蜂の巣を突付いたような喧騒に満ちていたフロアが、突然の水入りで静まり返る。
 水も水、君主が身を任せると自称する『水』は、呆れたような溜息と共に張飛部長を手招いた。
「少し、状況を整理しなければいけないようですから。よろしいですね、部長」
「よろしいですねっつったってよ……」
 どうせ俺の話なんざ聞きゃあしねぇじゃねぇか、と口の中でぶつぶつ不平を言いつつ、諸葛亮課長に続いて張飛部長が消えた。
さん」
 静かで鋭い声が俺を呼ぶ。
 女性特有の高い声なのに、どうしてか諸葛亮課長を彷彿とさせるのだ。
「私達は、業務に入るように指示をいただいています。デスクに着いてもらえるかしら」
 陽子さんは諸葛亮課長直属の事務担当で、この蜀の中でも古株だそうだ。
 役職には就いていなかったが、いつなってもおかしくない事務のスペシャリストで、諸葛亮課長の信頼も厚い。
 何故役付きでないかというと、人付き合いがあまりに下手だからだともっぱらの評判だった。
 下手と言うか、素っ気ない。
 美波さんが世話を焼き過ぎるくらい焼こうとするのに対し、陽子さんはまったく面倒を見ない。
 やや語弊があるかもしれないが、こちらからアクションを起こさない限り、陽子さんからどうしたの何か分からないのといったような声を掛けられることはなかった。
 教え方も、人に理解させるような教え方でなく、ただ淡々と『これはこう』とか『これはこちらの数字を見て』とか、本当に訊かれたことにだけ答える感じだった。
 嫌われているのかと一時冷や冷やしたものだが、そうではなくただ単にそういう性分なだけらしい。
 昔からこうではなく、ただ陽子さんの勤め始めの頃の蜀はあまりいい状態でなかったもので、どうもその時懲りてしまったらしいと諸葛亮課長は言っていた。
 これが分からないあれが分からないと言うから教えているのに、教える傍から分からない出来ないを連呼されたら気分悪いでしょう、と尋ねられた。
 最初は良く分からなかったが、ちょっと想像してみたらげんなりした。確かに、それはキツイ。
 陽子さんは、どうせ仕事が遅くなるのが同じなら最初から全部自分一人でやればいいのだと、殻に閉じこもってしまったのだ。
 君主たる劉備専務は仁を重んじ和を重んじる人だから、陽子さんの態度の方にこそ問題があると思って説教してしまった。
 人の分まで仕事をこなして、それで叱られるのでは割に合わない。
 陽子さんに問題があるにはあったとしても、それで陽子さんが閉じこもるようになったと言うなら、陽子さんを責められる話ではあるまい。
 俺がこの話を知っていることを、陽子さんは知らない。
 プライベートな話を、課長が何故俺にしてくれたかも定かではない。
 ただ、陽子さんは優秀だけれど、いつかは退職せざるを得ないことには変わりない。特に女性は、寿退社なんてものがあるだけにいつ辞めるか定かではないのだ。
 陽子さんが居る間は良くても、居なくなってから慌てることになっては困るのだろう。第一、辞める云々以前に病欠も出来ないのでは、陽子さんの負担が馬鹿になるまい。
 だからか、課長は俺にも陽子さんがやっている仕事を覚えさせたい風だった。
 姜維主任が居るには居るが、主任はどうも陽子さんを苦手にしている風で、だから俺に白羽の矢が立ったのだろう。
 けれど、その俺が辞めなくてはいけないかもしれない状況になってしまった。
さん」
 陽子さんが珍しく声を潜めて耳打ちしてくる。
「貴方、フロアに流れている噂は聞いている?」
「はぁ、まぁ大まかには」
 昨夜、美波さんに聞かされたばかりだったが、俺はこっくりと頷く。
 陽子さんは何事か迷っているようだった。
 いつもなら、『そう』で終わらせてしまう人だけに、こんな小さなことでも珍しい。
 俺が黙っていると、陽子さんは一応確認させてと切り出した。
「貴方が美波さんにちょっかい掛けているって噂なの…昨夜も、美波さんを無理に連れ出したって」
「はぁ!?」
 思わず大声を上げてしまい、慌てて自分の口を塞ぐ。
 陽子さんは恥ずかしさからか頬を染めていた。
 そんな表情もまた、珍しい。
「……そんなことになってるんですか」
 ぼそぼそと呟くように問うと、陽子さんも腰を屈めて話を再開させた。
「やっぱり、知らなかったのね」
「知りませんよ、そんな話」
 俺がホモだのホストだの言う話はともかく、美波さんに云々は紛れもなく出鱈目だ。
 何処からそんな話が流れているのだろうか。
 俺が眉間に皺を寄せていると、バン、と重いファイルをデスクに叩き付ける音が響く。
「就業中の私語は慎んでいただきたいのですが」
 姜維主任の言葉はもっともなのだが、陽子さんはまったく怯まなかった。
「失礼。ですが主任、会社の備品は丁寧に扱って下さらないと困ります」
 途端に主任の顔が真っ赤に染まり、八つ当たり気味に陽子さんにキツイ視線を送るも、陽子さんの無表情にただみっともない己の醜態を見せつけられるのみのようだった。
 実力の話で言えば、姜維主任よりも陽子さんの方がまだまだ上なのだ。
 それでも、姜維主任の心情を思えば同情するにやぶさかでない。
「陽子さん、すいません。ちょっと姜維主任と話がしたいんですが」
 俺の唐突な申し出に、陽子さんも驚いたようだ。
 だが、ちらっと姜維主任の顔を見遣ると、こくりと小さく頷いてくれた。
「わ、私は、仕事がありますから」
「誤解を解いてから仕事に取り組んだ方が、よっぽどはかどると思うんですが」
 俺の言葉に、陽子さんが再び頷く。
 役職の肩書きは、このひとには通用しないのだ。噛み付く時には、あの張飛部長にだって冷酷に噛み付くひとなのだから。
 陽子さんの許可をもらうと、俺は姜維主任を促して再び会議室に赴いた。

「わ、私は、話なんか何もありません!」
「主任になくても、俺にあるんですよ」
 強引に連れ出すには体力差が大きい。
 姜維主任は女性陣から可愛い可愛いと言われていても、身長は百八十あるし運動部に居たせいか体格もいい。
 俺は夜の仕事に就いている間、着実に体を不健康にしていたし、ジムに通っていたのはスタイル維持の為で決して健康の為でも体力促進の為でもない。
 喧嘩する前から結果は見えているのだが、俺が無言で歩いていたせいか、姜維主任は喚きながらも一応着いて来てくれた。
 朝とは入れ替わった立ち位置で、今度は俺が姜維主任を会議室に招き入れる。
 違っているのは、俺は遠慮会釈ナシに姜維主任の真隣に腰掛けてやったことだった。
 主任の顔が引き攣るが、俺は敢えて見ないことにして流す。
「話、聞きました。姜維主任、美波さんと付き合っておられたんですね」
「今も、付き合ってます!」
 過去完了形で言ったつもりではないが、問題はそこではないからこれも流す。
 姜維主任も分かってはいたのだろう、強張った顔が次第に情けない沈んだ表情に転じた。
「……それは、私の方が全然年下で、美波さんの好きなお酒にも未だ付き合えないし、似合わないのは分かってます。でも、」
 急に勢い込んで立ち上がる。主任の腰掛けていた椅子が後ろに吹っ飛んだ。
「私は、美波さんが好きなんです! 絶対幸せにするつもりだし、その為の努力なら何だってしようと思ってます! だから……!」
 自分以上に幸せにしてくれる男でなければ、渡せない。
 顔を真っ赤にして、半泣きになっている主任の姿は男の純情そのものだった。
 俺には最初から持ち合わせがない感情だ。
 それだけに羨ましくもあり、白けても居た。
 俺が黙って主任が倒した椅子を戻してやると、主任はうろたえつつ、しかし小さく礼を言って腰を下ろし直した。
「何処から聞いたんです、俺が美波さんとどうこうなんて与太話」
「貴方は!」
 眉を吊り上げ掛けた姜維主任は、一瞬口篭り、何事か悩み始めた。
「……今、与太話って仰いましたか?」
「申し上げましたよ、与太話って」
 え、と小さく息を呑み、ぽかんとした顔で俺を見詰めている。
 こうしてまじまじ見ていると、確かに女の子みたいな綺麗な顔だ。可愛いと囃されるのも、分かる。
 それだけにコンプレックスが強くなり過ぎて、猜疑心が強くなっているのではないか。
 大体付き合っていると言うなら、美波さんに直接尋ねればいいではないか。俺から見たって、美波さんは俺などにちょっかい出されてふらふらするようなひとではない。
 俺ですら分かるものを、付き合っている姜維主任が分からないのでは思いやられる。
 それとも、これが惚れた弱みと言う奴なのだろうか。
「で、でも! 写真が」
「写真?」
 俺が間髪居れずに聞き返すと、姜維主任はうろたえたように視線を逸らした。
 だが、聞き捨てならない言葉に俺は無言で圧力を加え続ける。流していい話ではなかった。
「昨日……残業してたら、メールが届いて……見たら、写真付きで、美波さんがさんと一緒に何処かに入っていくところで……さんが元ホストで、美波さんに目を付けたっていうようなことが書いてあって……それで」
 美波さんが困っているのを、俺が無理に連れ込んでいるように見えたのだと言う。
「写真」
 撮られていたのか。
 なら、喫茶店に居た辺りから付けられていたことになる。
 得体の知れない気味の悪さが背筋を寒からしめた。
「……メールって、お知り合いの方からですか?」
 俺の問いに、姜維主任は首を振った。
 そんな添付メール、よく開いたなと思った。ウィルスメールの可能性だってあるだろう。
「でも、宛先が私宛になっていて……件名に、美波さんの件でってあったものですから……」
 社内のメルアドなど、名刺を入手できれば容易く知ることが出来る。
 だが、主任と美波さんのことまで知っているとなると、話はもう少し根が深そうだった。
 眉間に皺を寄せて考え込んでいると、主任が子犬のような悲しそうな目で俺を見ているのに気が付いた。
「昨日は、美波さんから呼び出されたんですよ。フロアに広まっている俺の噂を確かめたいって」
「噂?」
 こちらの方は姜維主任の耳には届いていないらしく、不思議そうな顔をしている。
 どうやら、女の子の間だけで回っていた噂らしい。あるいは、美波さんがきつく口止めをしていたのかもしれない。
「まぁ、そんな訳で、人の耳がないところのがいいってことになりまして。俺の知ってる店で、一見さんお断りの店があったんで、そこに行ったんですよ。写真で見たかもしれませんが、半地下で、看板も出てないような店ですから美波さんも入る時にちょっと戸惑ってて。たぶん、それが嫌がっているように見えたんでしょう」
 姜維主任は、俺の顔をじっと見ている。
 未だ少し疑っているようだった。
「……信じられないなら、美波さんに訊いたらいいじゃないですか」
 途端、姜維主任の顔が真っ青に引き攣った。
「そ、そんなこと訊いたら美波さんに嫌われます……!」
 ベタ惚れなんだな。
 俺は呆れたように頬杖を突き、姜維主任は顔を赤らめて俯いた。
 しばらくの沈黙の後、姜維主任はぽつりと謝罪の言葉を漏らした。
「張飛部長のこと、怒らないで下さい……あんまり驚いたものですから、その場で大きな声を立ててしまって。昨日は、張飛部長と馬超殿しか居られなくて、あの二人仲悪いでしょう。何かしやしないかと心配で、それで残ってたものですから……」
 あー。
 だから、馬超があんなことを言い出したのだ。何が香水だか。
「馬超殿は、くだらない、こんなのインチキだと言ってお帰りになってしまって。張飛部長は、反対に私に同情して物凄く怒ってくれて、それで昨日はそのまま呑みに行って……美波さんとは、何も話してないんです」
 姜維主任は不安げに俺を見遣る。
「あの……本当に、美波さんとは何でもないんですか?」
 やたらと緊張した面持ちに、茶化したい衝動をぐっと堪えた。
 成る程、この人は如何にも小動物だ。
「メールにどう書いてあったか知りませんがね。美波さんとは本当に何でもないですよ」
 可愛い人だとは思いますけど、と付け足すと、姜維主任が喚き散らす。
「……いやだって、全然まったく興味ないとか言っても面白くないんでしょう?」
「そ、そうですけど……そうですけど……!」
 恋する男は複雑だ。
 と言うか、恋をすると人は皆我がままになるのだろう。
「俺、それに、付き合ってる奴、一応居ますから」
 告白すると、姜維主任の顔がみるみる明るくなった。何だか面白い。
「え、気が付きませんでした。同じTEAMの人ですか」
 少しばかり悩んだが、どうせその内に耳に入る話だ。姜維主任宛のメールの件で、口止めされていた女の子の口が滑っていないとも限らない。
 人は秘密を知ると喋りたくなるものらしいし、告白された秘密に対しては等価を提供したくなる傾向が強い。
 自分の秘密でないなら尚更だろう。
「あの、主任。俺、バイなんですよ」
「ばい」
 付き合っていると、反応まで似てくるのだろうか。
 馬超と似てきたら嫌だなぁと思う。
「両刀なんです。だから、俺が今付き合ってんのは男なんです」
「りょ」
 絶句して固まる姜維主任の顔に、思わず笑いを誘われる。
 と、姜維主任は再び椅子を蹴って立ち上がる。
「わ、私には、美波さんと言う人が居ますっ!」
 何を勘違いしたのだろうか。
 ぽかんとした俺に、姜維主任は首まで赤くして黙りこくってしまった。

  

拾い武将シリーズINDEXへ→