起きたら、部屋の中が暗かった。
 と言っても、この部屋は元々暗い。家の中全体的に暗いと言っても過言ではなかった。
 立地条件のせいだからしょうがない。おかげでそれなり安く借りられる訳だし。
 まぁ、正直物騒な立地条件だから(ここに至るまでの道が暗いし物影は多いしセキュリティはないも同然だし)、まともな神経のある人間が早々借りたいと思う物件ではない。
 起きて、携帯を探すがいつもの場所に見当たらず、手繰る指先は空を掴むばかりだ。
 あれ、と思って顔を上げ、そう言えば馬超達が寝室に上げてくれたのだと思い出す。
 倒れたのは金曜日だった筈だが、今日は何曜日だろう。
 下手したら会社をブッチしてしまった可能性もあり、俺は慌ててベッドから降りた。
「何をしているんですか」
 ちょうどいいタイミングで来合わせた馬岱に、俺はやや焦りながら今日の曜日を訊ねた。
「今日? 土曜日ですけど」
 ほっとした。
 意識を失うように倒れ込んでしまったから、時間の感覚がまったくなかったのだ。
「眠ったまま一週間も目を覚まさないから、心配しましたよ」
 馬岱が渋い顔で付け足し、俺は一気に青褪める。
「嘘です」
 俺の顔色を見ていた馬岱は、してやったりの風情でにやりとほくそ笑んだ。
 腹立たしくなり馬岱を睨むが、軽く肩をすくめられただけで受け流されてしまった。
「……一週間も眠ってたら、そんな気軽にひょいひょい起き上がれる訳ないでしょう。それに、自宅のベッドで寝かしっ放しになどいたしませんよ」
 それはそうなのだが、いとも簡単に騙されてしまったのもあって何だか腹立たしい。
 むす、と不貞腐れた顔を隠さずに居ると、馬岱はおかしげにくすくすと笑い出した。
「嘘を吐いて申し訳ありませんでした。今日が土曜日なのは本当ですし、貴方が倒れられたのは昨日の晩の話です。ですから、お勤めの方は心配しないで大丈夫ですよ」
 俺を落ち着かせるかのように淡々とした声音で事実を述べると、ベッドに戻るように促した。
 よく見ると、俺の上に積もっていたコート類が退けられて、見たことのない蒲団が被さっている。
 あれ、と馬岱を見遣ると、察し良く答えてくれた。
殿が寝ておられる内に、と。さすがにコートでは何ですし」
 掛け布団一枚では心許なかったのだろう。
 毛布が二枚ばかりあるにはあるのだが、今は奥に仕舞い込んである。
 探しても見付からなかったのだろう。
 馬岱は、前日の宣言通りに『おかゆっぽいもの』を携えて来ていた。
 先にスポーツドリンクを(しかもストロー付きの携帯マグに移し替えてあった)差し出してくれる辺り、馬岱の気配りが如何に細やかなのかを如実に示している。
 熱で乾いた体に、冷た過ぎないスポーツドリンクが染み渡った。
「……今、何時?」
 自分で食べると言うのを頑として拒否され、俺は雛のように口を開けながら馬岱が匙を運んでくれるのを待つ。
「もう夕方の六時近いですよ。一度起こそうかとは思ったんですけど、良く眠っていらっしゃるからと思って」
 体が眠りを欲している時は、無理に起こさず眠らせてあげた方がいいと思ったのだそうだ。
 実際、この時間になるまで一度も目を覚まさなかったので、馬岱の気遣いは本当に有難かった。
 飯もそうだが、ここ最近なかなか寝付けなかったのが体調的にも痛かったかもしれない。
 眠れずに居たから、夢も見ない深い眠りに就けたのは有難かった。
 一通り食べ終わると、溜息が出た。
 背中と腰が特に痛くて、後は関節が凝り固まっているような感覚がある。頭痛や吐き気はないが、体がだる過ぎてうんざりした。
 熱の後遺症だろう。
「……あ。馬岱、この布団……」
 わざわざ買って来たのだろうか、と改めて気付く。
 熱出してぶっ倒れている俺が居るのに、ごそごそ家捜しするのは気が引けたのかもしれない。
 あまりに気遣われていて、申し訳なさに拍車が掛かる。
「家にあったもので、どうせ使ってもいないものですから」
 良ければそのまま使って下さい、と馬岱が立ち上がると、趙雲が洗面器を持って入ってきた。
「変わろう」
 趙雲が声掛けると、馬岱はやや怯んだように、また名残惜しそうに俺に視線を向けて来た。
 何か言いたいことでもあるのかと俺が訊ねようとした瞬間、趙雲が俺の傍に回り込む。
 湯が張られた洗面器をベッドに置かれ、俺は下手に身動きできなくなってしまった。
 質の良いスプリングを使用しているとは言い難いだけに、俺が下手な動きをすれば洗面器が引っ繰り返りかねない。
 確かに、外国製だか言うこのベッドの表面は堅いのだが、それでも寝ている人間の居る横に洗面器を置くのは非常識だろう。
 趙雲は素知らぬ振りでクローゼットに向かい、我が物顔で積み上げたユニットケースを開けまくっている。
 見るからに厚かましい態度に何事か感じてか、馬岱は物言いたげに俺を見遣ると、土鍋を乗せた盆を手に静々と退場していった。
 それに合わせるかのように趙雲が戻ってくる。
 手には、新しいパジャマを掴んでいた。
「着替えましょう、。汗を掻いたでしょう」
 妙に刺々しい雰囲気に、俺は逆らえずに頷いた。
 スプリングが軋んで洗面器が揺れたが、中身の湯が零れる前に趙雲が取り上げている。
 一つしかないベッドが濡れるかと焦った俺を見て、趙雲の表情がようやく綻ぶ。
「……そこまで、馬鹿ではありませんから」
 土鍋が置かれて居た台に洗面器を置くと、趙雲は中に落とされて居たタオルを固く絞る。
「脱いで下さい」
 何をしていると咎めるような趙雲に、俺は少々渋りつつ、でもどうしようもなくて汗で湿ったパジャマを脱いだ。
 上を脱いだ時点で趙雲の手が伸びてきて、俺の背中に熱いタオルが押し付けられる。
 焼きゴテなどと言えば大袈裟に過ぎるが、感覚はそれに近い。
 びくっとすくみ上がる俺に、背後に居る趙雲の苦笑が吐息となって触れる。
 濡れたタオルが背中を移動すると、俺の体が如何に冷え切っていたのか判った。布団を被っていた時は暑くて堪らなかったのだが、我慢して潜っていて良かった。
 全身が平均的に熱を保てなくなるのが風邪なのだな、などと、もっともらしく考える。
 実際はどうか知らないが、趙雲が汗を拭ってくれたところからすっと心地よくなって、じじ臭いと思いつつも間延びした溜息が止められなかった。
 と、あからさまにタオルではない濡れた感触が項に押し付けられてくる。
 ぎょっとして反射的に前のめりに逃げようとするも、圧しかかって来ている趙雲の方が有利なのはどの観点から見ても明らかだ。
 もしやこのまま、と埒もなく慌てふためく俺を他所に、趙雲は意外や素直に離れてくれた。
 恐る恐る振り返ると、趙雲は怒りたいような泣きたいような、複雑な表情で俺を見下ろしていた。
「何なんですか、貴方は」
 意味が分からない。
 唐突な問い掛けに、俺は目を点にした。
「……何だ、って……何?」
 逆に聞き返す俺に、趙雲の表情は怒りの方に定まった。
 いきなり俺の下に手を掛けると、力尽くで剥ぎに掛かったのだ。
「わ、馬鹿、趙雲!」
 昨日、体調不良から腹を下したばかりだ。
 下着を汚している恐れさえあって、俺は本気で抗った。
 病み上がりの俺の本気など、趙雲に通じる筈もなかったが。
「気にする必要はありませんよ、。貴方のここに、何度私のものを埋め込んだと思っているんです」
 事実だとしても、そんな言い方はあんまりだ。
 俺は、刑事ドラマなんかで組み伏される犯人役よろしく、片手を後ろ手に固められて諦め悪くじたばたもがいている。
 趙雲が握るタオルが前の方に無理やり押し込まれ、痛みに腰が浮くのをいいことにぐにぐにと弄り回された。
 前はともかく尻まで丁寧に拭われ、もう勝負は着いたも同然になる。
 新しいタオルを取り出している辺り、汚れていたのか、それを見られたのかと凄まじく荒む。
 俺は何処の介護老人か。
 涙目になった俺に、多少は同情したのか趙雲の表情が緩んだ。
「自分の、とは言え、局所を拭いたタオルで他の所を拭かれたくないでしょう」
 暗に汚れていなかったと言っているのだろうが、本当のところはどうだか。
 汗だけでも相当汚れている自覚があるだけに、俺は不機嫌に眉を顰めた。
 趙雲はそんな俺を無視して、好き勝手に隅々まで拭う。
 俺は俺でもうどうでも良くなって、趙雲の好きにさせていた。
 全身を拭い終えると、趙雲がいそいそと新しいパジャマと下着を着せ付けてくれる。
 さすがに下は自分で穿いたが、上衣のボタンは趙雲が留めた。
 趙雲は上掛けを取り上げると、一度大きく振るう。
 多少埃は立ったが、そうして改めて被せられた上掛けからは少しばかり湿気が逃げて、気のせいか肌触りがいい。
 後でシーツも取り変えようとは言われたが、今のでもう充分なくらいだ。
 俺は、心地良さから再び微睡み始めていた。
 引き戻したのは、趙雲の一言だ。
「どうして、何も言わないんです」
 その言葉を、俺は世話を焼かせておいて礼も言わない無礼を咎められているのだと捉えた。
「あ、悪い……有難うな」
 趙雲の顔が歪む。
 そうではなくて、と吐き捨てるように呟くと、頭を掻き毟った。
「……どうでも、いいんじゃなかったんですか。私の……私達の、ことなど」
 どうでもいいなんてことはない。
 それは確かだ。
 けれど、俺はそれを言いたくないのだ。
 言えば、ではどう思っているのかと問い返されるに決まっているからだ。
「お前らこそ、俺のことなんて、どうでもいいんじゃないのか」
 そんなことを考えたこともない。
 だが、そうでも言うしか他に返す言葉が見つからなかったのだ。
 案の定、趙雲の目が殺気を帯びた。
 こんな風に怒り狂う趙雲を見たことがある人間など、何人居るだろう。
 それを幸せと思うべきか不幸と思うべきか、俺には生憎判断が付かない。
 ただ、どちらにせよ鳥肌立つ程おっかないのは変わらず、思わず口が滑ってしまった。
「……だって、さ、お前、馬超と……」
 だってなんて言葉は男らしくない。
 この場で言うべきことでもないのも分かっている。
 俺の逃げの言葉に、趙雲は恐ろしい沈黙で報いた。
 やがて無言のまま立ち上がった趙雲は、後片付けもせずに階下へと降りていく。
 完全に見捨てられた。
 そう感じた。
 苦いような、痛いような、じんわりとこみ上げるものがあって、俺は唇を噛み締めた。
 俺の浅いセンチメンタルを吹き飛ばしたのは、二階に居る俺の耳にもはっきり届く程凄まじい破壊音だった。
 馬岱が驚いて喚いているのが聞こえる辺り、では騒ぎの元は趙雲と馬超なのだろう。
 趙雲の声は一切聞こえないし、馬超の声もほとんど聞こえない。
 一番良く聞こえるのが馬岱の、『止めて下さい』『どうしたんですか』といううろたえた声ばかりだ。
 さすがに落ち着けず、階下に向かおうと上掛けを捲り上げたところに、ずし、ずし、と力強く階段を上がってくる足音が聞こえてくる。
 固まる俺の元へ、趙雲が戻ってきたのだ。
「どういうことなのか、詳しくお聞かせ願いたい」
 いや。
 詳しい話をどうこうは、いい。
 話すのは、本当は嫌だが、何より趙雲の手に掛かって俺が吐かない算段など思い付きもしない。
 だが、詳しい話を云々は、普通は何より先に請うものだろう。
 何で会話の端に出された馬超を殴り(正確なところは分からないから蹴ったのかもしれないが)に行ってから聞き出そうとするのかが分からない。
 ただ、そんな趙雲の勢いに恐れをなし、素直に白状しようとしている情けない俺が居るということもまた、曲げようのない事実だった。

 

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