望みどおりにんにくを効かせたペペロンチーノを平らげ、冷たい白ワインをたらふく流し込み、胃袋的には満足した俺は、せこせこと歯を磨いていた。さすがに客商売で、にんにくの匂いをさせているのはまずかろう。今日は休みだったが、手入れしておくに越したことはない。
洗面台の鏡に、馬超が映った。俺を伺っているような、困惑した目をしている。
俺は盛大に音を立ててうがいを済ませると、口元を拭いながら場所を空けた。
「使うんだろ?」
馬超は、あぁ、とか、うん、とか口の中でぶつぶつと呟きながら、勝手に持ち込んだ歯ブラシを手に取った。
俺はその隙に居間に戻り、テレビをつけてソファに寝転がる。小さくはないが、大きいというわけでもないソファは、俺一人で定員になった。
しばらくして馬超が戻ってきた。
目も向けない俺を、やはり気にしているのが空気を伝ってわかる。
「明日、早いんだろ。もう、寝て置けよ」
時計は11時を回っていた。俺にとっては宵の口でも、馬超にとっては違うはずだ。
生活のリズムが変われば、馬超とはすれ違いがちになるだろう。そのすれ違いは、馬超に冷静さを与えるはずだ。
そうしたら、きっと自分がどんなに馬鹿馬鹿しい下らない妄想を考えていたのか、嫌と言うほど思い知るに違いない。
深入りする前で良かった。変に情が移った後だったら、その気がなくとも別れは辛くなるかもしれないからだ。
「何を怒っているんだ」
馬超がぽつりと呟いた。
はぁ?
俺の声は存外でかかった。
「何、言ってんのお前。俺がいつ怒ったよ」
馬鹿なことを言う、と眉を顰めると、馬超はむっとしてソファの真ん前に座り込んだ。
「ずっと、怒ってるじゃないか。何が気に入らない。爺様……爺さんがおかしなことを言ったのが気に食わなかったのか。車が3千万だっていうのが気に入らなかったのか」
あの後、追いかけてきた馬超にとっ掴まって揉み合いになった挙句、また引き摺られて車に押し込められ、攫われるようにして家に戻ってきた。
当然、俺は虫の居所が良い訳もなく、行儀悪くダッシュボードの上に足を乗せて不貞腐れていた。
馬超は俺を宥めようとしたのか、その車が新しいもので、どんなに良くてどんな改良を施したかというようなことを延々としゃべっていた。が、生憎俺は車にはうとく、馬超の言っていることの半分もわからなかった。たった一言を覗いては。
「……ランボルギーニ?」
その名は俺も聞いたことがある。確か、イタリアの……。
「カウンタック?」
あの独特のフォルムと赤い塗装、跳ね上がる扉。日本人からすれば、高級スポーツカーの代名詞のような車だろう。そのカウンタックを作っている会社と同じ会社が作っているという。
「そうだ、は良く知っているな」
馬超は少し嬉しそうに俺を振り返った。
俺はもうそれどころでなく、冷や汗をかきながら投げ出した足をそっと下ろした。高級車で有名なベンツなどでも、庶民の手に入りやすいように安価な車が出ていたりしている。だが、それもあくまで『乗用車』の話であって、このいかにも『スポーツカー』です、と主張して憚らない車が、いったいどれくらいする代物なのかと考えるとぞっとした。
「……この車の値段?」
馬超はきょとんとしながらギアをがこがこと入れた。その無造作な仕草にすら、心臓が覚束ない。
うーん、と唸るような声を漏らした後、馬超はとんでもない金額を口にした。
「3千万、くらいじゃないか。カスタム含めると、もう少しいくかな」
俺の血の気が一気に引いたのは、言うまでもない。
ホストというと華やかなイメージがついて回るかもしれないが、実際はそんなこともない。華やかなのはほんの一握りの超一流と言われるホストだけで、他は有象無象と言った程度だ。
俺だとて、一応手取りで30万はキープしているが、特に決まった時期にボーナスが出るわけでもなし、物凄く稼いでいるというわけでもない。年収にして4〜500万かそれくらいというところだ。
もちろん、ここから服代だの何だのの必要経費が出ているわけで、そう考えると割に合わない商売と言ってもいい。
その俺に、『3千万くらい、もうちょっといくかも』などと舐めた話をほいっと出来てしまう馬超の感覚には、確かに呆れるものを感じる。
あの親戚達にも、正直ズレしか感じられない。
同性愛なんてものは、もっと禁忌的で、疎まれるべきものだろう。俺が馬超をどう思っているかは別として、だ。
結局……俺は、少し拗ねているだけなのかもしれない。
あまりにも格差があり過ぎて。
馴染んできたところだっただけに、生い立ちも何もかもが違い過ぎて、卑屈になってしまっただけなのかもしれない。
寛大とはほど遠い、ちんけな人間だと言うことは自覚がある。だが、自覚があるのとそれを改めて突きつけられるのとではまったく意味が違う。少なくとも、俺はそう思う。
そんな自分を見せるのは情けなかったし、何より恥ずかしかった。
「……爺様……爺さんとは、血の繋がりはないんだ」
黙りこんだ俺をどう思ったのか、馬超はぽつりと話し始めた。
「俺の親父の親友で……年は離れてたけどな。その縁で、親父が死んでから俺の面倒をみてくれている。一応、遠縁に当たるし、爺様には跡取りがいないんだ。事故や病気で、早死にしてしまってな。だから、俺を代わりにしているような節がある」
そう言えば、馬超は『自分には家族は居ない』と言っていたことがあった。
「親父さん、死んだって……」
「自殺」
あまりにも何気なく口にするので、俺は思わず相槌を打ちそうになって慌てて唾を飲み込んだ。
馬超が苦く笑う。
「事故死みたいなもんかもな。事業で失敗して、大手に合併されて……西涼って企業、聞いたことないか」
「……ある……」
有名な化繊メーカーだ。馬超の言うとおり、アパレル企業の『K.A.N』と合併した話は有名だ。
「吸収合併って奴だ。事実上の乗っ取りだ」
馬超の親父さんは、お決まりの転落者の末路を辿ったそうだ。ただ、身辺整理だけはきっちりとして、馬超やそれでも着いて来た社員に迷惑の掛からないようにしたのだけは、通常とは違っていた。
「保険は、結構入ってたらしいから。付き合いが良かったんだな。頼まれると、断れなくて、だからそれが却って良かった」
馬超が笑う。苦笑いですらなく、本当に可笑しそうに、ふふ、と軽く吐息を漏らして。
俺の腕は、俺の意志よりも早く馬超を捉え、抱え込んだ。
「……?」
我に返って、慌てて手を解く。無意識に馬超に触れたことに、俺自身が戸惑っていた。
「」
馬超が身を乗り出して、俺に触れてくる。
いつもなら拒むはずの口付けにも、何故か逆らうことが出来なかった。
「同情、したのか」
どうなのだろう。話だけ聞けば、このご時世なら何処にでもある安っぽい話だ。同情どころか、気も引きようのない、下らない話だ。
俺が考え込んでいると、馬超はまた笑った。可笑しそうな、愛しそうな、卑猥でいて無垢な笑みだった。
「……どっちでもいい、が、俺のことを考えてくれるなら」
馬鹿なこと言ってやがる、と押し退けようとした時、馬超の手がさっと伸びて、俺の股間に触れた。
「その気になっている」
端的に指摘されて、俺は顔面が焼けるような気がした。
身内の死に様を語られて、『その気になっている』と言われては、まるで淫乱めと罵られているみたいだ。
「これは、違う……」
「何が? 何が、違う?」
煽るような声音で馬超が俺を覗き込んでくる。
楽しんでいるのがモロにわかる。腹が立って反抗しようとするのだが、絶妙の力加減で撫で摩られて、体が熱くなってしまう。
馬超とて、親の惨い死に様を語っておきながら、何故そんな嬉しそうに俺を甚振ってくるのか理解できない。
俺の分身はますます熱り勃って主張をし、布越しにもそれとわかるほどに形を変えていた。
我慢が出来なくなる。
「馬超……」
堪えきれずに馬超の名を呼ぶと、喉でも鳴らしそうな表情を浮かべる。
「……あし、た……早いんだ、ろ……」
遠回しに拒絶すると、馬超が目に見えて落胆に沈むのがわかった。
だが、これで諦めてくれるのなら、話は早いのだ。
「は、ぅっ……!」
握り篭められ、親指でカリ首を擦られる。浮き上がる腰を捻り、快楽を外へ逃そうとするのだが、立て続けに擦られてそれも許されない。
「」
強情を張るな、と耳元で囁かれる。指は、俺のものを甚振り続けている。
汗が吹き出し、珠となって肌を流れた。
チクショウ、と掠れた声で呟くと、馬超の顔が得意げに歪む。
「……風呂、入ってねぇだろ」
「これから入ろう。一緒に入ればいい」
柔らかな口付けが何度も降ってきて、閉口した。
「勝手にしろ」
投げ槍に言うと、馬超は本気に取ったらしく、俺を横抱きに抱え上げていそいそと風呂場に向かう。
曲がりなりにも男一人を軽々と抱え上げる。この馬鹿力に何度泣きを見たことか。普通、男が男に横抱きにされて嬉しいわけねぇだろうが。
この体力差も、今後の課題の一つだろう。
腰の痛みを耐え、馬超に朝食を作ってやると、馬超は何か言いたげに俺をちらちらと盗み見る。
「……何だよ」
何故だか嬉しそうに笑いながら食っているのが薄気味悪く、問いかけるのだが何も答えようとはしない。
食べ終わると、馬超は出勤の支度をしに行き、俺は洗い物を手早く片付けた。
「」
呼ばれて振り返ると、馬超がネクタイ片手に立っている。
「結んでくれ」
俺はよくわからないまま、結び方も知らないのかと詰りつつ言うとおりにネクタイを結んでやった。
忘れ物はないかと確認し、財布はハンカチはと問いかけていると、馬超の笑みが深くなり、俺はいよいよ気持ち悪くなって眉を顰めた。
「……新婚みたいだと、思って」
ろくでもない戯言を、労力を使ってわざわざ聞き出したことにどっと疲れを感じ、俺は馬超を叩き出した。
「行ってくる。帰りは遅くなるからな!」
俺の帰りはもっと遅いよ、と吐き捨てたくなったが、敢えて黙って手を振ってやると、馬超は満面の笑みを浮かべて手を振り返してきた。
おめでたい奴だ。
馬超の姿がビルの陰に隠れたのを見届けて、俺は二度寝をしに寝室に戻った。
チャイムの音がしたような気がして、俺は目を覚ました。
時計は一時になろうとしていた。
窓の外は明るく、昼の一時だと明確に伝えていた。出勤が夜十時の俺としては、まだ早い時間だ。
気のせいかと思っていたのだが、またチャイムが鳴り、やはり夢ではなかったとわかった。
しかし、こんな時間に誰だろうと考えながら、のたのたと歩く。まさか、馬超が昼飯を食いに戻ってきたというわけでもあるまい。
覗き窓も覗かず、無用心にドアを開けた。
そこに。
見慣れた、懐かしい顔があった。
「……ちょ」
趙雲だった。
夢でも見ているのかと思った。
あまりに驚いて、時が止まったような気がした。
体が宙に浮き、視界がひっくり返る。
趙雲の白い肌と長い睫が眼前にある。長い前髪が顔にちくちく刺さって痒かった。
その趙雲の後ろで、ドアがゆっくりと動いて、閉じていく。
窓のない玄関は、薄闇に落ちた。
続