携帯のディスプレイを見て、俺は眉を顰めた。
休日の朝だった。
爽やかな、秋晴れと言うに相応しい天気に、俺は溜め込んでいた洗濯物を片付けるべく洗濯機を回していた。
空いた時間を利用し、近所にあるお気に入りのパン屋で朝食用の食パンを買おうと、散歩がてら出てきたところだったのだ。
馬超は家でまだ眠っているだろう。起き出して来て俺がいないと騒ぐ前に戻りたかったのに、それを見越したように携帯が鳴った。
曹丕からだった。
悩むが、一度切れた携帯が、再び鳴り始めたのを見て諦めた。
「……はい」
『』
電子音と共に耳に携帯を当てると、いつにも増して凄みのある曹丕の声が俺の名を呼ぶ。
「何か用。俺、これから」
『Dianabraと言うホテルを知っているか』
相変わらず人の話を聞かない。
溜息を吐きつつ、一応知っていると答えた。
都心の一等地を再開発して、その目玉として建てられたホテルだった。ニュースでもがんがん流れているし、CMも半端ない。
不況だ何だと騒いでいるのは庶民だけで、今は好景気だと頑として譲らないお役所の主張をごり押しするような、豪華絢爛極まりないホテルだ。
『そこの正面ロビーに、十時だ』
それだけ言って、切れてしまった。何のことやら分からない。
唖然として携帯を見詰めるが、再び着信音が響くことはなかった。
掛け直すのも億劫で、俺は半ば反故にすることを決定して歩き出す。
知ったことか。
そんな急に呼び出されたとて、俺も困る。
本当は用などないけれど、何か適当に見繕って出掛けてしまおうか。それに、家には馬超も居る。休日くらいは一緒に居ろと喚くに決まっているのだ。
いつの間にか足早になっていた。
力んでいるのに気付き、俺は溜息を吐いた。
こんな身勝手な呼び出しに囚われる。何と言うお人好しなのだ。
無視だ、無視。
断られて当たり前なのだ。曹丕だって、来ないのを前提に電話して来たに違いない。
無視だ。
気が付いたら、目当てのパン屋はとっくに通り過ぎてしまっていた。
「来たのか」
人ごみでごった返す中、俺はそれでも目立つ曹丕の姿にうんざりしながら近寄った。
そんなことを言うくらいだったら、呼び出すな。
文句を言ってやりたい気もするが、俺自身が同じ事を考えていたので文句も言えない。
「そんな服で来たのか」
休日だと言うのにきっちりスーツを着込んだ曹丕に、俺はこいつは普段からスーツを着込んでいるのだろうかと馬鹿なことを考えた。
「別におかしかねぇだろ、周りを見ろ周りを」
再開発の目玉となったホテルだけあって、ロビーは観光客でごった返していた。六階まではショップやレストランとして一般に開放されているので、それを目当てに押し寄せてきているのだろう。
俺の、ジーンズにジャケット、スニーカーと言う格好は馴染みこそすれ浮くことはない。
休日までスーツを着ている曹丕がおかしいのだ。
「何か、用か」
簡潔に問うと、曹丕は無言になってしまった。
「甄が」
「は?」
甄と言うと、あのおっかない美人だ。曹丕の婚約者だと聞いている。
「式を、挙げたくないと言っている」
「は」
驚いたことは驚いたが、何と言うか、合点がいく気もする。
婚約者が居るくせに、男に(俺だが)ちょっかい掛けていた曹丕だ、見限られても仕方なかろう。
「え……っと……」
だが、俺に何をしろと言うのだろうか。
最後の逢瀬にするつもりで呼び出した場所にしては、観光客のざわめきで賑わっている。楽しげなカップルの中で男同士の愁嘆場はねぇだろう、と呆れた心持ちだ。
だが、曹丕とて無論そんなつもりではなかったらしい。俺に背を向け、客室用のエレベーターホールへと向かう。
まさか、と眉を顰めるが、立ち止まって振り返る曹丕の冷たい視線に打ちのめされる。
よくよく見ると、曹丕は酷く不機嫌で、どこか困惑し、どこか焦っているように見えた。
俺が着いて来たのを確認すると、曹丕はもう振り向きもせずに歩き出した。
エレベーターは全自動で、エレベーターガールも付いていない。
二人でエレベーターの密室に閉じ込められ、浮遊感を共にする。
眼下にごちゃごちゃと詰め込まれた町並みが広がっていくのを、黙って見下ろした。
足が沈み込むカーペットを踏み付け、まばらに並んだドアの一つの前で曹丕が足を止める。
ノックをするが、中からの応えはない。
曹丕は胸ポケットからカードキーを取り出し、開錠して中に入っていく。
ドアを閉める直前、思い出したようにもう一度ドアを開く。入って来いと言うのだろう、仕方なく俺も後を追った。
広い部屋だった。入ってすぐにバスルームと思しきドアがあり、そこを抜けると大きな窓が備わった広々としたリビングとなっていた。ちゃんとしたバーカウンターまで付いていて、とてもホテルの一室には思えない。まるで高級マンションのモデルルームのようだ。
「甄」
曹丕の呼び掛けに、中に居るのは甄姫なのだと知れた。
だが、それ以前に、俺はリビングの端に置かれたマネキンに目が止まっていた。
正しくはマネキンではなく、マネキンが着込んでいるウェディングドレスに目が止まったのだ。
何でウェディングドレス。
理由は一つしか思い至らない。
「え、式って今日か」
俺の頓狂な声に呆れたのか、曹丕が俺を振り返る。
「言っただろう」
「聞いてねぇよ」
本当に聞いていたら、お義理で電報の一つも打ったかも知れない。初耳だった。
「え、何、それで式挙げたくないって、おい」
大事ではないか。
「だから、そう言っている」
「だから、俺なんか呼んでどうすんだよ」
母親なり甄姫と親しい友人なりこそが呼ばれるべきだろう。
馬鹿じゃないのかと暗に詰る俺に、曹丕は不機嫌そうに眉を顰めた。
「甄がお前を呼んだのだ」
「は?」
意味が分からない。
式を挙げたくない理由に心当たりはあるが、それなら俺に会いたがるとは到底思えない。
疑問だらけの俺を軽く無視して、曹丕は奥に続くだろうドアをノックした。
「甄、私だ。を連れて来た」
程なくして、甄姫が奥から現れた。
目元が赤く腫れ上がって、酷い有様だった。
呆然と佇む俺を鋭く睨め付け、甄姫は曹丕に退室を命じた。
渋る曹丕に、甄姫は半ばヒステリックに退室を促す。
「いいから、何処かでお時間を潰してきて下さい」
そんな物言いは、常に曹丕を敬い愛しんできた甄姫に相応しくない。
けれど、曹丕は甄姫をじっと見詰めると、不意に踵を返して出て行ってしまった。俺には一瞥すらない。
尋常ならざる甄姫と二人きりにされた俺は、妙に緊張して手のひらに汗を掻いていた。
甄姫は、俺の前をつかつかと通り過ぎると、マネキンの前に立つ。
ごそごそと何かやっているなと思って見ていると、くるりと振り返った。
「貴方のですわ」
はい、と渡されたのは、花嫁のベールだった。
「は?」
甄姫が何を言わんとしているのか分からず、俺は眉間に皺を寄せた。
構ったことか、とばかりにベールが押し付けられる。
むきになっている甄姫の肩を押さえると、反発するように弾かれてしまった。
「触らないで!」
きっと睨め付けられるが、ベールを押し付けられるよりはよっぽどマシだった。
表情で覚られたか、甄姫の顔は更に険しく強張っていく。
「貴方の、ですわ。どうしてお受け取りにならないの」
俺のと言われても困る。俺のものである筈がない。
「……いや、似合わないでしょう、さすがに」
返答に困ってろくでもないことをぼそりと呟くと、甄姫は肩を震わせ、突然わっと泣き出した。
まともに応対していれば、幾らでも言い返してきただろう。
賢いだけに、俺の訳の分からない対応に甄姫はショートしてしまったのだ。
声を上げて泣く甄姫を持て余し、俺はその細い肩を抱き寄せた。
甄姫は無言で抗ったが、俺が少し力を込めると、逆らうのを諦めてしんなりともたれかかってきた。
次の瞬間、打って変わったように体を押し付けてくる。声は潜められたが、涙が溢れて止まらないのは見て取れた。
俺は、彼女の艶やかな髪を乱さないように細心の注意を払いながら、甄姫の体を抱き寄せた。
「貴方のですわ」
ようやく涙が止まり、濡らしたタオルを差し出した俺に甄姫はまたベールを差し出してきた。
俺が黙って受け取ると、甄姫の眉が引き攣る。
甄姫の手にタオルを押し込んで、俺はベールをマネキンに返してやった。俺がするよりはマネキンに被せてやった方がまだ良い。
「それ、貴方のですわよ」
しつこく言い募る甄姫に、俺は苦笑いして見せた。
ベールを受け取った時、心底嫌そうな顔をしたくせに何を言うやら。
そう指摘すると、甄姫は不貞腐れたように顔を背けた。折角のタオルも、手慰みにするばっかりで使われる気配がない。
俺は甄姫の手からタオルを取り上げ、彼女の代わりに腫れてしまった目元に押し当てた。
化粧が取れてしまっても、彼女の美貌は損なわれることはなく、むしろその素顔を見ることは貝の中から真珠を取り出すような不思議な高揚感を覚えさせる。
「式、何時からです」
それまでに間に合うかと内心はらはらした。人生で一番美しい瞬間とも揶揄される花嫁姿が、最初から泣き腫らした顔では様になるまい。
少なくとも、甄姫と言う女性の花嫁姿には似合わないと思った。
「……招待状を御覧なさい」
もらっていないと言うと、甄姫は酷く驚いた。
「どうしてですの」
「どうして、と言われても」
もらっていないからもらっていないと言ったまでだ。
「しましたわよ、招待」
甄姫は、呆然としながらタオルを握り締めた。
「貴方を呼ぶと、我が君が仰られてましたもの」
「じゃあ、貴女に遠慮したんでしょう」
さすがにそこまでは理性を失っていなかったか、と、俺は曹丕を少しばかり見直した。
俺の推測に、甄姫はしばらく思い悩んでいたようだ。落ち着きなく視線を彷徨わせ、タオルをぐしゃぐしゃと握り潰したりしていた。
俺は、再度甄姫の手からタオルを取り上げるとその目元に当てる。
とにかく、涙の塩気を拭って腫れを冷やしてやらねばいけない。時間はどれぐらいあるだろうか。
「式、何時なんです」
「……三時」
なら、まだ何とか間に合うか。
俺がほっとして新しいタオルを取りに行くと、背中から甄姫の声が追っ掛けてきた。
「貴方、そんな格好でいらしたの」
甄姫まで、曹丕と同じようなことを言う。返答するのも面倒で、俺はそのまま洗面台に向かった。
タオルをよく濡らして冷やすと、きつく絞り上げた。
時間はある程度あるとしても、花嫁の身支度にはそれ相応の時間が掛かるだろう。メイクだ何だで、少なくとも二時間は見る必要があるから、と俺が頭の中で計算をしていると、鏡の中に俺以外の誰かが映っているのに気が付く。
いつの間にか、甄姫が真後ろに立っていた。
「ここはもう結構ですわ。早く家に帰って仕度してお出でなさい」
「仕度?」
鸚鵡返しに問い返した俺に、甄姫は呆れたような視線を送ってくる。
「今日、式があるとお聞きになったでしょう?」
「……いや、はぁ、まぁ伺いましたが」
「では、仕度してお出でなさい」
この時点でようやく理解した。
したが、どうしろっていうんだ。
「今日これからで仕度なんて出来るわけないでしょう!」
礼服なんて持っていない。いや、あるにはあるが、万事一流で鳴らした曹丕の結婚式に着て行けるような代物など、一着たりとて持ち合わせていない。レンタルしようにも、もう時間がないだろう。
そもそも、当日になってから文字通りの招かれざる客を突っ込むなんて、できる訳がない。式場側の迷惑を顧みろと言ってやりたかった。
「あら、そんなもの」
どうにでもなると甄姫は嘯く。
勿論、服も式場もと、それは微塵の疑いもなくぱっきりと言い切った。
俺は呆然として、甄姫が携帯を手にどこぞに電話をしている姿を見入るしか出来なかった。
これ以上の似た者夫婦を、俺は知らない。