美波さんと別れて、帰宅した。
 正直言って、美波さんが俺の性癖や経歴をどう思ったのかはよく分からなかった。美波さん自身が混乱していて、どう受け止めていいか考えあぐねていたように感じる。
 分かるのは、明日の出勤以降の話になるだろう。
 事と次第によっては、退社も覚悟しなければならないかもしれない。
 TEAM蜀の扱う商品の主力は介護や医療関係の品々だ。ユニフォームの類から包帯やガーゼ、タオルやシーツなど、アパレルと言う名称からは少しぴんと来ないものまで幅広く扱っている。
 相手先が相手先だけに、お堅い、信用第一な面が強い。
 俺にはホストという仕事はそれ程悪いものには感じられないが、それはあくまで身を置いていた者の視点の話だろう。
 漫画やドラマの影響で少しは知られるようになったものの、世間的にはまだまだ認知度も低く、偏見をもたれがちな職業だと思う。
 腐っても水商売には違いないからあまり寛大でも困るのだが、俺の場合の問題はそこではない。
 そんな商売に身をやつしていた人間が、K.A.Nのようなデカイ企業の社員としてのうのうと勤めていることを、世間などと言う壮大な対象でなくてもいい、取引先の面々が理解してくれるかと言うことだった。
 噂が何処から流れているのか、俺は知らない。
 けれど、社内ですら派閥に限らず抗争を繰り返しているような職場に居て、俺がウィークポイントとしてピックアップされないとは限らない。
 取引先にこれこれこういう奴が居ますとリークされれば、蜀が被る被害は計り知れないだろう。
 風評被害という奴程、手に負えないものはない。俺もそこそこ生きてきて、そのことは痛い程痛感してきた。
 噂を流した者勝ちという理不尽な事実は、嘘偽りなく実在している。
 K.A.Nの、TEAM蜀という職場を経験できたことは、俺には非常に有難かった。俺のような奴でも、昼の勤めを何とかこなせることが分かったからだ。いわゆるガテン系の仕事は分からないが、どんな職業でも何とか食っていくぐらいは出来そうな気がする。
 世の中そんなに甘いものでもないだろうけど、何が言いたいかというとつまり、俺が蜀を辞めることで何とかなるのなら、俺は喜んで辞めるだろうということだった。
 家に帰ると、珍しく先に帰ってきた馬超が出迎えた。
 風呂を済ませた後なのか、髪が濡れている。
「寒かったろう」
 玄関で抱きつかれて、俺は辟易としつつ、でも甘んじて馬超を受け止めた。
 温い馬超の肌から湯の香りが立ち上る。お帰りのキスも、凍えた唇には熱い程温かかった。
「風邪引くぞ」
 馬超を押し除けて玄関に上がると、馬超はカルガモの雛のように俺の後を付いてくる。

「ん?」
「何故、女物の香水の匂いがする」
 言われて、美波さんのコートに付いていた香水の匂いが俺のに移ったのだろうと気が付いた。
 コート掛けがないテーブルだったから、籠に重ねて置いておいたのだ。スープや何かが跳ねたら染みになりそうな薄い色のコートだったから、俺の黒のコートを上にした。だから、余計に匂いが染み込み易かったのだろう。
 それでも、そんなに匂う程強い香りとも思えない。
 俺が何の気なしにコートの匂いを嗅ぐと、馬超の顔がぴきりと引き攣った。
 あん、と顔を上げてすぐ、馬超は俺をソファに押し倒してきた。

 翌日は、早目に出勤した。
 美波さんの様子から、噂はかなり広まっていると見て良いと判断した。
 最低でも劉備さん、もとい専務と俺の上役たる諸葛亮課長にはご報告申し上げた方が良かろうと思ったのだ。
 特に、諸葛亮課長には俺の経歴をきちんと話したことはない。
 敢えて言うような話でもなかろうと勝手に決め込んでいたが、事実を知っているか否かくらいは訊いてみてもいいだろう。
 諸葛亮課長はTEAM蜀の頭脳と揶揄されるような人で、専務自らが己は魚で孔明は水だと明言しているという話だから、ひょっとしたら疾うに話を聞いているかもしれない。
 けれど、劉備専務は妙なところで遠慮がちになる人だった。秘密にしている可能性もまた、ある。
 とにかく確認だ、ということで出社してきたのだが、フロアに入る手前で呼び止められてしまった。
 振り返ると、そこに姜維主任が立っている。
 年は若いが既に役付きとあって(この会社は平均年齢が異様に若く、姜維主任のような十代の役付きも珍しいことであってもないことではないそうだ)、非常に有能な人だと聞いている。
 机を並べて分かることは、書類や面倒ごとにきびきびと対応しこなしているというくらいのものだが、それでも諸葛亮課長が懐刀と頼みにしているという話だけで如何に有能かが知れようものだ。
「おはようございます」
 頭を下げるが、姜維主任はぴくりとも反応しない。
 年にしては礼儀正しい姜維主任から、こんな真似をされたのは初めてのことだった。
 何か仕出かしてしまったろうかと記憶を辿っていると、姜維主任は強張った声で俺に同行を求めてきた。返事も待たずに歩き出す主任に、どうしても強い違和感を感じる。
「……」
 俺は内心困惑しながら、肩に力が入った主任の背中を追った。

 姜維主任は会議室の並ぶ階に来て、その一室のドアを開いた。
 入れと言うのだろうが、さっきからずっと無言ではなはだしく居心地が悪い。
 表情に出しながら主任を窺うが、主任は目を逸らして俺の顔を見ようともしない。
 ホストの話を聞いたのかな、と見当を付けつつドアを潜ると、主任は使用中の札を出してご丁寧に鍵まで掛けてしまった。
「どうぞ」
 席を勧められ、俺が腰掛けると、主任はわざわざ三つ程席を空けて腰掛ける。
 コの字に並べられた席の反対側に座らないだけまだましかと思うが、それにしても離れ過ぎではないだろうか。
 主任の、潔癖な性分が滲み出しているような気がして、きっと俺がホストをしていたという話なんだろうなと感じた。
さん、以前、ホストをやっていたそうですね」
 ああ、やっぱりそうだ。
 どうしようかと悩んだが、悩んだところでいい案が出る筈もなく、またそれが事実であるということに変わりない。
 正直に言うしかなかった。
「……はい」
 黙っていてすみませんでしたとか何とか、一瞬付け足そうと思って止めた。
 そんな言い訳言ってもしょうがないし、姜維主任も望んでないだろう。
 ガタン、と大きな音がして、俺は思わず音のした方を振り返る。
 椅子が床に倒れていて、主任が俺の方をキツイ目で睨め付けていた。
 会社の迷惑になる、即刻退職してくれ、という叱咤の声を浴びせられるものだと思い込んだ。
「美波さんに、手を出さないで下さい!!」
 は?
 俺が呆然としているのにも気付かず、姜維主任は矢継ぎ早に言葉を繋げた。
「美波さんは、貴方のような人が食い物にしていいようなひとではないんです! とても真面目な、一途で可愛らしい、清らで無垢なひとなんです!! 美波さんにもし何かあったら、私は貴方を絶対に許さない!!」
「は、はぁ」
 俺の間抜けた返事が気に入らないのか、主任は奥歯を噛み締めきりきりと音を立てている。
 歯に悪いな。
 俺は阿呆なことを考えていた。
 現実逃避しかかっていたのだ。
 確かに美波さんは、年齢の割りに茶目っ気のある可愛い人だとは思うけども、一途だとか無垢だとか、そういうイメージは俺にはない。
 それ程親しい訳でもないから、ひょっとしたら俺が気付かないだけで本当はそうなのかもしれないが、清らで無垢な人が『うひゃひゃ』と笑ったりするもんだろうか。
 それこそ俺の偏見に過ぎないけれど、何と言うか俺は、目の前で憤懣やるかたなく怒り狂っている主任の、あまりの青臭さに脱力していたのだと思う。
 同時に、ああ、と納得する部分もあった。
 美波さんが昨夜見せた影のようなもの、あれの原因はきっと姜維主任だ。
 付き合ってるかどうかまでは定かでないが、少なくとも姜維主任は美波さんにベタ惚れしているに違いない。
 普段は女子社員から可愛いとか小動物呼ばわりされている主任が、こんな顔もするんだなと俺はぼんやり考えていた。
 そんな俺が余裕綽々に見えたのかもしれない、姜維主任は俺を一際キツく睨んで踵を返すと、ドアの方に向かって歩き出した。
 鍵を開けると、俺を振り返る。
「いいですか、絶対許しませんよ!」
 捨て台詞を残してドアを勢い良く閉めるも、体の一部を誤って挟まないよう、ゆっくり閉まる仕組みになっている。
 ふわぁ、と情けなく緩々閉まっていくドアが途中で止まり、姜維主任が戻ってきた。
 自分が倒してしまった椅子を元通りに戻すと、無言で立ち去っていく。
 その耳が、後ろから見ても真っ赤に染まっているのを、俺は何だかなぁと見送った。

 朝の一幕のお陰で、結局出社時間が遅くなってしまった。
 いつもより遅いかもしれない時間で、これでは諸葛亮課長に時間を割いてもらう訳にもいかない。
 余裕を見て、時間を少しばかりもらえないか交渉してみようと思いつつフロアに入ると、既に多くの社員がフロアを埋め尽くしていた。
 活気ある様相が、俺の存在が紛れることで一転重苦しいものに変わる。
 やはり噂話が本格化して流布されたのだろうか。
 メール一通であっという間に流れる話ではあったし、黙っていた俺にも非があるから言い訳も聞かない。
 取引先云々以前に、社員の反応を考えるべきだった。
 馬超や趙雲、劉備さんの反応が如何に異常なものか、甄姫の反応が今のフロアのそれより如何に穏便なものだったのかを、俺は改めて知らしめられた。
「……おはようございます」
 挨拶だけは何とかして、返事が返ってこない、きても困惑してとても朝の爽やかなとは言い難い挨拶を受け、俺は自分のデスクに向かった。
 人ごみを掻き分け、ずんずんと足音が近付いてくる。
 張飛部長だった。
「お、おはようございます」
 さすがに萎縮して、挨拶の言葉すら噛んでしまう。
 張飛部長は俺の挨拶など耳に入らない様子で、一言もなく俺の胸倉を掴み上げた。
「テメェ、自分のやってることが分かってんのか!?」
 分かっているとは言えない。
 だが、俺とて蜀に誘われた時、俺のような経歴でこんな大企業に入社するのはまずかろうと疾っくに進言している。
 それを今更何様呼ばわりされては、いい心持ちがしよう筈もなかった。
 むっとしたのが表情に表れると、張飛部長は俺をデスクに突き飛ばした。
 受身も取れず体を痛打してしまい、息が詰まる。
 腰を折って痛みに耐えていると、俺と張飛部長の間に立ち塞がる影があった。
「何やってんですか、部長!」
 美波さんだった。
「美波、テメェ、そんな奴の肩を持つとは見損なったぜ!」
「何が肩持つですか、いきなりこんな乱暴して、専務が知ったら怒られますよ!」
 劉備専務の名前を出され、張飛部長もうっと怯んだ。
「……大丈夫やった、君」
「あ、はい、何とか……」
 気が付くと、姜維主任が俺と美波さんの様子をじっと見ている。
 涙目になっているような気がするのは、決して気のせいではあるまい。
 張飛部長は俺と美波さんの様子が腹立たしいらしく、くぅー、と顔を顰めて唸り声を上げた。
「やい、美波! オメェがそんな尻軽たぁ思いも寄らなかったぜ! 姜維って奴が居ながら、オメェはそんなホスト崩れがいいってぇのかよ!!」
「わぁ、張飛部長っ!!」
 美波さんが慌てて部長の口を塞ぐも、既に時遅しだ。
 蜂の巣を突付いたように収拾の付かなくなったフロアの中で、俺は何も出来ずに木偶の坊の様に立ち尽くしていた。
 辞めるしか、ないかな。
 妙にしんみりとした心持ちになって、俺は自分のデスクと別れを惜しむように、そっとデスクマットの表面を撫でてみた。

  

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