馬超は合鍵を使って入ってきた。
俺は、ちょうど切らしていたにんにくを買いに出ようと玄関に出たところだった。靴を履こうと框から片足を下ろした俺の姿に、何を勘違いしたのか馬超は頬を赤らめ、気のせいかじぃんと感動に浸っているように見えた。
何だかよく分からず、玄関に立ち塞がる馬超が邪魔で立ち竦む俺に、突然馬超が突撃してきた。
不意を食らって倒れこむのも構わず、馬超は遮二無二俺を抱き締める。
「……な、何なんだお前、馬鹿、退け!」
久し振りの休日で(金がないから休日返上で働いていたのだ)、無性にぺペロンチーノが食いたくなって、だから一刻も早くにんにくを買ってきたかった。
邪険に馬超をあしらうと、馬超は膝立ちになって無邪気ににっこり笑った。
どちらかと言えば無表情から怒り気味の表情に取られがちな馬超が、こうも明け透けに笑って見せるのは珍しい。よほどいいことがあったと見える。
「、俺の就職が決まったぞ」
突然の言葉に呆気に取られる。
そう言えば、大学辞めるとか就職するとか何とか言っていたような気がする。子供の戯言と気にすることもなかったが、どうも本人は本気だったらしい。明日から出社だとか、割と急な話を上機嫌で続けている。
それは良かった。
おめでとう。
で。
俺に何の関係があるんだ。
いつまでも狭い玄関先で圧し掛かられて、ひっくり返っている自分が馬鹿みたいだ。起き上がろうにも、馬超が退いてくれないのでそれも叶わない。
俺はペペロンチーノが食いたいんだ。
「……馬超、」
「」
話は後で聞くから、という言葉は形を成す前に遮られてしまった。
馬超が、その整った顔を近付けてくる。
顔だけはいいんだ、こいつは。何せ、あの『馬超』と瓜二つなのだから。
俺の好きな顔が近付いてくるのを、俺は拒絶するのも忘れて見惚れていた……他に言葉が思い浮かばないから、見惚れていたんだろう。
馬超の頬が紅潮している。興奮しているのか、生唾を飲み込んだ。目の前で綺麗な線を描く首筋が揺れるのを、俺は目の端に留めた。
キスするのか。
そう思ったのだが、違った。
馬超は、何か物凄く言い辛い何かを言おうと力んでいる。
あの、とか、その、とか、じれったい馬超に俺は早くもキレた。
「何だよ、言いたいことがあるなら早く言え」
俺はペペロンチーノが食いたいんだ。
大概、俺も食欲の権化と化しているが、普段あまり食に拘らないせいか、一度『これが食いたい』と火が点くと、もう矢も盾もたまらず飛び出してしまう。
「……」
決心したように顔を上げた馬超に、だから俺はあくまでぞんざいだった。
「おう」
「でっ」
噛んだ。
馬超は顔を真っ赤にして、ホントに噛んでしまったらしい舌だか口だかを押さえている。
馬鹿だなぁ。
呆れたのが顔に出たのか、馬超は少しばつが悪そうな顔をした。
「……ほら、いいから言え。何、そんなに緊張してんだ」
ケツにチンコぶち込みあった仲だろ、と言うと、馬超は物凄く嫌そうな顔をした。
リラックスするように下劣な話をしてやったと言うのに、人の気遣いが分からん男だ。
「」
「おう」
仕切り直しだ。
「俺は、就職先を決めてきた。明日から出社だ。……当分遅くなるし、忙しくなると思う。中退で、しかも中途採用だからな」
ずいぶん前から仕切り直しになってしまった。
まぁいいか、とうんうん頷いてみせる。
馬超の言うことは、いちいちもっともだ。回りくどいことこの上ないが、下手に怒らせてごねられては困る。
俺は今すぐにでもペペロンチーノが食いたいのだ。
「だから……あの、今日……まだ昼だし、は確か今日休みだったろう。だから、その……」
言いたいことがイマイチ分からない。何なんだ。
馬超は深呼吸すると、俺の顔をじっと見つめた。
「だから、でっ……」
また噛んだ。
で……で……で……。
「『出かける』?」
『で』から連想する言葉を口にすると、馬超は一瞬きょとんとしたものの、我に返ったように慌てて何度も頷いた。
「そう、あの、と、出かけたい……」
別に噛むようなことでもないと思うが、何なのだろうか。
出かけるのは構わない。構わないが……。
「何処に」
馬超がきょとんとする。何なんだ。
「出かけたいって、何処に。俺、これから近くのスーパーに行くけど、ついでで済むなら一緒に行くか?」
物凄い勢いで首を横に振る。まったく要領を得ない。
じゃあ何処だ、と重ねて言うと、馬超はしばらく困ったように考え込み、ようやく『ネクタイが欲しいから、見立てて欲しい』と言い出した。
そんなことを言われても、サラリーマンのネクタイなんか見立てられるだろうか。
うちに何本か、使ってない地味目の奴があるからやろうか、と申し出たが、馬超は腹を立ててその申し出を蹴った。知らない女に贈られたネクタイなぞいらないとのことだった。
何と我侭な奴だ。
昼飯食ってからでいいだろうと言ったのだが、今すぐでないと駄目だと言って、無理やり連れ出された。
俺は、にんにくの効いたペペロンチーノに未練をだらだら垂れ流しながら、馬超が乗り付けた黒い車で拉致された。
俺は車は詳しくない(ホストとして、せめてもう少し勉強しておけとよくオーナーに叱られる)。
それでも、馬超が乗ってきたこの車が結構値が張りそうな代物だとは分かった。
「……馬超、これ」
「これか? ロードスター」
車種を言われてもぴんとこない。ポルシェとかフェラーリとかならまだ分かるのだが、やっぱり高いのだろうか。
2シーターのオープンカー。メーターを覆うプラスチックがやや赤みがかっていて、何だかエロく見えた。車内(オープンカーだが)は全部黒で統一されていて、だから妙な高級感を醸し出しているようだ。
よく分からないものを重ねて問うのは妙に悔しくて、俺は口を噤んだ。
馬超は黙り込んだ俺を訝しく横目で見ていたが、無理やり連れ出したから不機嫌なのだとでも思ったのか、運転に専念し出した。運転は好きらしい。横顔からして機嫌良く見えた。
ギアを無造作に入れ、車で混みあう道をスイスイと走らせている。
そういえば、馬超の車に乗るのはこれが初めてだった。
オープンカーなんぞに乗って、悪戯されても知らねぇぞ、と俺は心の中で悪態を吐いた。
みっともなさ過ぎて、声には出せなかった。
馬超は、狭い路地裏を見知ったように歩いていく。
看板も出ていないようなビルの中の一室に、当たり前のように入っていくのを慌てて追った。
中に入るとすぐ、重厚な色合いのインテリアで統一された、それ程広くない絨毯敷きの部屋に出た。
棚には幾らかのアクセやベルトが品良く並べられ、一つだけ置かれたトルソーには、如何にも高そうな質の良いスーツが飾られていた。横に、小さめのテーブルが置かれている。奥には家具と同じ色合いのカウンターがあり、誰も訪れていないかのような静寂と、塵一つ落ちていない清潔さが違和感を醸し出す。
他に、見るべきものは何もない。どちらかと言えば殺風景な室内だった。
「これは、馬超様」
お久し振りですと丁寧に頭を下げる初老の男に、馬超は鷹揚に頷いた。
「急に就職が決まったんだ。去年仕立てたスーツ、あれに似合うネクタイがあったら、適当に出してもらえないか」
どうも、ショップらしい。それにしては、店も狭いし品物も少な過ぎる。
俺はただ黙って二人の遣り取りを見ていた。
初老の男は馬超に祝辞を述べ、一度奥に下がると黒いバーに何本かのネクタイを下げて戻ってきた。
トルソーの横に置かれたテーブルの上に台を置き、そのバーを掛けると後ろに下がる。
馬超は俺を振り返ると、手招きした。
「どれがいいと思う?」
濃い赤と黒が混じった、それでいて上品な色彩のタイ、落ち着いた緑が斜めに細かく入ったタイ、複雑な幾何学模様を描く青のタイ、単純な、それでいてしっとりとした光沢を放つ単色の紫のタイ。
どうも、『高そうだな』というのが先立ってよく分からない。
「スーツのお色は、こちらでございます」
戸惑う俺を見かねたのか、店主と思しき男は布地の見本を持って俺に見せてくれた。
濃い目のグレーには、どのネクタイも良く似合いそうだ。
「ボタンは三つボタン、デザインはこちらのものと似たものでございます」
生憎、同じデザインのものがございませんで、と慇懃に頭を下げられ、却って俺は混乱した。
というか、馬超がスーツを着てくれば問題なかったのだ。シャツの色との兼ね合いもあるだろうし、そうすれば話は単純だったのだ。何だか試されているような気がして仕方ない。
「どれでもいい」
馬超までもが心配そうに俺を見つめるのが腹立たしかった。だったら、俺に選ばせなければいいだろう。
それでも、二人の視線を受けて俺は渋々ネクタイの選定に入った。
今年の流行は紫と緑だったか。紫は馬超には何となく合わない気がした。秋だし、深い色もいいんじゃないかと俺は緑のタイを指差した。
馬超はさっと緑のタイを手に取ると、首に当てて見せた。
「似合うか?」
どれでもいいんじゃなかったのかよ、と罵りながら、悪くない、とだけぶっきらぼうに答えた。
店主は穏やかに微笑みながら、良くお似合いですよ、と褒めた。何故か俺を見ながらだった。
「お包みいたします。少々お待ち下さい」
値段も聞かず、また店主も言わずに奥に下がっていく。
一人で焦っているのが馬鹿みたいだが、値札もついていなかったのだ。幾らか見当もつかない。
「おい、幾らなんだよ」
「知らん」
何故そんなことを訊くのかと言わんばかりだ。
絶句する俺が、馬超を詰ろうと口を開けた瞬間、店主が戻ってきてしまった。
馬超は店主から包みを受け取ると、さも当たり前のように外に出て行く。
店主は来た時と同じように頭を下げ、有難うございましたと言う。
俺がおたついていると、店主は優しげな笑みを浮かべ、お代は後程頂戴するお約束となっております、とさり気なく俺の疑問に答えた。
「ここの辺りは路地が細く迷いやすくなっております。馬超様がお待ちになっておられましょう、さ、お急ぎ下さい」
追い出されるような言葉に(事実追い出されているのだろうが)、俺も重い腰を上げた。
有難うございました、という店主の渋い落ち着いた声が背中から聞こえてきた。
俺が出てくると、馬超はビルの入口で俺を待っていた。
「遅い」
口を尖らせて言うのを軽くはたき、俺は馬超を置いて外に出た。
「……俺が買わなくちゃいけないかと思ったんだよ」
そう、就職祝いに強請られるのかと思ったのだ。だから値段を気にしたし、まさか一銭も払わずに出てくるとは思っていなかったから、調子が狂った。
「に買ってくれなどと、俺が何時言った」
流れ的にはそうだろうよ、と俺が喚くと、馬超は顔を赤くして立ち止まった。
何だ、と振り返ると、馬超は意を決したように俺の元に歩み寄った。
「には、別に、俺にくれて欲しいものがある」
「何」
高いのは駄目だ、と付け足す。とにかく金がないのだ。
「……高くはない」
「だから、何だよ」
馬超が真っ赤になった。
「……この後、ホテルのレストランで飯でも食おう……その後は、バーで軽く呑って……」
俺は、眩暈を感じて天を仰いだ。
自棄に眉間がむずがゆく、俺は顔を顰めて指でそこを掻き毟った。
「あー……あのな。まさかと思うけど、そのホテルに部屋取ってあるとか、言わないよな?」
「………………」
図星かよ、おい。
頭が痛かった。
明日、初出勤を控えた男が、よりにもよって男を誘ってホテルにしけ込もうという腹らしい。
むっとしたように顔を顰めている馬超に、俺は大きな溜息を吐いた。
「……ホテルに電話して、キャンセルしろ」
馬超が何か言い掛けるのを、口で塞いだ。
すぐに離したが、馬超の勢いを削ぐには十分だった。
「家帰って、就職祝いに飯作ってやる。俺はペペロンチーノが食いたいんだ!」
ペペロンチーノへの欲望が、むらむらと鎌首をもたげた。4〜5人分は作ってやる。パプリカのサラダと白ワインを冷たく冷やしたのを添えて、一気に食う。最高のご馳走に思えた。
まだ何かぶつくさ言っている馬超を振り返り、早くしろと促す。
「どっかに泊まりたいなら、家に泊まればいいだろ」
弾かれたように顔を上げる現金な馬超に、俺は顔を見られないようにそっぽを向いた。
何となく認めてしまったかのような発言を、うっかりとしてしまった。
犯る気だろうな、犯られるに違いないと考えると、うんざりしてきた。折角の休日なのに、またイカ臭い洗濯物を持ち越しで出勤日を迎えるわけか。
食べたかったペペロンチーノを想像して、何とかテンションを上げることに専念する。
「あ、帰りにスーパーに寄るからな。にんにく、切らしてんだ」
「に、にんにく?」
すっ呆けたツッコミが入る。
俺は、赤面して鼻血を吹きそうな馬超を殴る為に、くるりと180度転回した。
続