どうせだから俺の家から直接出勤すると言って、馬超はスーパーより先に自宅に車を回した。スーツやら鞄やらを取りに行くのだと言う。
 俺はこの時、殴ってでも馬超を止めるべきだったのだ。
 外で待っていればいい、などと甘い考えでいた俺は、自分の背丈の二倍近い門が重々しい音を立てて開くのを半ば呆然として見ていた。
 時代がかったレンガ敷きの道を、車は滑らかに走っていく。途中、噴水を迂回して白亜の建物の前に止まると、中年のタキシードの男が車に小走りに走り寄ってドアを開ける。
 慣れきったというように、何の関心も見せずに馬超は車を降り、空を見上げた。
「雨が降りそうだな」
 独り言のような馬超の言葉に、男は頷く。
「お車、お取替えしておきましょう。先日搬入いたしましたムルシエラゴでよろしゅうございますか」
 馬超は少し考えていたが、俺の顔をちらりと見て、男に頷いた。
 俺は車を降りたものだか悩んでいたのだが、車を変えるなら降りねばなるまい。
 改めて見上げると、まるでホテルのような建物だ。それも、シンガポールとかハワイとかの観光地によくあるような、如何にも取ってつけたような建物で、重く立ちこめた雨雲が違和感を際立たせる。
 どう見ても日本向きの家屋とは言い難い。
 階段下で空を見上げていると、馬超が俺を呼びつけた。
「何をしている、。早く来い」
「いいよ、俺はここで待ってるから」
「いいから、来い。爺さんに、お前を紹介する」
 何でだよ。
 押し問答の末に、我慢の限界に来た馬超が俺の手を掴み、有無を言わさず建物の中に引き込んだ。馬超の馬鹿力は相変わらず健在で、体勢を崩した俺にそれを正す隙も与えず、ぐいぐいと引っ張り続ける。
 やはり真っ白な玄関のドアが開き、俺は中に転び出た。
 コメディ映画などでよく出てくるように、執事やメイドが玄関脇にずらりと並んでいるのかと思ったが、意外にもドアボーイが居ただけで、他にはシャツにジーパンというラフな格好をした若い男が一人で出迎えてくれた。
「従兄上、お早いお戻りで」
「岱」
 岱、と呼ばれた男は、馬超にしっかと手を握られている俺を見て、少し驚いたような顔をした。
 俺は慌てて姿勢を正し、馬超の手を外させようとしたが、馬超は機嫌悪そうに横目で俺を睨んだまま決して離そうとはしなかった。
「……従兄上、ご紹介下さいよ」
 表情を穏やかな笑みに挿げ替え、岱は俺に微笑み掛ける。なかなかの曲者と見た。
 馬超は岱の様子を気にした風でもなく、俺を指差して紹介するという無礼な真似を披露した。
だ」
 しかも、紹介にすらなっていない。本当に明日から社会人としてやっていけるのか、心配になってきた。
 だが、岱は気にもせず、にっこりと微笑んだ。
「私は、馬超の従弟に当たります馬岱と申します。以後、よろしくお見知りおき下さい」
 こちらの方がよほど丁寧だ。
 俺は適当に、いやこちらこそなどとおべんちゃらを言った。そこらにいるようなホストとこんな家に住んでいる人間が、長の付き合いが出来るわけがないと思った。
 馬超のことは、どっかのボンボンなのだと当たりをつけていた。まさかここまでとは思っていなかったのだが、先程の看板も出してない店での遣り取りといい、驚きこそすれ何となく『あぁ、やっぱり』という感じもしていた。
 馬超は俺を馬岱に託すと、さっさと階段(これがまた映画のセットのようなでかい階段だった)を
登って奥に去って行った。
 馬岱は俺を先導して、応接間と思しき部屋に案内してくれた。キャメル色の革張りソファに腰掛けると、腰が深く沈んで柔らかく浮き上がる。オーク材を贅沢に使ったローテーブルは、使い込まれた年月だけが醸せる独特の重みで存在感をアピールしていた。
 馬岱が腰掛けると、見計らったかのように黒服の男が現れ、恭しく一礼をされた。
 何となく併せて頭を下げると、馬岱がさも可笑しそうにくすりと笑って見せた。
「コーヒー、紅茶、他にもお好みでフレーバーティー、アルコールなどもご用意できますが、如何いたしますか」
 お好みと言われても何と答えていいかわからない。
 とりあえずコーヒーと答えると、砂糖は如何なさいますかと返ってくる。
 いりませんと答えると、ミルクは如何なさいますか、と返ってくる。
 迷って、少しと答えると、生クリームとジャージー種、ガンジー種がございますがと返ってきた。
 眉間に皺が寄ったのが分かったのか、馬岱はくすくす笑いながら、私のと同じようにと指図し、男を下がらせた。
「申し訳ありません、当家の客は、うるさい方が多くて。特に初めてのお客様は、詳しくお伺いするのが常なんです。お許し下さい」
 当家の客か。
 これだけでかい家だ、よほど景気のいい金持ちなのだろう。
「……従兄は……殿に何も仰っておられないのですか」
 俺の表情が曇ってでもいたのか、馬岱はそれまでの笑顔を止め、不安気に俺を見つめた。
 聞いてないけれど、聞くつもりもなかった。
 ひょっとしたら、聞いておいた方が良かったのかもしれない。
 やっぱり、何とかして別れた方がいいのだろうか。
「従兄を、見捨てないで下さい」
 考えを読んだかのように、縋りつくような声で馬岱が叫んだ。
 俺がびっくりして顔を上げると、馬岱は恥じるように俺の視線を避ける。
「……従兄は、小さい時からずっと追われているようで……落ち着かなくて……時々何処か遠くをじっと見つめて、何かを探すように辺りを見回すんです。そうして、目当ての物が見つからなかったというように、がっくりと肩を落として……従兄に聞いたことがあります。何をしているのかと。従兄は、何かが足りないと言っておりました。何かは分からない何か、それをずっと探しているのだと」
 馬岱の目が、悲しげに沈んだ。
 ずっと、と言っていたから、生まれた頃からずっと馬超の側に居るのだろう。それなのに、何だか知らない『足りないもの』とやらの為に蔑ろにされてきたのだとしたら、俺は馬岱に同情する。
「あ、誤解しないで下さい。それは、私が力不足なのは悔しいと思っていましたが、そんなことを言いたいのではないのです」
 馬岱は慌てて手を振り、俺の考えを否定する。
「……従兄が、見つけたと言って」
 思わせぶりに俺を見る。何だかこっちがこっ恥ずかしい。
「最近になって、ようやく落ち着いて。笑うようにもなりましたし……まぁあの、最初の頃は荒れて荒れて仕方がなかったのですが」
 やっと見つけたのに、としか言いませんしね、どうしていいかわからなくて。
 馬岱は溜息を吐きつつそんなことを言った。
 俺が馬超を拒んでいた頃だろうか。
 どうしようもなかったのだと言えばそれまでなのだが、やはり何となく申し訳ない気がした。
「女性かと、思っておりましたので」
 ぱっと顔を上げると、馬岱がにこにこして俺を見ている。含む物を感じて、俺は思わず赤面した。
「……先程は、ご無礼いたしました。そういう訳ですので、どうぞお許し下さい。ちなみに、私は従兄の選択に祝福こそすれケチを付けるつもりは毛頭ありませんので」
 良い方で良かった、と笑っている。
 俺はそれこそケツの座りが悪くなり、許されるなら今すぐここから自宅に駆け戻りたかった。
 と、廊下が突然騒がしくなり、馬岱と俺は顔を見合わせた。
 扉が蹴破られるように開き、馬超と恰幅のいい爺さんが怒鳴り合いながら飛び込んできた。
、帰るぞ!」
 馬超が俺の手を掴み、引っ張り上げる。
 爺さんは、手にしたステッキを振り下ろし、ソファを一撃した。物凄い音が辺りに響き渡り、馬岱が悲鳴じみた声を上げる。
「お爺様、お止め下さい!」
「うるさいぞ馬岱! いいから早う、馬超を止めんか!」
「俺達に構うな! 行くぞ、!」
 何が何だか。
 察するに、馬超がいつものトンチキな妄想をこの爺様にぺらぺらしゃべって、爺様の激怒を誘発した、という辺りだろうか。
 怒って当たり前だ。大事な孫(かどうかは知らないが)が、場末のホストに誘惑されて引っ掛かったとあっては、怒らない方がおかしいだろう。
「何が不満だ、言ってみろと言っているじゃろう!」
「何もかも不満だと言っているだろう、何度も同じことを言わせるな!」
「お爺様、従兄上、落ち着いて下さい! 殿がお困りではありませんか!」
 馬岱の怒声に、ようやく喧騒が静まる。
 注目が俺一人に集まり、俺は居心地悪く肩を窄めた。
 老人は、俺の前に進み出ると、ステッキを手に背筋をぐいっと伸ばした。
 身長はそれほど高くないが、その視線の鋭さと人生の重みを刻み込んだような皺が、俺を圧倒した。
「なぁ、あんた……殿と仰ったかな。殿とて、こういうことはちゃんとしておいた方がいいと思うじゃろう?」
 、何も聞くなと馬超が喚く。俺は馬超を横目で牽制し、老人に向き直った。
「……あの……俺……私は、今日こちらに伺うつもりはなかったので」
 老人は、わかっとると何度も繰り返し、きろりと目を剥いた。
「それでも、じゃ。それでも、ちゃんとしておいた方がいいことは、いいじゃろう。あんたも、自分の立場という物を、しっかり考えんといかん。そうじゃろう?」
 馬超が何を如何いう風に話したのかはわからない。
 けれど、ちゃんとしておいた方がいい、という老人の主張は、正しい気がした。
 所詮、立場が違い過ぎる。育ちの差は、いつか何かの形で決裂を生むに違いない。
「…………はい」
!」
 馬超の憤った叫び声が耳をつんざく。
 老人は、喜びも露に手を打った。
「よっしゃ、決まりじゃ! 馬岱、ジェット機の用意をせい!」
 は?
 ジェット機?
「爺様、俺は明日初出勤だと言っている! 今からカナダなんかに行けるわけがなかろう!」
 カナダ?
 何でカナダ。
 呆然としている俺を、馬超は歯噛みしそうな勢いで振り返る。
「この爺さんはな、俺達に今すぐカナダに行って、式を挙げてこいと言っている」
 だから聞くなと言ったのに、と馬超は吐き捨てた。
「何を言う、結婚を考えていると言ったのはお前の方ではないか!」
「誰が今すぐと言った、俺がちゃんと稼げるようになって、行く行くはという話だと言っただろう!」
 俺の存在抜きで、二人は再度怒鳴りあいに突入した。
 止める気力がまるで湧かない。
「……殿」
 馬岱も俺と同じ気持ちなのか、申し訳なさそうな顔をしていた。
 何でカナダ、と呟いた俺に、馬岱は自分の頭を抑えた。頭痛を堪えているらしい。
「……カナダは、現在世界でも唯一といっていい、同性同士の結婚を完全に合法と定めている国ですから……もっとも、日本の戸籍上では認められないようですが」
 馬岱の説明に、俺はようやく合点がいった。
 ちゃんとした方がいい、というのは、つまり……そういうことらしい……。
 眩暈を感じる俺を他所に、爺様は耳聡く馬岱と俺の会話に乱入してくる。
「じゃが、婚姻届を出したという行為は後々相続や財産分与の際に良い証拠となるじゃろうが! 
なぁ殿、そうじゃろう?」
「爺様の財産など、びた一文もいらんと言っている!」
「先立つものがなくて、家庭が作れると思ってか! お前は金の力を甘く見ておる!」
 前言撤回だ。
 この家は、おかしい。
 俺は脇目も振らずにドアを目指した。
殿、どちらに」
「帰る」
 ドアノブに手を掛けて、俺は扉を開けながら返事をした。
「え、どうやって……」
 馬岱は、俺が馬超の車でここに来たのを知っているから、そんなことを聞いてきたのだと思う。
 けれど俺は、もう本当の本当に嫌気が差していたので、馬岱の気遣いが却って癪に障ってしまったのだ。
「歩いてだよ!」
 力いっぱい閉めたつもりのドアは、だがゆるゆると重たい動きでゆっくりと閉ざされていく。
 そんなことにすらムカついて、俺は廊下を思い切りダッシュした。


  

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