TEAM蜀で、俺のデスクは二つある。
 フロアに置かれた普段の仕事をする時用のデスクと、営業事務室とは名目ばかりの、資料室の中に拵えられた資料作成用のデスクだ。
 姜維主任はフロアの方で仕事をすることが多いが、俺や陽子さんは資料室に籠ることが多い。諸葛亮課長は1:3くらいの割合でフロアと資料室を移動する。もっとも、諸葛亮課長は営業事務担当と言うことで、劉備専務の付き添い等で外に出ることも多いのだが。
 ともかく、朝出勤してきた時と帰る時にフロアに寄るぐらいで、俺はだいたい資料室に籠っている。
 公園から戻ってきた時も、だから、フロアのデスクには寄らず真っ直ぐ資料室に向かった。
 そういう理由で、俺の異変に気が付いたのは陽子さんだけだった。
「どうしたの」
 冷静な陽子さんが酷く慌てていて、俺は逆に首を傾げた。
 と、ふっと目が回って、デスクに手を着いてしまう。
 熱が出たんだな、と分かった。
 慎重に椅子を引いて腰掛けると、スリープ中のパソコンを起こす。
 打ち込む資料を取り出してキーを叩き始めると、額に冷たい手が触れた。
「熱があるわ」
「いや、大丈夫ですよ」
 多少の熱なら気にしたことではない。
 伊達に肉体労働に従事してきた訳ではないのだ。
 少し調子が悪い程度で休んでいたら、逆に身が持たない。
 陽子さんは困ったように俺を見ていたが、俺のキーが軽快な音を立てているのを認めてか、静かにデスクに戻ってくれた。
 こういうところが有難い。
 下手に大騒ぎされて、無理やり休めと言われて居たら癇癪起こしかねないところだ。
 何かしていたかった。
 家に帰ってもすることがないから、一番いいのはこうして仕事をしていることだった。
 見直し作業は明日に回すことにして、一先ず打ち込むだけ打ち込むことにする。
 熱があるから、見直し作業ははかどるまい。単純に数字だけを追う作業の方が、向いている。
 思ったとおり、打ち込みに集中していく内にどんどん無心になる。
 いつもよりも早いペースで作業が進んでいく感じだ。
 キーがリズミカルに打ち鳴らされるのが、耳に楽しい。トランス状態になっていく。
 写経していると何も考えられなくなるというが、あんな感覚に近いかもしれない。
 無言で、指だけは止まることなくキーを叩き続けた。
 こと、と音がして我に返る。
 気が付けば、隣に陽子さんが立っていて、デスクマットのわずかに空いたスペースに、スポーツドリンクのペットボトルが立ててあった。
「本当は、おやつの時間にと思ったんだけど……集中しているみたいだったから」
 言われて時計を見ると、就業時間を過ぎていた。
 打ち込むべき書類は、手元の一枚で終わりだ。
 二日見ていた入力を、半日で終わらせていた。どれだけ集中していたか、呆れるより外ない。
 数字間違ってないといいな、と今更見直しをして、とりあえず直近の分には間違いが見当たらないのを確認する。
 目眩がした。
 集中していたのが途切れて、体が自身の不調を思い出したのだろう。
 陽子さんの気遣いを有難く受けることにして、ふと見遣ると、陽子さんもスポーツドリンクを飲んでいる。
 デスクに置かれたスポーツドリンクは冷え冷えとしていて、買い立てか冷蔵庫から取り出したばかりかといった風だ。
 ひょっとして、と陽子さんを窺うと、陽子さんは微かに頬を染めた。
「熱があるなら、冷たい方がいいでしょう?」
 たぶん、おやつの時間にも一度買って来てくれたのだろう。声を掛けてくれたのかもしれないが、俺が気が付かなかったので渡せなかったのだ。
 また買って来て、それで温くなった分を自分で始末しているということらしい。
「代金、払います」
 財布に手を伸ばす俺を、陽子さんは押し留める。
「いいのよ、別に。そんなたいしたものでもなし」
 けれど、陽子さんは根っからのコーヒー党で、ジュースなどの甘い飲み物はあまり好まないことを俺は知っている。
 それを二本も買わせてしまったことに、いささか罪悪感が沸いていた。
「いいのよ。たまには」
 陽子さんはペットボトルの蓋を軽く捻り、口を付ける。
 温くて旨くないのだろう、少し渋い顔を見せた。
 冷蔵庫に仕舞っておいては、俺が気付いた時に渡せないと踏んだのだろう。だから、温くなるまで放置しておいて、終業時間になると同時にまた新しいのを買いに行ってくれたのだ。
 冷たく見えがちだが、優しい人だ。
 ペットボトルに口を付けると、喉がひり付く程甘い。
 疲れてるのか、よっぽど渇いていたかだなと他人事のように考える。
 喉を通って、胸の辺りに冷たいものが染み渡るのが分かる。血管の形に広がっていく妄想が過ぎり、その冷たさが心地良かった。
 一気に半分飲み干して、一息付く。
 じわり、と水分が滲み出す感触があった。
「陽子さん、俺、ここ辞めたら駄目ですかね」
 胸に滞っていた言葉が唐突に飛び出した。
 陽子さんも驚いているようだが、俺も驚いた。
 さっきこのことを考えていた時には、恋愛、しかも男同士でのいざこざで辞めるなんて、と苦笑していただけに尚更だ。
 しかし、一度口にしてしまうと溜まっていた澱のようなものが一気に吹き上げて来て、口を閉ざすと今度は目から涙として吹き出した。
 唐突な辞職相談の後はだだ泣きし出した俺に、陽子さんは戸惑っているようだ。
 当然だろう。
 俺も戸惑っていた。
 陽子さんがハンカチを差し出すのを断って、ティッシュで涙を拭い取る。
 半端なく溢れて来たので、ハンカチ一枚汚すだけでは足りなくなりそうだったのだ。
 すいません、すいませんと苦笑しながら謝り続ける俺を、陽子さんは黙って落ち着くまで待っていてくれた。
 ようやく涙が止まって、軽く深呼吸して息を整える。
「……どうも、すいません。何か、スイッチ入ったみたいで」
 頭を下げると、陽子さんの声が上から降って来た。
「いいけど……。理由を聞いても、構わない?」
 笑って誤魔化してしまえば良かったのだが、どうしてもそんな気にはなれなかった。
 しばし黙してみたものの、王様の耳はロバの耳、話してしまいたい衝動に勝てなくなった。
 熱のせいかもしれないが、俺自身が限界だったのだろう。
 気が付くと、俺には相談できる相手が居なかったのだ。
 それこそ、ただの一人もだ。
 俺は馬超と趙雲の名前は伏せて、この会社に好きなひとがいたこと、三角関係のようなことになってしまっていて、けれど俺の勝手でずるずると続けていたこと、俺自身はそれを(今も)恋愛感情とは認められず、善悪の分別もなく他の人間と関係を持ったりしたこと、それを悪いと思えないで居ること、だから二人がくっついたからと言って悪いこととは感じられず、むしろ祝福するべきだと感じていること、ただ、どうしてもここに居辛いと感じてしまうこと等を洗いざらいぶちまけた。
 聞かされる陽子さんこそいい迷惑だったろう。
 ゴシップ好きな性質のひとではない。
 その手の類には嫌悪を隠さない人だけに、俺の低俗な、性質の悪い色恋沙汰など、鼓膜に通すのも汚らわしいと吐き捨てられても仕方がなかった。
 陽子さんは、怒らなかった。
 嫌悪感もなく、ただ悲しげに目を伏せていた。
 その静かさこそが俺には驚きで、今更ながらに恥ずかしさが込み上げてくる。
 言わなければ良かった、と遅過ぎる後悔を噛み締めていると、陽子さんの溜息が資料室に満ちる空気の重苦しさに拍車を掛ける。
「……本当に、似ているのね……何の嫌がらせなのかしら」
 意味のまったく分からない呟きに、俺は一瞬目を丸くした。
 陽子さんは苦笑して、こちらの話、と付け足してまた溜息を吐く。
「好きとか」
 口元を覆っているせいで、それが陽子さんの言葉だと気付くのに数瞬を要した。
 陽子さんは俺を見ずに、室内の何処でもない、何処か遠くに心を飛ばしているように見えた。
 それが何処なのか、俺には見当も付かない。
「……私も、分からない。独占する必要とか、他のひとを蹴落とすとか……そういうの、全然分からないし……自分が居なくなって済むなら、それでいいかもしれないと思うこともあるの」
 でもね、と陽子さんはぼんやりと呟く。
「でも、必要とされているなら傍に居た方がいいのかな、とか……例えそれが、私でなくてもいいって分かっていても……もし、本当に必要とされているなら、残っていた方がいいのかしらって……未練なのかしら……そう思うと、どうしていいか分からなくなって、逆に、何故だか無性に逃げたくなるの。必要だって、言われれば言われる程信じられなくなって、嘘だって決め付けて、とにかくこの人から離れたら楽になるんじゃないかって、そんなこと考えたり……」
 陽子さんは緩々と首を振ると、溜息を吐いた。
「ごめんなさい、私、何もいいアドバイスできないわ。ただ、貴方の気持ちが分かるような気がするっていうだけ」
 詫びる必要はない。
 的確なアドバイスではなくとも、俺は確実に楽になっていた。
 例え傷の舐め合いであったとしても、少なくとも似たような傷を負っているのが一人でないと分かっただけで十分だ。
 陽子さんは、俺を否定しなかった。
 分かるような気がする、という曖昧な言葉は、分かると力強く断言されるより、分からないと厳しく断罪されるより、遥かに俺の小さい器を満たし癒してくれていた。
「辞めたいというなら、辞めてもいいと思うわ。誰が何と言おうと、私はいいと思う。……私は結局、その選択さえ選べないでいるし」
 離れられないのね、馬鹿ね、と陽子さんは苦く自嘲した。
「でも俺は、離れないって覚悟決められるのも、普通に凄いと思いますけど……俺には、出来ない」
 本心からの言葉だったが、陽子さんは目を丸くして俺を見て、次いでくすくすと笑った。
 滅多に見せない陽子さんの笑みは、びっくりする程綺麗で、痛々しかった。
 傷の舐め合い、と陽子さんは尚も笑う。
 俺も同じように考えていたから、苦笑するよりなかった。

  

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