少し休んで、でも結局帰らないときちんと休めないしということで、俺は重い体を引きずって帰宅の途に就いた。
 タクシーを呼んだら、と陽子さんは言ってくれたが、どのみち家の前までは入って来れないし、一方通行やら時間による道の具合やらで電車で帰るより時間が掛かってしまう。
 なるべく短時間で帰りたかったから、無理してでも電車の方がいいと思ったのだ。
 それがいけなかったのかもしれない。
 いつもより早い電車はちょうどラッシュを迎えたところで、たかが四駅が辛いことこの上ない。近道すれば十分掛からない駅からの道を、その何倍も掛けてとぼとぼ歩いた。
 常ならば気にも留めない整髪剤や香水の匂い、歩き煙草の煙や車のクラクション、甲高い女の子の笑い声さえも、逐一刺々しく俺を責めたてる。
 ようやく家に辿り着き、後ろ手で鍵を掛けるのがやっとだった。
 これはまずいな、と一先ずエアコンのスイッチを入れた。
 スーツを脱ぎ棄て、ソファに積んでおいた洗濯物の山からパジャマを引っ張り出して着替えたのだが、背筋と言わず全身がぞくぞくして、寒気と吐き気が止まらない。
 薬箱を引っ繰り返して風邪薬を見付けると、三錠くらいだろうと適当に煽った。
 コートを引っ張り寄せて、ソファに転がる。
 二階の寝室に行く余裕もなかった。
 上がったところで水の用意もなかったし、トイレに行くのも一苦労になりそうな予感がする。
 下で寝ていた方がまだ良かろう。
「い、て、て……」
 関節がみりみりと嫌な音を立てて痛み出す。
 熱のせいで、変にきしんでいるのかもしれない。
 手のひらでさすりながら温めて、痛みを紛らわせる。
 早く薬が効いてくれるのを祈るばかりだ。
 エアコンは強くしておいたはずなのに、一向に温まる気配がない。
 ねっとりとした汗が吹き出して、寒いのに暑いという訳の分からない状態になった。
 喉がひりつくが、水を飲みに立つ気力もない。
 冷蔵庫まではほんの数メートルで、行けばミネラルウォーターが冷やしてある筈だが、そこまでの距離が果てしなく思えて踏ん切りが付かない。
 とにかく、薬が効くまではじっとしていよう。
 固く目を閉じて体を襲う異変に耐えようとするが、今度は腹の方が痛くなってきた。
 猛烈に痛み出した腹に、こればかりは耐えきれず這い上がる。
 ソファの背もたれから壁へと、伝いながら移動するのもしんどい。
 薬が古かったのかもしれない。今度からは定期的に確認しておかなくちゃなと反省する。
 今度があればの話だが。
 やや不吉な想像を実感も伴わないまましつつ、俺はトイレに立て籠った。
 どうせ誰も居ないから、ドアも開けたままでいい。
 そう考えると気楽だ。
 一人で良かった。
 トイレから再び這いずるように出て、今度は冷蔵庫に向かう。
 たかだか2リットルのペットボトルが異様に重い。
 冷たくて気持ちいいが、重い。
 床をずるずると引き摺って歩き、ソファに戻る。
 冷たい。
 こちらは、気持ち良くない。
 全身鳥肌立てながら寝そべると、ミネラルウォーターを煽る。
 途端にまたトイレに行きたくなった。
 半泣きでトイレに向かうが、少量出たのみで後は激しい腹痛が襲うばかりだ。
 そう言えば、食ってないのだから出るものもない。
 やっぱり薬がまずかったのか、とげんなりしながらソファに戻ると、床に置いてあったペットボトルに引っ掛かる。
 蓋をきちんと閉めていなかったらしく、ペットボトルがひっくり返ると、どぶんどぶんと重苦しい音を立てて中のミネラルウォーターが吹き出した。
 もういい。
 すっかり嫌になって、ペットボトルも起さずにソファに横になった。
 明日起きて生きてたら何とかしよう。
 家主は築ウン十年を過ぎたこの貸家のことなど忘れてしまっているのか、家賃さえ払っていればいいらしく何の連絡も寄越さない。
 それは仲介した不動産屋も同じことで、何年かに一度送られてくる書類にサインと印鑑だけ押して返送する以外のやり取りはない。
 普通は更新料とかいうものを取る筈だが、取り忘れているのか払えと言われた試しがなかった。
 それとも、月毎に納めている家賃の中から差し引かれて居るということだろうか。
 分からない。
 何処かに仕舞い込んだ契約書を見れば分かるかもしれないが、面倒臭い。
 たかだか二リットル足らずの水で床が腐って抜けることもなかろう。
 せいぜいカビが生えて茸が生える程度の話だ。絨毯も引いてあることだし、あらかたそちらに吸い取られるだろう。吸い取られてくれ。
 体が重くて、眠りに落ちるというよりは徐々に失われていく感覚があった。
 聴覚から始まって、五感の一つ一つが次々に消えてていく。
 家の中ではあったが、今まさに子供の頃の夢が叶いそうな勢いだった。
 誰にも知られず、ひっそりと野垂れ死ぬ。
 子供の頃から他人が怖かった。
 自分でない誰かは、皆、異質なものだった。
 親でさえ異質だと感じたのは、そんなに遅くない頃だ。
 だから、俺は割合早くからこんな俺だった。
 異質だから、あまり傍に近付きたくなかった。
 完全に拒絶すれば尚更執拗に付きまとわれると分かってからは、なるべくぼんやりとしていることにした。拒絶する時は、完全に引っ付かれる前に影も形もなく逃げ出せばいいことも、それなり早い内に習得した。
 曹丕なんかは、そのいい見本だ。
 上手く逃げられたと思っていたのに、何でか再会してしまった。二度と逃がさないとか、うざったいことこの上ない。美人の嫁をもらっておいて、いい加減諦めろと思う。
 その嫁も、少々難ありだ。
 嫁の友人だという張郃も頭のネジがすっ飛んでるとしか思えないし、あの魏をまとめている曹操という人がそもそも駄目だ。
 曹丕みたいな子供がいる時点でアウトだが、あの甄姫も張郃もTEAM魏だと言うからもう駄目だ。
 それを言ったら、うちのTEAMも俺なんかが居る時点で駄目かも知れないが、俺が抜けたらいいかもしれない。
 ああ、でも、馬超と趙雲が残っている時点で駄目か。
 馬鹿だ。あいつらは、馬鹿だ。
 俺なんか構わないで、とっととくっ付いたらいい。
 第一、あいつらと会わなかったら、俺はホストとして売れっ子まではいかないものの、そこそこ稼いで地味に貯蓄を増やして、限界まで働いたら無人島なりどこなりに行って、念願の野垂れ死にすることが出来たのだ。
 どうして俺はK.A.Nなんかに居るんだろう。
 どうして俺は、二人を見送ってしまったのだろう。
 一緒に行けば良かった。
 そうしたら、こんな気持ちにならなくて良かったかも知れない。
 ベッドの真ん中で、何処かに馬超が寝ているような気にもならず、わざわざ端っこに詰めて一人なのだと確認する為、床上にわだかまっている冷たい空気を吸わなくてもいい。
 否、馬超を拾わなければ良かったのだ。
 家の前に居たからと言って、何もわざわざ俺が拾ってやらねばならない義理はなかった筈だ。
 無視しておけば良かった。
 あの日の俺を、俺は一生恨み続けるだろう。
 会わなければ良かったのだ。
 会わなければ。
「やめろ」
 どうして。
「……頼むから、やめてくれ」
 ぽつ、と冷たいものが頬で弾けて、その刺激を受けてか俺の視界が回復してくる。
 霞んではいたが、そこに居たのは馬超だった。
 口を真一文字に引き結び、堪えている風なのだが、目からは涙がぼろぼろと落ちている。
「……泣き虫……」
 俺の指摘に、馬超は悔しげに涙を拭う。
 拭うが、涙が止まる気配はない。
 気が付けば俺は二階の寝室で寝かされて居た。
 毛布と上掛け布団の上に、俺や誰かのコートがどさどさ積まれて居る。
 重い。
 回らない頭で状況整理してみようとするのだが、記憶が飛んでしまって整理しようがない。ならしたばかりの更地を綺麗にしろと言っているようなものだ。
 馬超は起き上がると、そのまま出て行ってしまった。
 足音の調子からして、下に降りたのだろう。
 入れ替わりで入って来たのは、趙雲だった。
 どういうことかと尋ねようとした俺の口に、オフホワイトのプラスチック状のものが突っ込まれる。
 体温計だった。
 しばらくしてアラームが鳴り響き、俺より先に趙雲が引っこ抜く。
「……未だ少し熱がありますね」
 何度なのか教えてくれもせず、趙雲もまた階下に降りて行ってしまった。
 また、誰かがやってくる。
 馬岱だった。
 口を開こうとするのを遮って、いきなりぴしゃりとやられた。
 叩かれたのかと思ったが、額に手を当てているから一応熱を計っているのだろう。
 結構痛かったが。
「……本当だ、未だ少し高いようですね」
 言うなり、馬岱は俺を引き摺り起こし(こいつも結構な馬鹿力だと初めて知った)て背中にコートを引っ被せると、脇に置いた盆を俺の膝に載せる。
 見覚えのない小さな土鍋の蓋を開けると、中から白い湯気が沸き立つ。
 馬岱は俺を支えながら、レンゲで白い液体をすくうと息を吹き掛けて冷ます。
「……馬岱」
「はい、あーん」
「いや、だから、馬岱……」
 予想通りの攻撃に項垂れながら、自分で食べると主張する。
「駄目です、倒れたペットボトル一つ起こせない人が何を言って居られるのですか」
「あれは」
 言い返そうとするところにレンゲが突っ込まれる。
 何かと思ったら、重湯だった。お粥ですらない。
「……何、これ」
「重湯です」
 それは分かっている。
 不平を垂れると、温厚な馬岱の眉がしゅっと吊り上がった。
「ろくに食べてもいない胃に風邪薬なんか入れたら、こうなるのが当たり前でしょう。文句を言わずに平らげて下さい。これが食べられたら、次はお粥っぽいものを出して差し上げますから」
 お粥ではなくお粥っぽいものなのか。
 いったいどんなものが出てくるのやらと思いながら、せめて、と馬岱の肩を押す。
「いいよ、起きてるくらいはできる」
 しかし、馬岱は許してくれなかった。
 まともなクッションの一つもない俺の家が悪いと決め付けられて、余計に深く抱え込まれてしまう。
「何でしたら、従兄上に代わっていただいても構わないんですよ」
 それは嫌だったので、仕方無く馬岱の言う通りにすることにした。
 無言で粉っぽい汁を啜ると、それだけで胃が重くなってくる。
 頑張って平らげはしたが、馬岱の顔は不服気だ。
「顔色が悪いとは思ってましたが、そんな体でコーヒーを飲んでいたなんて、許せませんよ」
 許すとか許さないとかいう話なのだろうか。
 俺は馬岱から解放されたせいか、ゆったりとした心持ちで足を延ばす。
 面白くなさそうに俺を見ていた馬岱は、深い溜息を吐くと積まれて居たコートやら毛布やらを整えて出て行った。
 ふと、どうして馬岱達がここに居るのだろうとようやく疑問が沸いてくる。
 けれど、俺の瞼は胃に収められた重湯の温もりで、とろとろに蕩けていった。
 到底開けて居られる筈もなく、根性なしに閉じていく視界は、昨夜感じた閉塞感など微塵も感じさせない柔らかな快を伴う。
 ふわふわと浮かび上がる体を、何か重しのようなものが押さえ付けてきた。
 不快感はなく、暖かなそれに俺は腕を回して楽な姿勢を取る。
 何故だか落ち着いて、深い眠りを意識しながら微睡みに落ちて行った。

  

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