あれから何事もなく日々は過ぎて行った。
 強いて挙げれば、宅配便で、俺が置いて帰ってしまった引き出物が送られてきたぐらいだった。
 馬超が戻る前にさっさと片付けてしまったから、きっと気付かれては居るまい。
 曹丕のことを馬超に気付かれるのが嫌だった。絶対に面倒ごとになるに決まっているからだ。
 だが、面倒ごとは思わぬ方向からやってきた。

君、ちょっと、帰りに付き合ってもらえるかな?」
 関西弁のイントネーションが滲む声に、モニタから顔を上げる。
 いつの間に来ていたのか、同僚かつ先輩の女性が立っていた。名を美波さんと言う。
 課は違うが、面倒見のいい人で、だから俺もそこそこ話をする。
 けれど、それはあくまで社内に居る時の話で、退社後に個人的に呑みに行くことなどこれまで一度もなかった。
 浮ついた考えが一瞬頭を過ったが、そうでないことは美波さんの気配から見て取れる。
「……いいですよ」
 別に用もない。
 俺が答えると、美波さんは神妙に頷き、待ち合わせ場所を指定して席に戻っていった。
 何か、悩み事の相談なのだろうか。
 しかし、俺などよりよっぽど頼り甲斐のある人はTEAM内にも大勢居る。
 信用も厚い美波さんのことだから、相談の一つや二つ、喜んで乗ってくれる人が居る筈だ。どうして俺に相談することがあろうか。
 例えば。
 恋愛相談とか?
 彼氏にプレゼントするのに、男が欲しいものが分からなくて、とか?
 それなら、あり得るような気がした。
 俺は適当な回答に満足すると、中断していた作業を再開させた。

 待ち合わせた喫茶店に行くと、美波さんは先に到着していた。
「待たせましたか」
 声掛けると、美波さんは引き攣った笑みを浮かべてふるふると頭を振る。
 きょろきょろと人目をはばかっている様子で、落ち着かなげだ。
 何だか俺と居るところを誰かに見られるのを、恐れている感じだった。
「……場所、変えますか?」
 俺の申し出に、美波さんは食いつくような勢いで大きく頷いた。
 少し離れているが、通い慣れた飲み屋がある。ラフなスタイルの割に一見さんお断りという変わった店だ。
 そこでいいかと問うと、美波さんはこっくりと頷く。声を出すのもはばかられるようだ。
 本当に、何なのだろう。

 喫茶店を出てタクシーに乗り換え、宣告した店に辿り着いた。
「……ここなん?」
 美波さんの戸惑いもよく分かる。
 この店は、見るからに店の態を為して居ないのだ。
 一見さんお断りだからこそ為せる業だろうが、お陰で却って隠れた名店と囃され、常連にとっては少しばかり居心地が悪くなってしまった。入ろうとする常連を待ち構え、一緒に入れてもらおうとする一見が現れるようになったのだ。警察を呼ぶような揉め事に発展したこともあり、女主人はますます一見客を嫌うようになってしまった。
 丈の低いドアを潜ると、天井付近にぶら下げられたランプが、不安定に揺らめく光を放っていた。
 カウンターの奥に居た黒い服の女主人は、俺の姿を見咎めるように眉を吊り上げている。
 一見さんお断りだと言っているのに、最古参の常連の俺が言い付けを破ったことに腹を立てているに違いない。
「今日だけだから」
 ごめん、と軽く手を掲げると、女主人は不満たらしい鼻息を吹いた。
「一番奥使いな」
 お許しが下り、俺はへこへこと頭を下げながら奥の席へ向かった。
 美波さんはすっかり度肝を抜かれたようで、しばらく呆然と立ち尽くして女主人を見ていたが、はっと我に返って小走りに追い掛けてくる。
 魔女にしか見えない女主人と常連客の遣り取りは、初めて見る人に仰天されても仕方ない。
 だが、腹芸の類を一切しない女主人との遣り取りは、慣れれば酷く心地良い。おべっかも愛想もない代わりに、こちらもおべっかも愛想も使わなくていいから気楽に振舞って居られるのだ。
「よ、良かったん?」
 度胸満点と揶揄される美波さんも、年季の入った女主人の迫力には為す術もないらしい。
 常とは違うおたついた様に、俺はくすくすと笑ってしまった。
 美波さんは、不思議な表情を浮かべて俺を見上げる。
 見惚れるという訳ではなく、かと言って侮蔑するようでもない。
 曖昧に幾つかの感情が織り込まれた、しかし一番近い言葉を上げるとしたら、それはきっと疑惑だと思う。
 けれど、疑惑をもたれるような心当たりは、やはりない。
 とりあえずと席に腰を落ち着けると、女主人がやって来て、凍りつく寸前まで冷えたビールと小型のジョッキを置いていく。また出て行ったかと思ったら、今度は熱く焼かれた鉄板にお好み焼きが乗せられて出てきた。
 美波さんの顔がぎょっと歪む。
 無言でヘラを置くと、女主人は出て行ってしまった。
「注文、しとらんよね?」
 おろおろする美波さんにビールを注いで遣りながら、ここはそういう『システム』なのだと説明する。
「何があるか分からないから、大概はこっちから食べたいものを注文するんですよ。あれば出てくるし、なければ出てこない。今みたいに勝手に持って来られる時もあるし、横取りされることもあるし」
 俺の説明を聞きながら、美波さんは鉄板の上のお好み焼きを恐ろしそうに見詰めた。
「……私、お好み焼き好きなんよ。けど、関東でこれ見んの初めて……」
「え、お好み焼きくらい、こっちにもあるでしょう?」
 幾らなんでも大袈裟ではないか。
 俺が問うと、美波さんはふるふると首を振り、ヘラを手にしてお好み焼きを二つに割った。
「やっぱ、スジコン入っとるわ……」
 よく分からないが、関東ではあまりポピュラーなお好み焼きの具ではないらしい。
 俺にはそれより、焼いて出されたお好み焼きの具を一目で見分けられる美波さんの眼力の方が空恐ろしい。
 正直に言うと、美波さんは恥ずかしそうにうひゃひゃ、と奇妙な笑い声で笑い出した。
 気取らないざっくばらんさに好感を持つ。
 ホストをやっていた癖に、俺はどうも回りくどい言い回しや腹に一物持った人間が苦手だ。ホストをやっていたからこそと言えるかもしれないが、だからこんな飾らない人はとても好きだ。
 美波さんは、しかし不意に素に戻り、何事かむっつりと考え込み始めた。
 緩みかけた空気が元に戻ってしまい、俺は手持ち無沙汰になってビールを煽る。
 と、いきなり美波さんもビールを煽った。小さいジョッキとは言え、なみなみ注がれたビールがほんの一瞬で美波さんの喉奥へと流れ落ち、俺は呆然とさせられる。
 恋愛相談かな、などというお気軽な類のものではないらしい。
 美波さんの強張った表情から、非常に訊き難い、けれど訊かねばならないという重責を感じた。
「……何、です。いいから、言って下さい」
 このままでは、俺とて尻の座りが悪い。
 普段は朗らかな人に眉間に皺寄せた渋面を作られてしまうと、何だか腹が痛くなってくる。
「あの、な……」
 水を向けられても言い難いのか、美波さんは一度開き掛けた口を再び閉ざした。
「いいですよ、俺で答えられるなら何でも答えますから」
 ここまで来て言ってくれなくては困る、と重ねてせがむと、美波さんは大きく溜息を吐き、勢い込むようにテーブルに身を乗り出した。
君、ホモやって、ホント?」
 思わず黙り込んだ。
 呆気に取られたのだ。
 美波さんは、言うだけ言ったという疲労感に見舞われたのか、だるそうに腰を椅子に戻す。
「……うー、あのな。何か、そんな噂が流れてるんよ……君、ホモで、そんで前はホストやっとって、女の子食い物にしてたんやって……そんでな、私が代表して、確かめに来てん」
 美波さんは所在無くお好み焼きを切り分け始めた。
「ごめんな。私は別に、そんなん個人の勝手やと思うんよ。けど、やっぱ、そういうの好かんと言うか、気にする人もおって……ああ、も、あかん」
 ヘラを投げ遣りに投げ出し、美波さんは勢い良く両の手を合わせて俺を拝んだ。
「ごめんっ! 聞かなかったことにしといて!」
 言い難そうにする訳だ。
 美波さんは責任感が強い人だから、勝手な噂が飛び交うのが許せなかったのだろう。下の女の子たちが噂にうろたえるのも気に入らなかったのかもしれない。きっとそれで、わざわざ嫌な役を買って出たのだ。
 これは俺の想像に過ぎなかったし、失礼な質問には違いないから怒鳴りつけても構わなかった。
 でも、俺は美波さんのことは嫌いじゃないし、こんな質問された後でもそれに変わりはない。
 だから、正直に答えた。
「してましたよ、ホスト」
 美波さんの動きが止まる。
 恐る恐る顔を上げた美波さんは、信じられないものを見る目をしていた。
 俺は苦笑いしながら、話を続けた。
「隠しているつもりはなかったんですけど、訊かれなかったから黙ってたって言うのも何な話でしたよね……うん、俺、ホストやってましたよ」
「……あ……そ……」
 美波さんは、何と言っていいか分からないようだった。
「ホモって話は、まあ、ホモではないんですけどね」
 俺の言葉に、美波さんは少し気を緩めたようだった。
 可哀想だなとも思ったが、話はこれで終わりではない。
「俺ね、バイなんです」
「ばい」
 恐らく、美波さんの頭の中では『バイ』の検索がされている筈だ。正直に顔に出る人だな、と俺は無性に可笑しくなった。
「あのね、美波さん。バイって、男も女も両方イケる奴のことです。両刀って言った方が分かりいいのかな」
「りょ、両刀……なん……」
 ようやく理解した言葉は、美波さんに新たな衝撃をもたらしたようだった。
 その手の嗜好の持ち主には見るからに縁がなさそうな美波さんは、初めて見る『異物』にどう接していいか迷っているらしい。
 気持ちは分かる。
 平気な顔をして『私はそういうの偏見ないから』という奴の方が、俺の経験上当てにならないことこの上ない。本人にその気があろうがなかろうが、心の中で見下して憐れみにも似た優越感を押し付けてくるのだ。
 恐らく、同性の体に欲情出来てしまうのは、人として重大な『欠陥』と見なされるのだ。
 好奇に満ちた視線を浴びてその心情を想像してきた俺には、美波さんが困惑して口篭っていてくれる様のが遥かに穏やかな心持ちで居られる。
 美波さんは手酌でビールを注ぐと、一気に煽った。
「それって、あの、阿呆な話なんやけど、例えば、張飛部長とか、私相手でもナニがナニするってことやろ……?」
「好きになったら、まぁ、そうでしょうね」
 一々可笑しい美波さんの言い回しに、俺は笑いを堪えることができなかった。
 声を殺しつつ笑い続ける俺に、美波さんは黙りこくり、また手酌でビールを注ぐ。
「そうやね、好きになったら、の話やね」
 一人言を呟くと、美波さんはビールを煽る。
 呑み終わると、口の周りに白い泡が着いていた。
「美波さん、髭付いてる」
 慌てて手で口を拭う美波さんに、俺はハンカチを差し出した。
 何事か考えてからハンカチを受け取る美波さんに、俺は軽くツッコミを入れる。
「今、さすがホストとか思ったでしょ」
「な、何で分かったん!?」
 我慢しきれず、遂に腹を抱えて笑い出した俺に、美波さんは顔を赤くして喚き散らしていた。

  

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