甄姫は電話を切ると、生き返ったようにきびきびと動き始めた。
 奥から一抱えはありそうなケースを引っ張り出してきて、テーブルの上に広げる。
 縦に割れるケースは、ちょうど女の子の玩具にこんな人形の家があったな、と、何故かそんなことを連想させた。横に広がるように展開したケースには、ぎっしりと化粧品が詰め込まれている。

 気安く呼ばれ、しかし俺は肩をすくめて返事をする。何を言っても無駄なのは、曹丕でとっくに学習済みだった。
「ルームサービスを取って下さる。コーヒーと、何か軽いものを」
 聞けば、一昨日から何も食べてないのだという。
 食欲がなくて食べられなかったそうだが、飯ぐらいはきちんと食っておけと言いたいのをぐっと我慢した。俺自身、そんなにきちんと食べていない方だったから人のことは言えない。
「……コーヒーは止めておいたらどうですか」
 空の胃には悪そうだ。
「そう? では、紅茶……」
「胃が空なんだったら、カフェイン入ってるものは避けた方がいいでしょう」
 式に備えて空腹を解消しておこうという心構えはともかく、今度は胃痛起こしてぶっ倒れたら洒落にならない。
 甄姫は、おかしな物を見る目で俺を見た。
「……何か?」
「いえ、何でもありませんわ。……では、貴方にお任せしてよ」
 俺は、電話機の横に置かれた革張りのメニューを広げてざっと目を通す。
「ミルク、飲めますか」
「飲めましてよ」
「温めても?」
「平気ですわ」
 好き嫌いはないそうで、俺も気兼ねなくルームサービスを注文した。
 電話を切ると、甄姫はコットンパフに化粧水を染み込ませたものを目元に当てている。
「じゃあ、俺は」
「どちらに行かれるの。私に素顔でルームサービスを受け取れとでも?」
 うわぁ。
 何処の女王様だと頭が痛い。
「……じゃあ、俺はこっちに行ってますから」
「何故ですの?」
 ここに居たらいいと、甄姫は平然としたものだ。
「……男の前で、化粧しても構わない口でしたか」
 俺がむっつりしながら問い掛けると、甄姫は唐突に声を上げて笑い出した。
 何なんだ。
「あ、貴方を殿方扱いして差し上げなくてはならない覚えはなくてよ」
 笑い、涙を滲ませながら説明してくれる。有難くはない。
 甄姫はひとしきり笑い転げ、しばらく経ってからようやく落ち着いたように姿勢を正した。
「……それに、貴方の服はここに届けさせることになっていましてよ。届けられるまで、ここでお待ちなさい」
 言うなり、甄姫は再び化粧に没頭する。
 時間はまだ早いように思えたが、化粧しないと落ち着かないタイプなのだろう。服を着ていないようで落ち着かない女性も居ると聞く。きっと、その手合いなのだ。
 それはいいとして、俺は家に残してきた馬超のことが気懸かりになった。すぐ帰ると言ったのに(それでもかなりぶつくさ言われてきたというのに)、式に出るまでは何が何でも帰してもらえなさそうだ。式は一時間もあれば済むだろうが、それでもざっと見て四半日は拘束される。
 言い訳の電話を入れるべきか、入れずに放置しておくべきか。
 しばし悩んで、俺は甄姫に電話を掛ける失礼を詫びる。
 甄姫は、振り向きもせずに鷹揚に頷いた。
 どうでもいいが、曹丕共々偉そうな仕草が異様に似合う。こうも似合っていると、いっそ拍手を送りたくなってくる程だ。
 携帯を取り出すと、リダイアルを探す。
 耳元から軽いコール音が鳴り響き、程なくして馬超が出た。
「……あー」
 ごめん、から始まった俺の電話に、馬超は即座に喧々と噛み付いてきた。
 本当に、よく飽きもしない。またか、で流して嫌味の一つもくれてお終い、には決してならない。
 必ず詰る。本気で怒る。今すぐ帰って来い、お前は俺に何と言って家を出た、すぐ帰ると言っただろうと、執拗に正論をぶちまける。
 とは言え、俺も学習能力があるとは言い難い。
 電話を入れずに後で爆発させるよりはマシ、という点では正しいと思う。
 けれど、馬超が怒り狂うのに合わせ、上手いこともあまり言えぬままにその罵詈雑言にお付き合いし、一々詫びて宥めてを繰り返す。
 逆切れでもして俺の勝手だろと電話を切ってしまえばいいようなものだが(実際のところ俺の勝手な訳だし)、俺はそうはしなかった。火に油を注ぐようなものだ。うん、そうだな、ごめんな、と、ろくな言い訳もせずに延々と頭を下げる。
 非常に疲れる作業だ。耳も痛くなる。
 でも、その内馬超も落ち着いてきて、多少の譲歩を見せてくる。
 どうしても帰れないのか、としょんぼりした声音が聞こえてくる。
 末期だと自覚はあるのだが、こんな時の馬超の声は甚く可愛らしい。
 笑い出したくなるのを堪えて、もう一度ごめんな、と返す。
『遅くなるのか』
「んんん、分かんないけど。遅くなるようなら電話するし、アレなら、先に寝てていいし」
 起きてる、と速攻で声が返ってくる。起きてるから早く帰って来いと続いて、俺は何だかなぁと思いつつも礼を言う。
 電話の向こうの馬超が、唐突に黙り込む。
 赤面でもしているのかとこちらも黙っていると、しばらく間を空けて馬超が口を開いたらしい。

「ん?」
『好きだ。愛している』
 そこで携帯が切られた。
「……」
 何処まで典型を貫くつもりかと、こっ恥かしくなる。
 反射的に顔を赤らめた俺に、甄姫の冷たい視線が刺さった。
「男の方? それとも、女の方?」
「……男、ですが」
 不機嫌を露にする甄姫に、俺は苦笑いを浮かべて愛想を売るしかない。女性から見たら理解できない世界に違いないだろうし、何より『女の敵』以外の何物でもないだろう。
 ところが、甄姫の不機嫌の理由は少し違っていた。
「貴方、我が君という方がいらっしゃるのに、よく他の男など目に入りますわね」
 曹丕が如何に素晴らしいか、他の男がどれだけくだらないかを滔々と語り始める甄姫に、俺は汗を掻く。
 問題がずれていると感じるのは、俺だけなのだろうか。
 ここいら辺が、金持ちと庶民の感覚の差なのかもしれない。
 話が白熱し、俺がいよいよ困り果てていた頃、ルームサービスの到着に救われた。

 温かいミルクに砂糖を落としたものを啜りながら、甄姫は俺に髪を梳かせていた。
 当たり前、といった態は、ブルジョアジーの賜物と言うべきか。
 食事すると仕度ができないのは理屈だ。時間がないと焦るというのも分かる。
 けれど、何でそこで俺にブラシを掛けろと言い出すのかまでは分からない。
 困った人だなあ、と溜息が出る。
 甄姫は無言で、俺が注文したミックスサンドを頬張った。
 頬張るという言葉も語弊があろう。端の方からちまちまと、お上品に召し上がっている。
 マナーの点で言えば文句の付けようもないのだろうが、あまり美味そうに食っているようには思えない。
 そんなことを考えていたら、何となく向日葵の種を頬張るハムスターを思い出した。
 妄想は一瞬だったが、甄姫とハムスターを重ねた罪悪感から、俺は甄姫の髪を梳くことに専念することにした。適応能力は高いのだと思う。
 俺が甄姫の御髪係になりきった頃、不意にコール音が鳴り響く。
 甄姫が出る様子はない。
 と言うことは、俺が出るしかないのだろう。
 ブラシを置いて、受話器に耳を傾ける。
『ご来訪のお客様がいらっしゃってますが、如何致しますか』
 フロントからの伝言を、送話口を押さえてまま繰り返す。
「部屋まで来ていただいて」
 甄姫は、下ろした髪を簡単にまとめて捻ると、頭の上で留めた。
 ピン一本でよく綺麗にまとめられるものだ。感心しながらフロントに甄姫の言葉を伝える。
 受話器を置くと、甄姫は俺に背を向けて奥の部屋へと向かう。
 何も言わない。
 ドアが閉められてしまうと、俺はどうしたものかと慌てた。
 誰か来るのだろう。
 それで、何で俺一人残して引っ込んでしまうのだか分からない。
 分からないが、まぁ。
 出ろということなんだろう。
 わざとでなく溜息が零れる。
 渋々ドアの前で待機していると、ドアがノックされた。
「……はい」
 一応返答すると、ドアの前の人物は意外にも俺のことを知っていた。
「貴方がですね!」
 男のものにしては高い、人によっては癇に障るような吐息交じりの艶めいた声だった。
 俺は、名前を呼ばれたことに目を丸くし、恐る恐るではあるが無用心に開錠してドアを開けた。
 そこには、痩せ型ながら均整の取れた長身の男が立っていた。長袖シャツにジーンズという格好こそ街中に居ても違和感はないだろうが、この体躯だけで相当目立つこと間違いない。
 肩から下げた大きな鞄はともかく、腕には折り畳まれていないスーツバッグを何着も下げている。ホテルの廊下という場所にはあまりそぐわなかった。
「申し訳ありませんが、中に入れていただけますか?」
 荷物が重いと笑う男に、俺は慌てて体を避けて進路を作った。
 壁際に背を押し付けた俺に、男は軽く頭を下げて室内に入ってきた。
 が、俺の横に来るとぴたりと足を止めてしまう。
 ホテルの客室の廊下とて、それ程狭い訳ではない。俺の体が邪魔で突っ掛かるということはないし、俺が必要以上に避けているので、男の方も歩き難くはない筈だ。
 何だ、と思う間もなく、男の顔が近付いてきた。
 俺の唇に軽く触れた暖かな感触は、男のそれだった。
「……挨拶がまだでしたね」
 こんにちは、と、にっこり微笑まれ、俺は毒気を抜かれて放心する。
 俺の意識が正気を保っているとしてだが、俺は今この男にキスをされて、また、俺の記憶が確かなら、日本にはそんな風習はなかったし、初めて顔を合わせた名も知らぬ相手(とりあえず俺の方は知らない)とマウストゥーマウスのキスをするのは欧米でもない風習なのではないだろうか。
 動揺が顔に現れていたか、男はさも可笑しそうに笑い、また顔を近付けてきた。
「物足りませんか。もっとちゃんと致しましょうか」
 仰け反ると、後頭部が壁にぶつかって如何にも痛そうな音を立てた。
 構っても居られず、俺はぶんぶんと首を振り、拒否の意思表示をする。
 男は、くすくすと笑い、そのまま奥に進んだ。
 何なんだ。
 俺が男を見ていると、男は華麗にターンして俺に向き直る。
「何をしているんですか、早くこちらにおいでなさい」
 サイズを合わせないと言われ、初めてこの男は俺の着るスーツを持って来たのだと知れた。
 しかし、俺はこの男を知らない。甄姫の知り合いなのだろうが、赤の他人に(しかも男に)いきなりキスしてくるような男の傍には近寄り難かった。
 男は、何処からかハンガーラックを転がしてくると、腕に掛けたスーツバックをそちらに移していく。
 全部移し終えたところで、俺が未だに傍に来ないと見るや、大股ですたすたとこちらに歩み寄ってくる。
 開け放したままのドアをまず閉め、固まっている俺を見下ろす。
「……曹丕殿を誘惑したひとにしては、随分と物堅いのですね」
 誰が誘惑したか。
 むっとする俺に、男はまたくすくすと笑い出す。
「あの、ですね」
 言いながら、シャツの袖をまくる。鍛えられた腕は筋張っていて、ハンガーが食い込んだと思しき赤い跡が幾つも付いていた。
「貴方の為に、私の美しい腕にこんな跡を付けて来たのですよ。少しは、感謝の気持ちを見せてくれてもよろしいのではありませんか?」
「感謝」
 俺が呟くと、男は身を乗り出して唇を突き出してきた。
 無論、俺が応えてやる義理はない。
「……アリガトウゴザイマス」
 棒読みで感謝の辞を述べると、男は詰まらなそうに溜息を吐く。
 溜息を吐きたいのは、俺の方だ。
「まあ、良いでしょう。さ、サイズを合わせますよ」
 俺の肩を親しげに抱き、奥へと誘う。
 けれど。
「……俺、貴方が何処のどなただか、未っだに知らないんですが」
 俺の言葉に、男は目を丸くした。
 大袈裟に天を仰ぐと、三流役者のような嘆きの声を上げる。
「これは、失礼を! 貴方のことは、甄姫殿からよく伺っていたもので失念しておりました!」
 男は、自分は魏のチーフデザイナーを勤める張郃だと名乗った。
「以後、お見知り置きを」
 ウィンクされて、たじろいでしまう。
 そもそも、違うTEAMのデザイナーと見知り置いても、俺の実生活には何の関わりもなさそうだと思った。

  

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