俺が戻ったのは、三時を少し回った頃だった。
「戻りました」
 フロアの視線を一身に浴びる。
 間が悪かった。
 TEAM蜀独自の習慣、『おやつタイム』に戻ってきてしまったのだ。
 内勤のほとんどは手を休めて出された茶菓子を手に休憩しており、結果、帰ってきた俺に注目が集まることに繋がった。
 時計を見てから入って来るべきだったと後悔するも、既に時遅しだ。
 仕方なく、おざなりに頭を下げて足早にフロアを横切る。
 戻ったからには帰社報告を入れなくてはならないが、諸葛亮課長の居る執務室はフロア入口から中央部を真っ直ぐ行ったところにある。
 下手に迂回も出来ず、嫌々ながらもフロア中央を横断せざるを得なかった。
君」
 声が掛かり、足を止めると美波さんが小さく手を振っている。
君の分もあるんよ。こっち、来ん?」
 こんな状況に来てさえ俺に声を掛けてくれる気持ちは有難いが、美波さんの周りに居る女性陣の何とも形容し難い顔を見てしまうと、とてもではないが行き難い。
「帰社報告、しなくちゃいけないんで……」
 苦笑いで詫びると、背を向けた俺に更に声が掛かる。
「あっ、君、ちょう、待っ……ホラ、部長!」
 部長と聞いて、何の気なしに振り返る。
 そこには、忙しくて、こんな時間にフロアになど居る筈のない張飛部長が居た。
 正確に言えば、机の影から美波さんに引っ張り出されてる部長の姿がチラチラと見える。
「ってぇい、分かったって! 離せ、美波!」
 自棄になったように立ち上がると、大股で俺に近付いて来る。
 相も変らぬ威容に、俺は思わずたじろいで後退った。
「あ、待て、この馬鹿!」
 怒鳴られ、余計に怯んだ。
 張飛部長の背後で美波さんが何やら怒鳴っているのが聞こえるが、俺は部長の険しい相貌に押されて、へたり込まないで居るのが精一杯だ。
「……っ……」
 歯を剥き出しにしている張飛部長の顔は、正直、幼い子供が見たら引き付けを起こすのではないかと思う程恐ろしかった。
 それが声もなくじりじりと近付いてくるものだから、俺が怯んだって致し方ないと思う。
 顔のぎりぎりまで近付いてきた張飛部長から、音にならない唸り声が聞こえてくる。
 何が何だか分からないから、背筋に寒気を感じてきた。
 痛いのは、何に付けあまり嬉しいことではない。
 顔に風が当たり、殴られると踏んだ俺は、察知すると同時に勢い良く目を閉じた。意識的にではなく、反射で閉じたのだ。
 だが、食らうと覚悟した痛みはいつまで経っても感じられず、俺は恐る恐る目を開ける。
 そこで俺が見たのは、白い小山だ。わずかに動いている。
 何のことはない、小山の正体は、白いワイシャツを纏った張飛部長の背中だった。
 では何故背中が見えているのかと言えば、張飛部長が深々と頭を下げているからなのだ。
 あまりのことに呆然とする。
 俺の知る限り、張飛部長と言う人は、人に頭は下げさせても自分が下げるということはまず有り得ない、という類の人だった。
 唐突に、それこそ本当に突然、張飛部長は頭を上げた。
「謝ったぞ!」
 誰に向けての宣言なのか、張飛部長は大きな声で喚き散らした。
「おお、俺は謝ったぞ! 見たかテメェら、見たな!? な!?」
 フロア中に喚き散らす部長に、俺は何のことや分からず呆然とする。
「部長、そんなんじゃあかんですって……」
 美波さんがややげんなりしたように呟き、辺りから失笑が漏れる。
 が、すぐに張飛部長の眼光を受けて鎮まった。
 落ち着いて見てみれば、先程まで複雑そうな面持ちをしていた女性陣も、皆一様に苦笑いに転じている。
 複雑な表情は、張飛部長がそのデカイ図体を押して机の影に隠れていたことに対して、だったようだ。
 俺は何を言っていいかも分からず、張飛部長に頭を下げると、当初の目的通りに諸葛亮課長の元に赴いた。
 背後では、未だ張飛部長が怒鳴り散らしており、それを美波さんら女性陣が必死に取り成している声が聞こえていた。

 執務室で一人パソコンと書類を手繰っていた諸葛亮課長は、俺がデスクの前に立っても作業を中断させる気配はなかった。
 態度が良いとは言い難いが、日頃から忙殺されているこの人だからこそ許される無礼だろう。
「戻りました……遅くなって、すみません」
 俺が頭を下げると、諸葛亮課長は『別に構わない』とでも言うように軽く頷き、声を発しようとはしなかった。
 それでも、俺が愚図愚図とデスクの前に立ち尽くしていると、ようやく気が付いたかのように書類から視線を外す。
「何か?」
 いや、『何か?』じゃないだろう。
「……解答を、教えていただけませんか。課長は、今回の話の裏を、大体のところは読んでいたんでしょう?」
「えぇ、まぁ」
 しらっとして答える。
 その見事なまでの素っ呆けように、俺は怒りが込み上げるよりも、自分ががっくり疲れ果てるのを感じていた。
 要するに、釈迦の手のひらで遊ばれていた孫悟空だった訳だ。
「大体、ですよ。詳細までは、さすがに分かりかねます」
 俺の気持ちを読み取ったか、諸葛亮課長は慰めじみた言葉を付け足す。
「……その、大体のところを伺いたいんですが」
 聞いてどうなるものでもないと諸葛亮課長は言い、俺もそう思う。
 けれど、聞かずには居れない衝動があって、俺はそれをどうしても無視できなかったのだ。
 俺の顔をしばし見遣っていた諸葛亮課長は、手にした書類をデスクに置き、俺を改めて応対用のソファへと案内した。

 諸葛亮課長の語ったところによれば、こうだ。
 俺が曹丕の結婚式並びに披露宴に出席したことは、一部では相当噂になっていたらしい。
 何しろ、結婚式と披露宴の両方に出た中でTEAM魏の社員でない者は少なく、また会場で唯一の新郎友人と言うことで、俺は相当悪目立ちしていたのだ。
 かてて加えて、魏の君主・曹操直々の呼び出し、祝辞は大トリとも言うべきラスト、しかも熱心に耳を傾けていた(らしい)曹操からの盛大な拍手、にも関わらず途中で座を抜け出して遂に戻らず、魏の連中の一部が探索に借り出された件など、目立ってはいなかったとは口が裂けても言えない状況にあった。
 単に俺の耳には届いていなかったという、それだけの話だったらしい。
 俺の身元を尋ねられ、張遼はともかく張郃は隠そうとも思わなかったようで、TEAM蜀所属、諸葛亮配下の内勤事務だと、俺が話してもいない要らんことまでべらべら話したようだった。
 周囲からの追求に、曹丕は旧来からの友人だと突っぱね、甄姫もやはり曹丕の友人だと肯定してそれ以上の詳細を語ろうとはせず、それで却って話が大きくなった。
 そんな中、曹操からあの男を引き抜いて来い等と命令が下ったものだから、半端に手繰られた情報源が錯綜・露出し、妙な大騒ぎへと発展したというのが今回の大まかな筋だったようだ。
 本来であれば、こうも容易く見抜かれるようなヘッドハンティングなど、何の意味もない。ただの嫌がらせにしかならないだろう。俺はそう取った訳だし。
「貴方へ向けられた攻勢の半分以上は、私に対する敵愾心の表れでもあったのですよ。真に申し訳ありませんでした」
 大して申し訳なさそうに詫びると、諸葛亮課長はのほほんと私物である羽扇をはためかせた。
 この寒いのに何をしているのだ、と俺は半ば八つ当たり気味に睨め付ける。
「ということは、今回の実行犯、課長はご存知だと見て間違いない訳ですか」
「間違いないというか、先程申し上げたとおり、私が内々に予想しただけの話です」
 証拠もないし、それを探す手立てもない。
 ただ、探偵というプロフェッショナルを雇用してでも本懐を遂げようとする執念、また回りくどいねちねちとしたやり方に覚えがあったまでのことと、課長はあくまで実行犯の名を明かそうとはせず、それでいて情報の一部をちら見せして俺の興味を引くのを止めようとはしなかった。
 むっとはするものの、この人に敵う見込みはまるでない。
 それこそ、全世界の悪意を敵に回しても負けないのではないかと思わせる人だ。
 俺如きが太刀打ちできる訳がない。
 そう考えると気が抜けた。
 これで全部、纏まるだけ纏まったような気がしたのだ。
 片が付いたらと思っていたが、これでお役御免だろう。
 口を開きかけた俺に、先手を奪るようにして諸葛亮課長が口を開く。
「で、貴方の方は如何でしたか」
 如何とは、と聞き返しかけ、俺は眉間に皺を作った。
「やっぱり、課長の仕業だったんですか」
 俺の問いに、諸葛亮課長は是も否もなく、羽扇をはためかせるのみだった。
 悪びれない様に、俺は軽い眩暈を追加される。
「事の発端があの男だと、よくお分かりになりましたね」
「あの方は、何でも正直に触れ回るご気性らしいですね」
 噛み合っているようないないような、ややこしい会話が続く。
 多少は無視してスルーしないと話が進まないようなので、俺も敢えて黙した。
「……近い内に沈静するようですよ。こちらがこれ以上騒いでも、何にもならないだろうと言ってましたがね」
 諸葛亮課長の笑みが、少しばかり変質した。
 暗い、それはどうだろうと言わんばかりの愉しげな笑みだった。
 少なくとも、ジャブ程度とは言え遣り合ったことに変わりない。
 それも、相手はわざわざ後ろめたくなる手口を使って殴り掛かってきているのだから、それなりに押し込む余地があると踏んでいるのだろうか。
 俺にはよく分からなかったし、どうでもいいことに近かったので言及するのを避けた。
「……怒らないのですか」
「怒りはしませんよ」
 この程度のことで一々怒っていたら、身が持たない。
 俺が勤めていた職業は、ある意味人のエゴやら虚栄心やらがくたくたに煮詰められて腐臭を放っているようなものだった。綺麗事たけではどうしても済まないことも多かったし、済ますのを許さない向きも強かった。
 足の引っ張り合いとは良く言ったもので、何と言うか、清く在るのは悪であるかのような、そんな向かう矛先を持たない妬ましさのようなものが、何に付けあったのだ。
 諸葛亮課長は、俺の内心を探ろうとするかのようにじっと見詰めていたが、やがて口元に微笑を浮かべた。
 呆れたような笑みだった。
「今回は、貴方ばかりが損害を被っていますね」
 損害と言えば損害だが、自業自得といえば自業自得なので別に腹も立たない。
 けれど、同情した諸葛亮課長がせめてもの対価として、張郃が俺を欲した本当の理由を教えてくれると言うなら、耳を貸すのはやぶさかではなかった。
「あくまで、噂の領域を出ない話ですが」
「はぁ」
 もったいぶった言い回しは、最早癖なのではないかとさえ思う。だから、何も突っ込まない。
「TEAM魏のチーフデザイナー、他社からの引き手も切らない張郃殿には、困った癖が二つ程あるそうです」
 あの性格で、それ以上に困った癖があるというのは驚きだ。
 俺が黙って相槌を打つと、諸葛亮課長はこほんと軽く咳払いした。
「……一つは、恋をしないとデザイン意欲が湧かないそうで。ある程度のレベルのものは、苦もなく捻り出すのだそうですよ。ですが、これはという、それこそTEAM魏が威信に掛けて売り出そうというレベルのものは、恋をしないと浮かばないそうです」
 何だか嫌な予感がした。
「もう一つ、これも似たようなものですが……浮かんでくるデザインが、その恋する相手とやらに着せたいデザインなのだそうですね。前回の恋は……二年半程前、でしたでしょうか。その時はTEAM魏の名で、とある賞を受賞した程度でしたが」
「は?」
 程度の話だろうか。
 デザイナーが授与する賞は幾つかあろうが、ベストドレッサー賞やベストジーニスト賞程有名ではないと思う。
 だが、それはあくまで一般にはであって、業界が及ぼされる影響を考えれば『程度』で済むような話ではないだろう。 上手くすれば、流行の先端を担う発信源となるのだ。そこから上がる利益は、並大抵ではあるまい。
 張郃は、口から出任せの嘘を吐いた訳ではなかったのだ。
 あまりにもあまりだと俺は怒って帰ってきてしまった訳だが、張郃の主張は本人としても極真っ当なもので、確かに曹操自らが乗り出して俺を獲得しようとするのも納得が行く。
 了承はし難かったが。
「……まぁ、でも、今日で片が付いた訳ですから……」
 もういいや、と投げ出したくなった。
 張郃は、今日限りの情交で俺を諦めた筈だ。
 抱きたいと願って、抱いて、それで張郃が何を見出したのかは俺には分からないが、とにかく奴の願いは叶って、俺も得たい情報を得、互いに交渉成立で纏まった。
 ならばもう、限良く手拍子で締めてしまいたい。
 疲れた様子を隠さない俺に、諸葛亮課長は手加減してくれなかった。
「本当に、そうですか。あの男が貴方を諦めると、本当にそう言いましたか」
 穏やかな声に反論しようとした俺は、しかし口篭って記憶を反芻せざるを得なかった。
――会わせてくれたら、今貴方が悩んでいることを一つ、解決して差し上げますから。
――会わせてくれたら、貴方がこの事務所に来なくてもいいようにして差し上げます。
――その姿を見せてくれたら、約束を守りましょう。
 言ってない。
 張郃は、俺を諦めると、もうこれきりで良いと、そういう類の台詞を一言たりとも言っていない。
 叫びだしたくなる衝動に駆られ、口元を強く押さえた俺を、諸葛亮課長は如何にも気の毒そうに、けれど完全なる他人事として見ていた。

  

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