「貴方を見ていると、確かにイライラするわね」
 俺はその時、言われた言葉の内容よりも、仕事の最中何の前触れもなく私語を口にした陽子さんに驚いて居た。
 お喋りの類は元より、前触れなく話し掛けてきたことなどただの一度もなかったからだ。
 陽子さんは驚いた俺に気付いたのか、少し困ったような顔をして、謝罪した。
「ごめんなさい、そういう意味じゃなくて」
 俺が驚いたのを、傷付いたと受け止めたようだ。
 傷付いたと言えば傷付いたような気もするが、むしろ付け足された言葉に陽子さんの真意が何処にあるのかということの方が気になってしまう。
 陽子さんは陽子さんで、どう説明したか考えあぐねているようだった。
 私物のボールペンの筆尻を、薄い色の唇に軽く当てて俯いている。
 どうやら考え込む時の癖らしいが、薄い緑のアルミ材質が唇の暖色に映えて、少しばかり色っぽいなと思っているのは内緒の話だ。
「……貴方がね。私に、似ていると言う人が居て」
 それで、イライラするのだという。
 どう捉えていいか分からない。
 いや、何となくは分かるのだが、軽く相槌を打って認めてしまうにははばかられる理由だった。
 自分と似ている俺を見てイライラするというのなら、それは、陽子さんが俺の中に自分の嫌な部分を見出しているからだろう。
 イコールで、陽子さんに俺と同じ性質の嫌な部分があると認めることに繋がりかねない。
 例えて言うなら、物凄くお喋りな人が、別のお喋りを見て嫌悪感を抱き、そう言えば自分もお喋りだな、と自己嫌悪してしまうようなものだ。それを迂闊に『そうですね』とは言い難い。
 自分がお喋りだという自覚がないのであれば、『似ている』と言われたところで否定して終わるだけだ。だから、俺の想像は的中とまではいかなくとも、大枠には沿っていると思う。
「……貴方には、いずれ私の仕事を任せることになると思うわ。一応、教えはするけど……」
 そこで陽子さんは口籠り、何事か考え始めた。
 退職の予定でもあるのだろうか。
 何となくだが、そんな気がした。
 でなければ、普通、何もないのに仕事の引き継ぎを示唆するようなことは言わないだろう。
 第一、今とて決して暇な訳ではない。俺の横には旧データを入力しながら新規のデータを組み込んでいかねばならない作業が山積みになっているし、陽子さんは手書きの報告書をチェックして数字化していく書類を片付けている最中だ。
 お喋りしながら出来る仕事ではないし、諸葛亮課長は仕事と私事の慣れ合いを酷く嫌うタイプの人だったから、うちの課では必要以外に言葉を交わすことはほとんどない。
 課長に心酔している節のある陽子さんが、仕事を中断してまで課長が嫌う私語を続けている様が、酷く不自然で落ち着かなかった。
「辞める、とかでは、ないですよね」
 思わず口を滑らせた俺に、陽子さんは驚いたように目を見張り、次いで苦笑を露にした。
「……そんなつもりではないの。気を回させたのだったら、ごめんなさい。でも……そうね、私は、女だから」
 そう思われても仕方がないかもしれない、とぽつりと呟いて、陽子さんは仕事に戻った。
 放り出されるように会話を終了されてしまった俺は、けれどそれ以上食い下がることもなく、同じように仕事に戻る。
 気にしても、陽子さんが続きを話すことはないだろう。今の会話そのものがイレギュラーなのだ。
 キーボードのテンキーを叩きながら、でも確かにこんな俺と似ているとしたら、陽子さんも嫌だろうな、と思った。

 昼休みになり、ランチを取りに小走りに駆け出すOLの子達に混じり、俺も外に出た。
 ここ数日は馬岱の居る店でランチを取らせてもらっていたが、今日はどうも行く気がしない。
 食欲もなくて、近所の公園に向かった。
 公園と言っても、良くある児童公園ではなくて、散策向けの広いものだ。
 立派な噴水が敷地中央に設置されているが、時期柄か水は止められている。風が強いと水飛沫が飛び散るから、そのせいかもしれない。
 風はひんやりと冷たく、天気は良くてもその恩恵は感じられない。
 時間帯の割には人影も疎らな公園を、俺はぶらぶらと歩いていた。

 声掛けられたのは聞こえていたが、俺は何となく聞こえない振りをした。

 しかし、声は執拗に俺の名を呼び続け、リズミカルな足音と共にどんどん近付いてくる。
 腕を掴まれては無視し続ける訳にもいかず、俺はそこで初めて気が付いたような振りをしながら、顔を上げる。
、気が付いて居たでしょう」
 俺の猿芝居は通用しなかった。
 趙雲は、露骨に怒った顔をして、俺の手を強く引いて向き直させる。
「……ぼーっとしてたんだよ」
 ごねて嘘を重ねる俺に、趙雲の目は険しい。
、食事、きちんと食べてるんですか。顔色が悪いし、だいたいこんな寒い日に何で上着の一枚も着てないんです」
 上着は着ている。ワイシャツの上にスーツのジャケットという寒々しい出で立ちではあったが、着ていることに変わりはない。
 例え趙雲が手袋に厚手のコートを着込んでいるとはいえ、俺の格好は文句を付けられる程おかしいものではない筈だ。
 趙雲は、俺の不満など見て見ぬふりで、手袋を素早く外すと俺の手を握る。
 思わず振り払っていた。
 趙雲の顔が強張り、俺は俺で不機嫌に眉間に皺を寄せる。
「……こんな街中で気持ち悪い、ホモかと思われるだろ」
 寝たこともあるのに棚上げして吐き捨てると、趙雲も腹立たしそうに眉を寄せる。
「気持ち悪いのは貴方の方でしょう、そんな、氷みたいな手をして」
 母親のような口振りに、俺の眉間の皺はますます深く、更に数を増す。
「元々体温低いんだよ。寒くなると指とか冷えるし。これで普通なんだから、いいって、いちいち口出さないで」
 再び歩き出そうとする俺を、趙雲の手が再度引き留める。
 俺が不機嫌に趙雲を睨め付けると、趙雲はキツい目をして睨み返す。
「聞かないんですか」
 何を、と尋ねるのも億劫だった。
「聞かないよ」
 即答してのけると、趙雲の目が歪む。
 悲しみではなく、純然たる怒りの眼だった。
「子供ですか、貴方は」
 あの時は、笑って見捨てたくせに、今になって。
 趙雲は、過去の記憶を忘れていない。
 俺が二人を騙して捨てた、あの瞬間のことも明確に覚えている。
 それでも、俺はしつこく自分のプライドを守ろうと足掻いた。趙雲が、馬超があの時どれだけ傷付いたかなど、考えないようにして目を逸らした。
 頭の中で、二人の泣き顔をぐちゃぐちゃに塗り潰して黒く染め上げる。
 なかったことにしたかった。
 なかったことにした方がいいと思った。
 今、こうして再び二人で居るのなら、俺の存在はない方がいいと思った。
 辞めようか。
 ふと思い付いた。
 陽子さんが不安そうな目をしていたのは、俺が入ることでお払い箱になることを危惧してのことではないかと、今更気が付いたのだ。
 女だから、と呟いた声には、何処か切羽詰まった色があった。
 K.A.N程の大企業であっても、未だに女性への偏見は根強い。
 男女雇用均等法と言っても、女性が働き続けるにはまだまだ社会が幼いのだ。このまま男の俺が仕事を引き継いだ時、女の自分がどうなっているのか、陽子さんが不安に感じてもしょうがない。
 だったら、俺が辞めちまって、理由はイマイチ情けなくても、でも陽子さんの立場がこれで守られるのであればと考えると、無性にそうした方がいいような気がした。
「どうでも、いいんですか、私達の……私の、ことなど」
 趙雲の声が震えている。
 俺は、訳が分からなくなっていた。
 どうでもいいと思ったのは、二人の、趙雲の方なんじゃないのか。
 俺は、別に馬超とも趙雲とも付き合っているつもりはない。
 馬超に関して言えば、押し掛けて来たのはあっちの方で、俺が歓待した覚えはなかった。
 趙雲にしたって、前世の記憶がどうたらで、別に、俺が必要でとか、無論愛とか、そんなつもりではなかったのではないだろうか。
 だいたい、俺は二人と会ってからも、他の……何でか女とは縁がないのだが……男と寝たりしている。
 それを気付かれて(発見されてと言った方がいいかもしれない)もいる。
 引き留める理由も正当性も、俺にはない。
 馬超が誰と寝ようが、趙雲が誰にちょっかい掛けようが、俺の知ったことではなかった。
 何が言える。
「別に」
 短く要約した言葉に、趙雲の手が外れた。
 解放された手が、やたらと重く感じられる。
「どうでも、いいってことなんですか。それ」
「どうでもいいってか……何、言えって」
 趙雲の唇が、きゅっと音を立てた。
 強く噛み締めて、噛み締め過ぎて出た音だ。
 泣き出しそうな趙雲の顔に、俺は釣られて泣きそうになる。
 でも、泣いたりはしなかった。
「……馬超から、話、聞いてるだろ」
 趙雲は黙っていたが、それこそ聞いている証拠だ。
 聞いているなら分かるだろう。
 俺には束縛する権利も束縛される価値もない。
 必要があれば尻ぐらい平気で差し出すし、別に罪悪感もない。
 相手が女の子だったらまだしも、野郎同士で好きも嫌いも責任もないだろうと思う。
 趙雲は何も言わない。
「……営業、時間ないんだろ。時間あるんならメシ食って、ちょっとでも休んどけよ。体壊したら、周りに迷惑掛かるだろ」
 俺に説教されるようじゃお終いだ。
 歴とした営業成績を誇る趙雲に、俺のような事務のぺーぺーが説教するのが面映ゆく、また申し訳ない気になって、手持無沙汰に頭を掻いた。
 と、趙雲が、不意に踵を返して歩き出す。
 何も言わず、足早に立ち去っていく背中を、俺はじっと見詰めた。
 怒らせただろうか。
 俺が張郃と寝たのには理由があったが、理由があったら許してもらえるとも思えない。
 馬超辺りじゃ、正義感から憤慨して暴走しないとも言い切れず、話がこじれればこじれるだけ面倒だとも思った。
 でも、趙雲の背中を見送りながらこんなことを考える辺り、俺は本当は二人に許してもらいたがっているんじゃないだろうか。
 馬鹿だなぁ、と情けなくなる。
 頭の隅に掠めた妄想が、次第次第に大きくなっていくのを感じながら、俺は、いっそ実行に移してしまおうかという甘い誘惑に駆られた。

  

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