時間が気に掛かりつつも、俺は姜維主任と話し込んでいた。
俺の嗜好や過去の噂に関しては、紛れもない事実だし面白おかしく話されたとしても我慢する。
だが、美波さんに関してはまったくの濡れ衣で、しかもわざわざ写真を撮ったものをフリーメールで送り付けるなど悪質過ぎる。
同じ人間の仕業かどうかは分からないが、少なくとも美波さんが巻き込まれたことで、俺もこのまま黙って辞めようとは思えなくなっていた。
素人だが、伝がない訳でもない。
とりあえず、姜維主任が知っていることをすべて聞き出すべく俺は身を乗り出した。
「姜維主任が美波さんと付き合ってること、どれぐらいの人が知ってるんですか」
「どれぐらいって……」
姜維主任は急にやる気になった俺に、やや戸惑っているようだった。
それでも素直に考えているのは、美波さん大事の為かこの人の性質なのか。
判然としないけれど、この際答えてくれるなら何でも良かった。
「私はどうも顔に出やすい性質のようでして、張飛部長にもいつの間にか知られていたようですから……そうですね、蜀の人間ならある程度の方は知っていたかもしれません」
俺は、そのある程度にも含まれて居なかった訳だが。
姜維主任や俺の居る諸葛亮課長の部と、美波さんや他の女子が揃っている法正課長の部では、同じ事務でもだいぶ仕事の内容が違っているらしい。
営業事務と総務事務というイメージが近いだろうか。
内容は少しばかり違うけれども、とにかく事務の系統がぱっきり二つに分かれているもので、二つの部署が合同で何かするということがまずない。
小耳に挟んだ話によれば、単に諸葛亮課長と法正課長の仲が異様に悪いのでこういうシステムになったのだそうだ。
二人ともかなりのやり手だから、一度衝突してしまうと引くに引けなくなるのだろう。無駄にいがみあって時間を浪費するよりは、ということで分担するようになったらしい。
今のところは上手く機能していて、不足もない。
唯一、人手不足は頭の痛い問題だったが、蜀では元よりどの部署も慢性的人手不足だから文句の言いようもない。
そんなこんなで、だから姜維主任と美波さんが付き合っていると分かるのは、二人が偶々一緒に居るのを見られた人間だけと言うことになる。主任も美波さんも、付き合っていることを敢えて公表したことはないそうだ。
そうなると、フロアの中でもだいぶ限られた話になるのではないだろうか。
「さんは、蜀の人間がメールを送ったとお考えなんですか」
姜維主任は役職付きだが、年は上の俺に気遣ってか敬語で話し掛けてくる。
いきなりタメ語で話されるよりはいいが、それでもいつも少しばかりの違和感があった。
「そういう可能性もあるって話ですよ」
例えば。
フロアの中に姜維主任なり美波さんなりに片思いしていた人間が居るとしよう。
姜維主任には悪いが、確かに二人が釣り合いの取れたカップルには思えない。十代の姜維主任と二十代後半(と見ている)美波さんが付き合いだしたとなれば、それは面白くないと思う。
ただでさえ失恋と言う不快な経験をさせられて、何とかいちゃもんつけたくて仕方がない筈だ。
そこに持って来て、年の差と言う歴然としたいちゃもんの材料があるとしたら、これは執拗に食って掛かりたくなってもおかしくない。
片思いだからこそ陰湿な手口を取らないとも限るまい。
俺がそこまで話すと、姜維主任は静かに首を振った。
「ありえません」
「でも、ですね」
姜維主任が如何に深く信頼を寄せていようと、人間と言う奴はおかしくなるととことんおかしくなる。おかしくなったということにさえ気付けなくなって、自分の正義を信じて疑わなくなってしまうものだ。
俺を手に入れたいという、そんな馬鹿げた理由で不法侵入を仕出かした馬超がいい例だ。
今でこそただの甘ったれと化していたが、あの時の馬超は理性とか理屈とかがすべて自分本位になってしまっていた。
反省した様子もないのが時々無性に腹立たしくなるが、更に腹立たしいことに、ひょっとしたら馬超はあの時のことを覚えていないのかもしれないと思うことさえある。
それぐらい呑気に、無邪気な顔で甘えてくるのだ。
「さん?」
「あ、いえ、すいません」
馬超のことを思い出したら、頭にきて意識がそっちに向いてしまった。
今は、姜維主任に届いたメールのことを話し合わねば。陽子さん一人で仕事をさせてしまっているし、早く帰らないと電話番一人居ない。
「私が言いたいのは、別に人柄人格の話でなくて、そこまでやれる素人はいないだろうってことなんです」
落ち着いた姜維主任は、諸葛亮課長の愛弟子と言われるに相応しい、クレバーな表情を見せていた。
「あの日の終業時間前は、美波さんは帰り支度まで済ませてフロアに居ました。法正課長には許可を取っていたようですが、無論他の女性社員は普通に業務に就いていましたから、あのフロアで美波さんを追える状態にあった女性社員は居なかったと思います」
そうか。
俺は一日デスクに向かいっぱなしだから知らなかったが、姜維主任は時々互いの部署の書類や間違って紛れた書類の交換に美波さんのいる部署に顔を出していたのだ。
「それ、記憶違いってことは」
「ありません」
私が美波さんのことで記憶違いしたりするものですか、とはっきり惚気られてしまった。
「何処に行くのか、誰も知らないようでしたしね。無論、私も知りませんでした。さんは、誰かに美波さんと出掛けること、言いましたか?」
「いえ」
馬超には約束が出来たから先に帰るとメールはしたが、誰ととか何処でなんて話はしていない。どうせ残業に決まっているし、俺が帰る時間に帰ってきた試しがないから止め立ても出来まいと踏んでいたのだ。
その点、馬超は真面目で頑固だった。
他の人には、それこそ諸葛亮課長にも言わなかったから、いつも通り仕事をして待ち合わせ場所に向かい、美波さんを待たせる羽目になったのだ。
「じゃあ、それならむしろさんを追っかけていった人が居ると考えた方が自然ですよね?」
俺を。
「でも、俺と美波さんの接点見出せる人ってそんなに多くないと思いますが」
美波さんは元より世話好きだし、男も女も関係なく親切だ。俺程度に構っている男はそれこそフロア中に居たし、約束したのだってほんの二言三言で終わったから、傍目にはデートの約束などには見えなかった筈だ。
迂闊なことを言うとまた主任の目が険しくなりそうだったから、最後の辺りは適当にぼかした。
「でも、フロアの人間が犯人なら、その短い遣り取りで察したことになりますよ。仮にそうだとしても、尾行なんてそんなに上手く出来る訳ないじゃないですか。ドラマじゃないんだから」
普通の人間はまさか自分が尾けられているとは思わないから、尾行する技術があれば話は別だろう。
だが、その技術とやらの持ち主が、早々居るものでもないことも想像が付く。
「歩いているだけの人だって、いざ追い掛けようとなったら大変ですよ。尾行に気付かれてはいけない上に、一瞬だって目を離せないんですから」
「……そう言われりゃ、そうですね」
まして、俺はあの夜タクシーを使ったのだ。確かに、素人では追い掛けることもままなるまい。
「それに、これが一番大きいと思うんですが」
姜維主任が重々しく言うので、俺も身構えて耳を傾ける。
「……うちのTEAMで、フリーメールだの何だの、そんなのを使いこなせる男性社員はほとんど居ないんです」
事実だとしても、やるせない事実だった。
昼前に、フリーメール使いこなせそうな男性社員からランチの誘いが来た。
一人で食べる予定だったから構わないが、昼飯もまともに食えないと嘆きの声が上がる営業で、よくもまぁ昼飯誘えるものだと感心する。
待ち合わせの公園に出向くと、向こうの端から白いビニールの手提げ袋を提げた趙雲が歩いてくるところだった。
「お待たせしました」
たいして待っても居ないが、趙雲は俺が一秒でも先に来ていたら絶対同じことを言うのだろう。
「あっちに、持込O.Kのカフェがあるんですよ。そこに行きましょう」
「混んでるんじゃないか」
「大丈夫です、いつも空いてますから」
持込はO.Kなのだが、マスターがうるさい人なので騒ぐ客は入れてもらえない。加えて、メニューの品数も少ない上にコーヒーはブラックしか許してくれないので、普通の客は来ないのだそうだ。
俺の行き付けの呑み屋といい、商売として成り立っていけるものなのか。
「何でも、成金なんだそうですよ。血縁もほとんどないからうるさく言う人も居ないし、趣味で開いているそうで」
羨ましい話だ。
趙雲に連れられて着いた店のドアは、分厚く重い樫で出来ていて中を覗くことも出来ない。
金地のプレートには店の名が彫り付けてあるが、ちょっと見にはカフェにすら見えなかった。
恐れ気もなく入っていく趙雲に続き、俺も店の鴨居を潜った。
「殿?」
何処かで聞いたような声に振り返ると、店のカウンターに腰掛けていた若い男が立ち上がった。
「あぁ、やはり殿でしたか。お久し振りです、覚えていらっしゃいませんか」
髪型や格好が違うので一瞬分からなかったが、馬超の従弟だった。
「……馬岱さん、でしたっけ」
「どうか呼び捨てで。なかなかご挨拶にも伺えず、ご無沙汰して申し訳ありません」
こちらへ、と奥の席に招き入れようとする馬岱に、俺は趙雲を振り返った。
「あ、趙雲殿」
いらしてたんですか、とストレートに無礼なことを言う馬岱に、趙雲は憮然とした顔を隠さなかった。
この店のマスターとやらが実は馬超の爺様(直系ではないが)だと聞き及び、俺は引っくり返りそうになった。
「え、だってこの店、趣味で開いてる店なんじゃないのか!?」
金の力を舐めるなと言っていた、あの爺様と趣味の店とは到底結び付かない。
「そうですが」
馬岱はしれっと答えた。
「コーヒー、時価で出す店なんて早々ないでしょう?」
確かに、趣味の店だ。
馬超の爺様は趣味の一つとして人材育成がある。これと見込んだ人間に金を注ぎ込み、育て上げるのだそうだ。
この店は、コーヒー豆のバイヤー並びにコーヒーアドバイザー、陶工、インテリアデザイナーとファイナンシャルプランナーでチームを組ませ、それぞれの成長の度合いを見るべく作らせたものだという。
どうしようもなく趣味の店だ。
「で、作って終わりだとコーヒーアドバイザーとファイナンシャルプランナーの成長具合を見るのには不十分だと言うことで、しばらく経営もしてみようと。私は、大学が休みの間ここでバイトをしているんです」
「お前の爺さん、何してんの」
呆れ過ぎてついぞんざいな口を聞いてしまったが、馬岱はただにこにこと笑っているだけだった。
「さぁ……私もよく分からないのですよ」
今日は用があるからということで、偶々留守にしているのだそうだ。
居ない日で良かった。
趙雲と連れ立ってコーヒーなんか飲みに来た日にゃ、何を言われるか分かったもんじゃない。
「あ、いけね、昼飯」
貴重な昼の時間を浪費する訳にはいかない。
驚いたせいでつい話し込んでしまったが、趙雲は忙しい筈だ。すぐに食べるに越したことはない。
「ちなみに、今日のコーヒーは幾ら?」
少しばかり不安に陥った俺に、馬岱は楽しそうに笑った。
「いいですよ、殿からお金をもらったら、私がお爺様に叱られます」
そう言ってカウンターの奥に戻って行った馬岱を見送っていると、足の爪先に何かが当たった。
方向からして、趙雲が俺の足を軽く小突いたのだと分かるが、何気なく振り向いた俺の目に怒りを押し殺した趙雲が映った。
「家族の方にも、面通しが済んでいるご様子で」
こつ、と爪先が小突かれる。
「いや、趙雲、あのな」
「今日の帰りは、勿論私に付き合って下さるのですよね」
機嫌を取れと命令されるが、命令されてやることだろうか。
何とか宥めようと口を開いた時、出入り口の方が騒がしくなった。入口のところだけ開いた半個室だったから、状況は見えないが音は聞こえるのだ。
すぐに騒ぎは落ち着いたが、しばらくして顔を出した馬岱は憮然としていた。
「何か、あったのか」
俺が尋ねると、馬岱は俺と趙雲の顔をしげしげと見比べた。
「お二方、どちらかだけでも結構ですけど、探偵に追われるようなお心当たりはありますか?」
探偵。
日常生活にはあまり馴染みのない言葉は、俺自身にもなかなかしっくりとは来ない。
しかし、趙雲は俺より全然落ち着いていた。
「それなりには」
あるのか、と呆然としていると、趙雲は少しばかり嫌そうな顔を見せる。
「引き抜きとか、何処ぞの令嬢のお相手に名前が出されたりとか、昔そういうことがあったものですから」
「あぁ、ありそうだな、お前」
口を滑らせて即答してしまったが、趙雲の目付きからして今日は酷い目に遭いそうだ。
馬岱は首を捻っている。何だかしっくり来ないと言いたげだ。
「当たり前ですけど、向こうもちゃんと名乗った訳じゃないんですよ。雰囲気からして公安ではないと思うんですけど」
警察なら名乗るだろうし、だから探偵だと踏んだのだという。
「……何でお前、公安の雰囲気とか知ってんの?」
またもぞんざいになる俺に、馬岱は悪戯っぽく微笑んだ。
フロアに戻ると、諸葛亮課長が出迎えてくれた。
昼飯に掛かるまで何やら話し込んでいたらしい。お疲れ様ですと労いたくなる。
課長は、俺の顔を見るなり常の微笑で話を切り出した。
「一つ、訴えてみませんか」
何を。
どうも今日は、日常的でない単語をぽんぽん耳にする。
訴えるのが日常的な人間になりたい訳ではないが、遠ざかるばかりの安寧の日々が無性に恋しかった。