始めた。
何で俺が一方的に犯されなきゃならない、と怒りが湧いた。
『馬超』の時は俺が惚れ込んでいたから、だから俺は何をされてもいいと思っていたし、許してきた。
馬超は、違う。
俺達は出会ったばかりで、そういう関係ではないはずなのに無理矢理体を重ねて、そういう意味ではどんな人間関係よりも最悪のスタートと言えた。
俺は馬超に怒っていい権利がある。
何せ、腰も立たないほど滅茶苦茶に犯されているのだから。
だが、馬超に俺を蹂躙していい権利があるわけがない。俺の体は俺のもので、馬超のものではないからだ。
「……何やってんだよ、欲求不満ならソープにでも行って来い!」
押し退けた先で、馬超の目がぎらっと光って見えた。
やばい、と思うのと同時に殴られた。
視界がぐらっと揺れて、俺の意識も一瞬飛んだ。
また口に噛み付かれた。今度は強く歯を立てられ、薄い皮膚が破れて血が滲んだ。
馬超の舌が丹念に拭っていく。むしろ、敢えて啜る為に噛まれたような気さえする。
「…………」
熱を帯びた甘い息が、耳元に吹き込まれた。
血に酔ったような馬超の囁きに、俺は呑まれまいとしてもがいた。
馬超は構わず、俺の股間を露に剥くと、溜めもなく口に含んだ。
ぴし、と脊髄の神経を細い針金が貫いたような衝撃があった。
「あ、あ」
零れた声をどう受け取ったのか、馬超は艶やかに笑み、見せ付けるように舌で嘗め回してきた。
肉の刺激に視界の刺激が重なり、耐えられず閉じる目を、馬超は叱咤して許さなかった。
「見ろ、。俺の手で固くなっているお前のものを、ちゃんと見ろ」
そして、さっさと俺を受け入れろ。
徹頭徹尾命令でしかない言葉に、俺は首を振って拒絶した。
途端に激しくなる愛撫に、悲鳴が零れた。
「俺を受け入れろ。拒否は、許さんぞ」
強く吸われて、痛みに仰け反る。
脳幹から溢れてくる恐怖に、俺は身を捩った。
俺はぐったりとうつ伏せになって寝ていた。
中に出されたのは一度だったが、腹に一度、尻越しの背中に一度、顔射までされて体中べとべとしていた。
情けなさに泣きたくなるのを堪えて、よろけた足取りで風呂場に向かう。
快方に向かっていた中の傷も、元の木阿弥でまた熱を発している。
シャワーから上がると、何処かに消えていた馬超が玄関から入ってきた。
「返すぞ」
足元に投げ捨てられたのは、俺の家の鍵のついたキーホルダーだった。
コピーキーを作られた、と察して俺は激怒した。
ふざけんな、と怒鳴りつけると、馬超が俺の背後の壁を殴りつけた。
「どっちが、ふざけてるんだ」
「……お前だよ」
睨めつけるが、気迫は完全に馬超に呑まれている。俺は、内心びくついている自分に舌打ちしながら、必死に虚勢を維持していた。
「お前、俺の何なんだよ。何のつもりなんだよ。情人面しやがって、餓鬼の癖に」
「違う」
馬超のあまりの冷静さに腹が立って、何が、と吐き捨てると馬超の唇が目尻に触れた。
まるで宥めるかのような仕草を邪険に振り払うと、今度は体ごと抱きすくめられた。
「餓鬼じゃないし」
耳元に唇が寄せられる。
「……俺じゃない、お前が俺の情人だ」
否定と侮蔑の言葉は、馬超の唇で封じられた。
続