「何をしたんですか」
 馬岱の第一声は、馬岱としたら極自然な、当り前の問い掛けだったろう。
 それは、馬岱があくまで馬超側の人間だというところに起因する。
 俺に対して好意を持っていてくれるとしても、それはあくまで俺が馬超にとって特別(特殊と言おうか)な存在だからなのであって、いざ二人を天秤に掛けた際に馬岱がどちらの肩を持つかなど、考えるまでもなく知れていた。
 けれど、俺は馬岱が素直に納得いくような回答を持ち合わせていない。
 何故なら、俺自身も訳が分からないからだ。
「……えーと……浮気、された」
 浮気と聞いた瞬間、馬岱の眉がびきりと引き攣ったのを俺は確かに見た。
 けれど、その眉はシャープな曲線からすぐに間の抜けた孤へと転じる。
「……浮気、された? ですか? した、ではなく?」
 確認するまでもない。
 俺が厳かに頷くと、馬岱は呆然と虚空を見詰める。
 青天の霹靂なのだろう。
 それはそうだ、この俺にしても馬超が浮気する可能性(俺が馬超の本命だと思うのは、意味もなく癪だったのだが)などこれっぽっちも考えてなかった。
 ただ、浮気と言っていいものかどうか、俺も少しばかり悩むところではある。
 馬超の浮気相手が、趙雲だったからだ。

 嫌がらせとしてか思えないDVDが張郃から送られて、自分の喘ぎ声を聞かされながら犯されるという馬鹿げた目に遭った。
 DVDそのものの尺は短く、事が済む前にとっとと切れてくれたのは良かったが、馬超のキレっぷりは留まるところを知らなかった。
 さんざ好き勝手に弄られて、いざ挿入の段階で馬超のものが言うことを聞かなくなる。
 恥ずかしかったのか何なのか、馬超は矢庭に俺の頭を掴んで口での奉仕を強制した。
 奉仕自体は構ったことではないが、尻に突き込むのと変わらぬような乱雑な動きに根を上げて、振り払ったのがまずかった。
 拒絶されたとでも思ったのか、馬超はそのまま二階に赴き、トランクに荷物を纏めると出て行ってしまった(関係ないが、どうしてそのまま出て行かないのだろう)。
 家出と言えば家出だが、そも俺の家に押し掛けての一方的な同棲だったから、そう言い切っていいのか判らない。
 会社には出て来ていたし、会話こそなかったがいつもと変わらぬ様子だった。
 一人になった自宅は、やはり何となく寒々としていたが、前例がない訳でもなし、その内戻ってくるだろうくらいにしか思っていなかった。
 帰りに呑みに行って帰宅が遅れたある夜、家に戻ると馬超の靴がある。
 やっぱり戻って来たのだと思って居間に向かうと、果たして不貞腐れた馬超がそこに居た。
 何と声を掛けていいか迷ったのは、ほんのわずかな時間だったと思う。
 先に動いたのは、馬超の方だった。
 腰掛けていたソファから立ち上がると、俺の前に立つ。
「趙雲と、寝た」
 思いも寄らない言葉だった。
 馬超には、趙雲と寝たことは告白していたけれど、それでも敢えて二人が、ということは考えてもいなかったのだ。
 今思うに、何故考えなかったのかが分からない。
 かつて二人が互いをどう思い、どう見ていたかを一番理解していたのは、俺だった筈なのに。
「……あ、そ……」
 意表を突かれて棒立ちになる俺を、馬超は複雑な色を映した眼でじっと見詰め、そのまま去って行った。
 それきり家には戻って来ない。

 俺の話を聞き終えた馬岱は、眉間に皺を寄せて俺を睨め付けていた。
 居心地悪く苦笑いを浮かべる俺に、深々と溜息が被せられる。
「……お話はよく分かりました。ですが、私には到底信じられません……あの、従兄が、まさか」
 相手が趙雲だというところはぼかして話したから、余計に信じられないのだろう。
 もっとも、趙雲が相手だと話して聞かせたところで、別の意味で信じられないに違いなかったが。
 馬岱が馬超を敬愛してやまないのは、部外者の俺にもよく分かる。
 ひょっとしたら、馬岱もその傾向があるのかと思うぐらいだ。無論、男に興味が云々ではなく、馬超に対してのみに限定されるけれども。
 正直、馬岱を見ているとあまりに馬超を大切にし過ぎていて、怖くなる時がある。
 それ程近しい間柄でも接触が多いという訳でもないが、馬岱の言動の一つ一つから馬超を案じ、労わっている慈愛のようなものが染み出しているのを感じるのだ。
 もし俺が理由もなく馬超を踏み躙ったりしたら、馬岱は躊躇いなく俺をぼろ雑巾にするだろう。
 そんな埒もない確信を持たせるようなものが馬岱にはあった。
 上目遣いに馬岱を窺う俺を、『また馬鹿なことを考えているんでしょう』とばかりに馬岱が睨め付ける。
 馬岱にとっては『馬鹿なこと』ではなかろうと思いつつ、俺は視線を逸らして静かな店内の一角を見詰めた。
 儲かっているのかいないのか、客が押し掛けているのを見たことがないこの変わった珈琲専門店の、俺は常連になっている。
 ちょくちょく顔を出していたという馬超の大叔父とやらには会ったことがない。
 何でも、馬超が嫌がるに違いないから、また、大叔父が居ることで俺の足が遠退くに違いないから来ないでくれと馬岱が説得したそうだ。
 さぞや大荒れに荒れたのではないかと戦々恐々としている俺に、馬岱は事も無げにおとなしいものだったと言ってのけた。
 かなりショックだったらしく、ただ分かったと呟いて自室に籠ったという話だから、いったい何を如何言って聞かせたのだかと、却ってこちらが申し訳なくなる。
 あの大叔父が居たら確かに常連にはなるまいなと思う節もあるから、罪悪感もひとしおだ。
 冷め始めたコーヒーを煽り、俺は席を立った。
 代金を払おうとすると、御代はいいから食事を取るように厳命された。
 ここ数日夕食を抜いて居た(単に面倒で食べるのを忘れていたのだ)のを、馬岱はすっかり見抜いて居るらしい。
「詳しいことを聞いたら、お伝えしますよ」
 馬岱はそんな言葉で俺を送り出し、俺は曖昧に頷いて軽く手を振った。
 そうは言っても、馬超は何も話すまいし、俺にも聞き出すつもりはない。
 たぶん、馬岱の言葉には『だから』が付いていて、俺の方で何か分かったら教えて欲しいと繋がるのだ。
 けれど、そんな次第で、俺にどうこうしようというつもりはまるでなかった。

 家に帰ると、やはり人の気配はない。
 かつての日常に戻っただけの話だったので、俺が困惑する理由は何もなかった。
 風呂だけ入って、ベッドに向かう。
 馬岱の忠告は有難かったけれど、食欲がなかった。
 本来、俺はどちらかというと食欲がない方だった。
 時折スイッチが入ったようにがっと掻き込むことはあったけれど、それ以外は一日一食でもまったく困らない。
 気が付くと丸一日何も食べていない時があって、食べたいというよりは食べなくてはという義務感で食事を取る。
 馬超と一緒に居ると、そんな俺のペースは通用しない。
 三食は三食できちんと食事を取りたがるし、食べる時は俺に作らせたがるし、作れば俺と一緒に食べたがった。
 それはそれで俺の健康にとっては良かったのだろうけれども、代わりに馬超が居なくなった途端、俺の食欲は一気に減退してしまった。
 パブロフの犬の逆バージョンとでも言おうか、馬超が居ない今となっては何かを食べる必要性すら感じなくなりつつある。
 会社に行けば昼休みだ、何か食って来いという空気に押されて、適当に口にすることもあるのだが、夜、自宅に一人きりでは何も食べる気がしない。
 まずいよな、と反省もするのだが、昼は摂っているからいいかという気もする。
 そんなこんなでしばらくはいいかとなって、だらだらと過ごす羽目になっていた。
 ベッドに横たわると、目を閉じる。
 まだだいぶ早い時間なので、眠くはない。
 疲れて体がやたらに重く感じられて、やることもないから大事を取って早めに横になっている、等と自分に向かって理由をこじつけている。
 テレビはうるさいだけで面倒だったし、DVDはこの間の件で見る気もしなくなっていたし、読みたいと思う本もなければ持ち合わせの趣味もない。
 なので、横になるのが俺に出来る精一杯の自主的行動だった(我ながら情けないが)。
 金でも溜まったら、シンセの安いのでも買おうか、などと考える。
 下手の横好き程度の腕でも、曲がりなりにも弾けることは弾けるのだから、この際多少なりとも練習しておくのも悪くはないと思った。
 特技はあるに越したことはあるまい。
 結局、好きでやることにはならないのだな、と自嘲が漏れた。
 昔の俺の夢と言ったら、誰にも知られず野垂れ死にすることで、卒業文集に馬鹿正直にそれを書いたら、当時の担任に酷く叱られた。
 こんなのは夢じゃない、ふざけてないでちゃんとやりたいことを書きなさいと言われた俺は、思案の挙句嘘の夢を書いて提出したのだった。
 よく覚えていないのだが、確かパイロットか何かになって、みんなを喜ばせたいですとかよく分かるような分からないようなことを書いたような気がする。それを読んだ担任がえらくほっとした顔をして、何だ君、ちゃんと夢があるんじゃない、素敵な夢だね、立派だねと褒めちぎってくれた。
 俺はその日の放課後、トイレでこっそり泣いた。
 個室に入るのが汚いと喚き立てるような子供世代で、個室に入るのはかなり危険な行為だったのだが、どうして俺はあの時個室を泣き場所に選んだのだろう。
 もとい、どうして俺はあんなボロ泣きをしてしまったのだろう。
 思い出そうとしても既に朧な記憶を鮮明にすることはできず、ただ危険を冒してまでトイレの個室に籠って泣いたことだけが切り取られて頭の内側に張り付いたようになっていた。
 好きでやったことが何かあったかな、と思い出そうとするのだが、何も思い浮かばないということは何もなかったということだろう。
 我ながら詰らない人間だ。
 詰らなくても息はしているし、糞は垂れるし、働かねばならない。
 朝起きて会社に行って働いて、帰ってきたら寝るという生活にも不満はないし、それさえやっていればいいというなら楽なものだ。
 そんな下らない人間に、好いたの惚れたの言う馬超や趙雲がおかしい。
 俺が言うのも何だけれど、あの二人がくっついたのならそれはそれで最高の組み合わせのような気がした。
 見た目も良く、行動力があって、性格も(いささか問題はあっても)良く人に好かれて、才もある。
 道義的には問題がないとは言えないが、それでも俺と組み合わせられるよりはずっといい。
 半ば確信があったが、馬超は今、趙雲と暮らしているのだろう。
 真っ平御免などとは言っていたが、かつて趙雲が馬超を見ていたのを俺は知っている。馬超も、結局は趙雲に甘えていただけだった。
 一度送り出しておいて、もう一度送り出すことに抵抗がある訳がない。
 寝返りを打つ。
 広さが気に入って有り金叩いてまで買い求めたベッドだったから、半端なく広い。
 どうしてこんな広いベッドが良かったんだろうか。
 思い出せなかった。
 自分の記憶が、酷く不安定で曖昧だということを今更ながらに思い知る。
 馬超のことは、忘れたくても勝手に浮かんでくるというのに。
 それとも、俺は本当は馬超のことを思い出したがっているのだろうか。
 思いの外長いこと関わってきた相手だった。関わり合いたくないと突っぱねたこともあったけれど、あいつと知り合ってから変に交流の幅が広くなって、俺の周りもだいぶ賑やかになった。
 だからかもしれない。
 俺は、ベッドの端まで転がって、落ちる間際の隅の方で体を丸くして目を閉じた。
 ベッドの真ん中に居るより、ほんの少しだけ気が休まった。

  

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