張郃はすぐに戻ってきた。
 入れ替わるようにして留守を頼むと、俺はホテルを出て近場をうろついた。
 こんな場所でも百円ショップがあるのを発見し、これ幸いと物色する。目当てのものはすぐに見つかり、俺は二百十円を払って店を出た。

 部屋に戻ると、張郃はコーヒー片手にまるで自分の借りた部屋のように寛いでいた。
 俺に向かって優雅に微笑むのだが、応えるつもりにはなれなかった。
 少しばかり考え込むが、問う相手が一人しか居ない以上選択の余地はない。
「……俺、やっぱり披露宴にも呼ばれるってことですよね」
 張郃は、やや驚いたように目を丸くしたが、すぐに何か悪巧みでもしていそうな笑みに戻った。
「お式にだけ招かれるというのは、あまり伺いませんねぇ」
 やはり、披露宴にも招かれるのだろう。
 一縷の望みで、もしかしたら式だけで放免されるかもしれないと思ったのだ。そうしたら、祝儀だけ張郃に頼んでとっとと帰ったものを。
 溜息を吐く俺の前に、香り立つコーヒーを満たしたカップが差し出される。
 礼を言って受け取るが、よく考えたらこれを支払うのは甄姫ないし曹丕な訳だから、礼を言うのは筋違いかもしれない。
「お砂糖とミルクは?」
「ミルクを」
 自分で入れるもんだと思って手を差し出すが、張郃は勝手にコーヒーをスプーンでかき回し、ミルクを入れてしまう。
 細く白い帯が褐色の表面に渦を描く。
「そんなもんで」
 俺が言うや否や、ミルクの線はぴたりと切れた。
 癖の一言で済ませていいものか悩むが、張郃の仕草はいちいち芝居掛かっている。
 初見で好き嫌いの評価が割れるタイプだと思うが、本人は至ってマイペースで周囲を気にした様子もない。
 何だかんだで色々と風当たりも強そうなのに、大したものだと思う。
 そういえば、チーフデザイナーだと言っていた。
 年はまだ若いようだから、大した出世株だろう。TEAM魏が実力主義で通しているのは小耳に挟んだことがあるが、それでも年を重ねてしか得られない経験をも上回る才の持ち主なのだろう。
 とりあえず、俺には関係なさそうな世界だった。
 こちらは、事務処理一つでひいひい言っているしがないサラリーマンだ。
 最近は仕事に慣れたせいもあり、諸葛亮課長から回される仕事も遠慮がなくなり半端ない。その下に付いている姜維主任も事務の女性もえらく有能で、俺一人が何だか浮いているような有様なのだ。
 現実が厳しいのは今に始まったことではなく、なので俺はやらねばならない仕事を片してしまうことにした。
 百円ショップで買ってきた祝儀袋と、一緒に買った筆ペンも取り出す。
 張郃が不思議そうな顔をしているので、甄姫の作った祝儀袋を見せてやった。
 中袋に記された金額を見て、張郃は吹き出し、くすくすと軽やかな笑い声を立てた。
「あぁ、成る程、これは確かに」
 俺が改めて『金伍萬円』で祝儀袋を作り直していると、張郃は何が面白いのか俺の手元をじっと眺めている。
「……何です」
 書き難い。
 手を止めると、張郃は軽く肩をすくめる。
「いえ、美しい字を書く方だと思って。思いがけず目を奪われてしまったのです!」
 はぁ。
 俺はおざなりに相槌を打つと、もう自分から張郃を構うのが馬鹿馬鹿しくなって祝儀袋の作成に専念することにした。直接書き込む一発勝負の奴だったから、気を抜いて失敗する訳にはいかない。
 大丈夫だとは思うが一応インクを乾かしておいて、甄姫が用意してくれた祝儀袋を開ける。
 予想通りとは言え、手が切れてしまいそうな新券が詰め込まれているのが心臓に悪かった。
 新しい札と言う奴は束になるとこれ程薄く固いのかと新しい発見をして(別にしたくてした訳ではないが)、俺はその中から五枚取り出し、代わりに財布から折れた一万円札と五千円札、千円札を合わせて五万円分戻しておいた。
 張郃は何か面白いものでも見るように笑っている。
 祝儀袋の準備が整うと、汚さないように借り受けた袱紗で包み、甄姫の作ってくれた祝儀袋に『両替だけさせてもらいました』とメッセージを書き込んで置いた。俺の名前が書いてある以上、もう使えないのだから構うまい。
 一仕事終えると、ぐったりした心持ちで温くなってしまったコーヒーを啜る。
「習い事でもなさっていたのですか」
 張郃が好奇心一杯に尋ねてきた。
 何でそんなことを知りたいのかよく分からないが、張郃と二人きり、黙っているのも辛い話なので有難く乗せていただくことにする。知らない人間と無言で向かい合わせているのは、なかなか億劫なものだ。
「前の仕事の時に、少し」
 俺がホストをしていたのはとっくに暴露されているとは言え、物堅い勤め人となった今、自分から『ホストでした』とは言い難い。
「ホストと何の関係があるのです」
 しかし張郃は、所詮他人事なのかずばずばと訊いてくる。
 確かに他人事なので文句を言えた義理ではなかった。
「何て言ったらいいか……まぁ、イメージの問題ですかね。俺」
 と、自分を指し、
「……みたいな感じの奴が、字が下手くそだとあんまりいいイメージもたれなさそうで」
 外見からして荒々しいとは言い難い俺の字が下手だとしたら、意外とは思われるかもしれないが、いいイメージに繋がるものでもないだろう。
 元々、字はそれ程下手ではなかったと思う。
 半端に上手い字のままでも良かったのだが、確か『お姫様』の内の誰かに勧められて通信教育でペン字を習ったのだ。ボールペンと筆ペンの両方、それなりに修めた。
 何で勧められたのか、そしてどうして俺が素直に習ったのかはもう覚えていない。
 でも、確かにこうしてホストを辞めた今、職場で重宝されているのも確かだった。諸葛亮課長も字は上手いが、こういった雑事にかまけている程暇な訳でもない。それは他の社員も同じで、しかし顧客とのお付き合いを重視するTEAMだったから、何かと準備が忙しない。
 最近では私的な類のものも頼まれるようになっていたし、それがきっかけで親交が深まったりもしている。
 何がどう転ぶかは本当に分からないものなのだと実感していた。
「そうですね、確かに貴方は字が上手い方がしっくり来ますけれど」
 張郃は意味ありげに笑い、俺の顔にずいと顔を寄せてくる。
「下手でも、それはそれで貴方らしくて良い、とも思いますけれど」
 可愛くて。
 張郃の言葉に俺の眉が寄る。無意識だが、それだけに嫌悪感に満ちていただろう俺の表情に、張郃は舌舐めずりせんばかりに意味ありげな笑みを漏らした。
「……言っておきますけど、俺、恋人居ますからね」
 牽制すると、張郃が目を丸くする。
 次の瞬間、弾かれるように高らかに笑い出すのでこちらの肝が潰れる思いだ。
 張郃は、しばらく身を震わせて笑って居たが、しばらくしてようやく納まったらしく起き上がった。
 目元に涙が浮いていて、長い指でそれを拭っている。
 そんなに可笑しかったのか。
 俺はやや憮然とした心持ちになった。
「……あぁ、失礼しました。貴方は面白くないですね、こんな風に笑われては」
 当たり前だ。
 口に出して言うのは億劫だったから、無言を守った。
 ようやく落ち着いたらしい張郃は、にこにこしながら俺を見ている。
 逸らすのも馬鹿らしくて敢えて見返す。
 ん、と俺はおかしな違和感を覚えた。
 張郃の目は、俺の底を探るように深く見詰めている。注意深く、品定めするような目付きに訳もなく苛立つ。
 と、張郃が唐突に目を逸らした。
 わざとらしくもあり、これ以上見詰め合うのが耐えられなくなったようでもあった。
「……そうそう、貴方が居ない間に、お預かりしていた品があるのですよ」
 取ってつけたように会話を繰り出す。
 何だかおかしいと思いつつ、張郃から差し出された封筒に俺は目を見張った。
 白い厚手の封筒には、黒々とした達筆で俺の名前が記されている。恐らく甄姫の直筆だろうその手は、先程の祝儀袋と跳ねの癖がそっくりだった。
 封はされておらず、中を覗くと濃い青色をした二つ折りのカードが入っていた。
 取り出して広げると、やはり招待状だ。式への出席を請う付箋も付いている。
 どういうことかと張郃を見ると、張郃は可笑しそうにくすくすと笑った。
「貴方が出掛けている間に、曹丕殿がいらっしゃいましてね。こちらを貴方に、ということでお預かりしました」
 また、くすくすと笑い出す。
 俺が問う前に張郃から教えてくれた。
「いえね、曹丕殿、どうやら部屋に居るのは貴方だけだと思っていたらしくて、入ってくるなり貴方の名を呼ばれたものですから」
 そう言えば、曹丕がカードキー持ってたんだっけ、と俺はぼんやり思い返した。
「その声音がですね、私が今まで聞いたことなどなかったような声でしてね」
 くっくっ、と喉を震わせて笑っている張郃に合わせ、俺も何となく想像してしまった。
 いつも冷たいくせに、何かの拍子で酷く切ない、熱い声で俺を呼ぶことがある。
 、と、大概それは俺を組み敷いている時ではあったけれど、俺が卑怯だと詰りたくなる程良い声なのだ。
 女だったら即陥落だろうと思わせる、意外性に飛んだ声の落差。
 いきなり聞かされた張郃も驚いたろうが、曹丕の方も相当驚いたに違いない。八つ当たりされないといいが、と、俺はズレた心配をした。
「で、貴方が居ないことが分かると、渡しておいてくれとこちらを置いていかれましてね」
 ずっと持っていたのだろうか。
 改めて封筒を見ると、ややたわんで皺が寄り、角の方が擦り切れている。
 ずっと持っていたらしい。
 郵送すればいいものを、何故そうしなかったのだろうか。封筒には、俺の家の住所もちゃんと記してある。封をして、切手を貼って投函するだけの話だ。
「直接渡したかったようでしたよ」
 俺の思考を先回りして、張郃が答えを教えてくれた。
「直接渡して、出欠の返事も直接もらうおつもりだったのではないでしょうか。出欠を確認する葉書、入っていないのでしょう?」
 そう言われれば、入っていない。
「……でも、何でまた」
 直接渡すことに意義があるようには思えない。
 ここ最近、曹丕から会いたいと誘い出されることはなかった。式を控えて多忙だったのだろうが、会う時間もないなら郵送するべきだろう。
 席だけ用意されたって、当の本人が招かれていることを知らないではどうしようもないではないか。披露宴に空席があること程、間の抜けたことはないと思う。
 張郃も、俺の疑問にはただ『さぁ』と首を傾げるだけだった。
「でも、想像でよろしいのでしたら」
 張郃は物憂げに肘を突いた。
 美しい美しいと、一般人ならまず口にしないようなことを喚きたてる男だが、こうして黙っていると彫りの深さも手伝って俳優か何かに見える。何でもない仕草が、妙に決まるのだ。
 そんなことを考えていたせいか、反応が一瞬遅れた。
「お会いしたかったのでは、ないですか」
「……は」
 ちゃんと聞いていたとしても、たぶん即座には反応出来なかったと思う。
「誰に」
 俺が思わず聞き返すと、張郃は苦く笑った。
 もちろん俺以外には考えられないから、張郃が苦笑いするのもよく分かる。
 分かるけれども、問わずには居れなかったのだ。
 あの曹丕が、俺に会う為に口実なんか探すだろうか。
 信じられなかった。
「あの方は、貴方が考えるよりもずっと繊細で遠慮深い方ですよ」
 繊細で遠慮深い方が、人を殴って言うこと聞かせようとしたりするもんだろうか。
 俺の不服を見て取ったか(隠す気もなかったから構わないのだが)、張郃は静かに笑った。
「貴方は案外、単純で頑ななところがおありですね」
「真面目でお堅い人柄なもんで」
 張郃が言ったことをそのまま言ってやると、張郃はまたげらげらと笑い出した。
 いい加減、こんな遣り取りにも飽きた。
 昼飯の時分だし、軽くでも何か食べておこうか。式まではまだ時間があるし、最中に腹の虫が鳴るのもいただけない。
「……張郃さん」
「何か軽く食べて置いた方がよろしいですね」
 俺と張郃の声が重なる。
 怯んだ俺を気にも留めず、張郃は滔々と続けた。わざとに違いない。確信犯だ。
「ルームサービスを取りましょう」
「いや、俺は」
 外で、と言い掛けた俺に、張郃がにじり寄ってくる。
「お忘れですか。鍵、ないんですよ。が出掛けてしまったら、私一人で留守番しなくちゃいけなくなるじゃないですか」
 別にいいじゃないか、と言い掛けたのをぐっと飲み込む。
 そんな暴言を吐いたら、何をされる(けれども主に性的な行為と予想が付いた)か分からない雰囲気があった。
 張郃は勝ちを確信したか、スキップしそうな勢いでメニューの置かれた電話の方に歩いていく。
、貴方何か食べたいものはありますか」
 ボトルでも取りましょうかと戯言をほざく張郃に、しかし本当に頼みそうな不安を覚えて俺は張郃の傍らへと足を運んだ。

  

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