目が覚めて、覚醒する前に指が携帯を探す。
 もう癖になってしまっているのだ。
 よくよく考えたら、下に置きっ放しになっているのだから、探したところで見つかる筈もない。
 思い出すと同時に、指先に慣れた感触が当たった。
 携帯だった。
 マナーモードに設定されたそれはご丁寧に畳んだタオルの上に置かれ、もし携帯が鳴ったとしても、がたがた音を立てないように工夫されていた。
 二つ折りの携帯を開くと、メールが一通届いている。
 見てみると、趙雲からで、マナーモードになっていなかったが何かで鳴り出して起こされることも考え、勝手ながら設定させてもらった云々と謝罪が書き連ねてあった。
 と言うか、お前、前に俺の携帯勝手に弄って自分の番号やらメルアドやら登録したくせに、とぼんやり考える。
 あんな本音をぶちまけられておいて、前より丁寧になる趙雲の心情が測りかねた。
 ひょっとしたら、仲が良くなればなる程礼儀にうるさくなるタイプなのかもしれない。躾と言ったら何だが、身内だからこそ厳しくなるタイプだとすれば、馬超や俺への態度が厳しいのも頷ける。
 趙雲が働いているのを見る限り、他人のミスには寛容で、自分が外部に謝罪する羽目になるのを屁とも思っていない節があった。どんなに最悪のミスだったとしても、せいぜい懇々と諭す程度で、怒るとかキレるとかいうのを見たことがない。
 が、確か馬超がミスを連発した時は、馬超が落ち着いても棘々嫌みや悪口並べていたから、身内と見なした奴にだけは厳しいというのも、あながち間違いではないような気がする。
 時間を確認すると昼前だった。
 夕べ何時に寝たのか判らないが、えらい長い時間寝ていたような気がする。
 代わりに、体はだいぶ落ち着いて、ちょっと背中が張っているぐらいで収まっていた。
 ベッドから起き上がると、階段に向かおうとして足が止まる。
 そうだった、馬超がドア壊したんだった。
 普通は鍵が壊れるのだと思うのだ(壊したことがないので分からない)が、馬超が壊したドアは蝶番が外れて吹っ飛んでおり、どう見ても金具が捻じれてしまっていて直せるのかも定かでない。
 修繕費が幾らかかるか、想像するのも億劫だった。
 入口横に立て掛けられたそれを繁々見ていると、階下から誰かが上がってくる足音がした。
殿、起きておいででしたか」
 馬岱だった。
 寝ていた方が、と勧められるが、トイレに行きたいのだと告げて階段へ向かう。
 馬岱に遮られ、指を差された先にあったのは、真新しいしびんだった。
「階段、危ないですから」
 俺は無言で馬岱を押し退け、階段を降りる。
 かなり憤慨したせいか、危うく階段からずり落ちそうになった。

 馬超と趙雲は居間に居るようだったが、俺は直接寝室に戻る。
 腹を立てているとアピールしたいこともあったが、顔を合わせ難いのもあった。
 散々ぱら一方的に惚れられている態をなしてきて、この期に及んで実は俺の方がずっと惚れているんだとバラすなど、いい面の皮だ。
 かてて加えて、絶対俺がフラれるに決まってるとうじうじしていたのまでバレてしまって、どうやってうかうか顔を突き合わせられようか。
 何とも鼻に付くスバラシイ純情振りに、俺こそ自身を蔑んで大爆笑したい心持ちに駆られていた。
 ベッドに戻ると、馬岱が食事の支度をしていてくれていた。
 俺をベッドの上に座らせると、上掛けの一枚を畳んだクッションにもたれさせ、更にもう一枚を膝に掛ける。
 これまた自宅にあったのだという折り畳みのテーブルを置くと、その上に盆ごと土鍋を据えた。
「顔色も良くなったようですし、粥ばかりじゃ飽きるでしょうから」
 土鍋の中身はよく煮込まれたうどんだった。
 葱と卵、麩が具のそれは、白いうどんが薄い茶色に色付いて、如何にも温かく旨そうだ。
 馬岱は小皿にうどんを取り分け、箸を添えて手渡してくる。
 鍋から直接食うのに、と言うと、それだといきなりがっと食べてしまうことになるから胃に悪いと説教されてしまった。
 まぁ、確かに小皿で少しずつ食べる方が、土鍋から直接啜るよりゆっくり食べられる。
 だが、何処の箱入り娘の処遇なのかと、俺は頭が痛くなった。
「食べながらで構わないんですが」
 前置きして馬岱が語ることには、夕べ、趙雲が顔を引き攣らせて降りて来たかと思ったら、いきなり馬超をぶっ飛ばしたそうだ。
 そんなことをするタイプには見えなかったのでびっくりして、慌てて止めに入ったという。
 騒ぎそのものは上で聞いていたが、馬岱がどれ程驚いたかを考えるだに申し訳なくなる。
 ただ、馬岱が本当に驚いたのは、殴られた馬超が殴り返そうとしなかったことだったそうだ。
 馬岱をして短気と言わしめる馬超は、信条は『因果応報』に違いないと思わせる律儀さがあって、好意には好意、悪意には悪意、やられた分はきっちり返すのが当然で、やり過ぎることもない代わりに報いを与えずに済ませたことは一度もなかったのだという。
 俺に対しては、逃げれば追い掛ける、拒絶すればごり押しする、という具合で因果応報には程遠いが、脊髄反射という一点においては同種の反応と言っていいかもしれない。
 その馬超が、殴られても反応しないどころか、頭を冷やしたいと言って外に出て行ったので、馬岱の驚きは半端なものではなかったらしい。
 趙雲は二階に戻って行ったが、いきなり大きな音が聞こえてきて、どうも穏やかでない。
 外に出ていた馬超を呼び戻し、急ぎ様子を見に伺わせた後は、戻ってくるのを今や遅しと焦りながらも居間で待機していたそうだ。
「一緒に、上がって来てくれりゃ良かったのに」
 俺が投げ遣りに呟くと、馬岱は眉を寄せた。
「人の修羅場に顔を突っ込む程、物好きにはなれませんよ。第一、趙雲殿が降りてきた時にはもうずいぶん落ち着いて居られて……いや、どちらかと言えば浮かれているように見えましたかね……とにかく、趙雲殿からしばらく上がってこないよう暗に言い含められていましたから、上がるに上がれなかったのですよ」
 ちょっと困ったような顔をしているのは、恐らく何が起こるのか見当が付いてのことだろう。
 ドアがなかったことを鑑みて、俺は無性に恥ずかしくなって顔を赤くした。
 馬岱の顔も、釣られたように赤くなる。
「いえ、何をなさっていたか、などということは、分かりませんでしたよ。私は、iPodヘッドフォンして聞いてましたし」
 やはり見当は付いていたものらしい。
 どういい方に考えても言い訳にしか聞こえなかったが、馬岱が気遣ってくれているのは分かるので如何ともし難い。
 馬岱は咳払いして、話を元に戻した。
「……その……どうやら収まりはしたようですが。結局何が起きていたのか、こちらにはまったく分からないのですよ……教えていただくのは失礼でしょうか?」
 俺は一瞬ためらったが、馬岱にはむしろ話しておいた方がいいと感じて、ありのままを話すことにした。
 馬超が家出した件は話してあったから、話のおおよそは俺の心情解説になる。
 かつて俺が出会い生活を共にした『二人』の話、趙雲から伝え聞いた転生の話も、ここでした。
 趙雲と馬超がくっつくのだったら祝福せねばと思いつつ、二度目の別れに自分で想像もしなかったショックを受けたこと、結局俺はあの二人にべた惚れだと再認識してしまったこと、それをみっともないと感じて隠し続けていたのに、夕べ遂に二人に露呈してしまったことをべらべらと話し続けた。
 王様の耳はロバの耳、俺は秘密の重さから解放される快感に、恥も外聞もなくなっていたのかもしれない。
 溜まったストレスを発散するかのように愚痴めいた告白をだらだら垂れ流し、しかし馬岱は時折相槌を打ちながら最後まで辛抱強く耳を傾けてくれた。
「少しの間、待っていて下さいね」
 俺の話が終わるや否や、馬岱は不意に立ち上がり、階下へ降りて行った。
 どうしたのだろうといぶかしく思う間もなく、どか、という鈍い音と、半テンポ遅れて馬超が喚き散らす声が聞こえてきた。
 冷汗を流す俺の元に戻ってくると、馬岱は何事もなかったかのように話に戻った。
「言って下されば良かったのに」
「……いや……」
 俺は何を言っていいか分からなくなって、口籠った。
 言ったら、今みたいに馬超を殴りに行ってそうで、何だか無性に怖くなった。
「浮気相手が趙雲殿だと言ったなんてことが分かっていたら、あの場で事が収まっていたんですよ。従兄上はともかく、趙雲殿が従兄上を相手にする筈がないんですから」
 やけに自信たっぷりに言い切られて、俺は首を傾げる。
「私もこう見えて、色々経験してきたつもりです。それは、同性でどうこういうことはありませんでしたが……殿や従兄上を見ていると、さして変わらないものだな、とよくよく思います」
 殿は両刀だそうですから、尚更そう思われるのではないですかと問われて、俺は勢い頷いた。
 男同士の方がハンデが多いこともあるがそれは形が変わるだけのことで、男女間の恋愛もまた、複雑怪奇極まる。何故あんな人がと思う恋人達も居れば、何事もなく平穏そうな恋人達の間に信じ難い修羅場が隠されていることもある。
 平穏な恋愛などないと言っていたのは、かつての職場の先輩だったか、オーナーだったか。
 人数こそ多かったけれど、俺が恋人と称する相手の奥底に踏み込むことはほとんどなかった。万事どうでもいい気質が相手選ばず染み出して居て、俺のそんなところに嫌悪する相手は直に居なくなっていったから、気にしたこともなかった。
 俺自身がその渦中に巻き込まれること等想定外もいいところで、だから勢いとは言えこんな問い掛けに頷くことになろうとは、かつての俺は露程にも想定してなかったろう。
「……え、待てよ。じゃあ」
「従兄上と趙雲殿がどうこうなんて、あり得ませんよ。大方、こちらは元より実家にも戻れないしで、趙雲殿のところに転がり込んだだけというのが真相でしょう」
 馬岱の断言を受け、俺は趙雲が言った『嘘吐きには、相応の報い』の意味をようやく理解した。
 止まっている箸を動かせと命じられ、俺は慌てて小皿を空にする。
 空いた皿には、馬岱がうどんを足してくれた。
殿は、一見すると捉えどころがなくて何を考えているか分かり難いから、相手も不安になってしまうのでしょうね」
 貶されているのか分からないが、否定できないので黙ってうどんを啜った。
「性質は悪いですが、悪気で言ったつもりはないでしょうから、従兄が吐いた嘘のことは、どうか許してやって下さい」
 それは、構わないが。
「……俺、馬超のことも好きだけど、趙雲のことも好きなんだけど。それは、構わないのか?」
 馬超大事の馬岱が、わざとかスルーしていることを俺は敢えて突っ込んだ。
 もし、馬岱が本当に馬超が大切なら、俺みたいな奴から引き剥がすよう画策した方がいいのじゃないかと思う。
 ところが、馬岱はしれっとして言い返してきた。
「私が離別を促すとしたら、それは殿と趙雲殿の間でしょう。それに、趙雲殿は下手に策を弄すれば、冷静にキレて殿の身が危ういですから、私も迂闊な真似は致しませんよ」
 それは、発言としても予想としてもどうなんだ。
 馬岱は俺を見て笑った。
 何か、よっぽど複雑な顔でもしていたのだろう。
「……殿が悪いんですよ。私は、従兄の付属品ではありません。身贔屓は否定しませんが、だからと言って殿や趙雲殿を踏み付けにしようとは思いません」
 そもそも同性同士の恋愛は管轄外で、馬岱にとっては非常に特殊な類に属する。それを頭からああだこうだと批評するつもりもないし、できる方がおかしいと断じられた。
「ただ、一言だけ言わせていただけるなら……そういう形も、ないではないだろうと思う、ということだけです。真似は、したいとも思いませんが」
 くすくすと笑う馬岱の顔に、悪びれたところはない。
 全面的に許されるより、ずっと居心地よく、信用もおける真摯な言葉だった。
 今後は友人として昇格させていただきたい、と笑う馬岱に釣られ、俺も笑った。
「悪いな、俺、手ぇ出した奴と友達付き合いできる程、心広くないんだ」
 がた、と音がして、俺と馬岱は同時に振り返る。
 壁に立て掛けてあった戸板が、派手な音と共に引っ繰り返る。
 わなわなと唇を震わせている馬超の顔は青褪めて、直感的にヤバイ、と思わせる目をしていた。
「……
 馬岱は最早眼中にないようで、馬超は真っ直ぐに俺目掛けて歩いてくる。
「どういうことだ、!!」
 胸倉を掴み上げられて、半ば宙吊りになる。
 折り畳み机が引っ繰り返り、うどんの入った土鍋がぶちまけられる……と思ったが、土鍋は馬岱の手で避難させられていた。
 ほっとするより、卑怯者、と恨みがましい気持ちで一杯になる。
 八つ当たりもいいところだが、だいたいキスしてくれと言ったのは馬岱の方だ。その理由は、正直俺には定かでなく、どういうことだと言われてもまともな返答一つできなかった。
 馬超の扱いを心得きっている馬岱は、土鍋を持ったまま壁際に避難し、事態の収拾に加わろうという心構えすら見せない。
「じょ……冗談だって、冗談……キス、したことは、あるけど」
「キス!?」
 馬超が目を剥いて、馬岱を振り返る。
 ほんの少しだがざまを見ろなどと思ってしまった俺は、馬岱を甘く見過ぎていた。
「従兄上をお願いする方だと思ったからこそ、試させていただきたかったのです。少々優し過ぎる方なのだな、とは思いましたが。従兄上も、御苦労が絶えませんね」
 如何にも同情めいた視線を向け、馬岱は小さく溜息を吐いた。
 馬超はしばらくの間馬岱を睨め付けていたが、踵を返すように俺に向き直ると、俺の襟首をきゅっと締める。
「……岱、下に行っていろ。趙雲が上がって来ないように、俺が降りるまでの間、見張れ」
 馬岱は気安くかしこまりました、と一礼して、散らばった小皿や箸を回収すると土鍋と一緒に降りて行った。
 だらだら汗を掻いている俺に、馬超は極々真面目な面持ちで顔を寄せて来た。
、風邪を引いた時はな、うんと汗を掻くと良いそうだ」
「……もう、掻いてるよ、今」
 冷汗だけどな。
 俺の主張は無視され、噛み付かれるように口付けが落とされる。
 本番には至らなかったものの、散々弄られ、俺は悲鳴と嬌声を堪えるのに酷く難儀させられた。

 

拾い武将シリーズINDEXへ→