の携帯に電話をしても、は出なかった。
電源を落としているのだろう、と張遼は気にもしなかった。
新しく電話を引いた方が良かったかもしれない。携帯では如何にも手元不如意の感が拭えなかった。
帰ってからで構うまい。
我ながら、この落ち着きが不思議だった。
共にある時は、離れていきはしないかとただ不安になる。
抱けば抱くほど遠くに行ってしまうような、不思議なひとだった。
貴女は私の半身だ。
胸の中で呟く言葉は、張遼の中に穏やかな波を放つ。
漣に揺られるがごとく、張遼は穏やかな眠りに着いた。
出張から帰ってきてすぐ、玄関にあるはずのの靴がないことに気がついた。
だが、張遼の中に疑問は欠片もない。
靴のまま上がりこむと、灯りも点けられないままの居間に男が一人立っていた。
月明かりのおかげで、人相の確認に手間取ることはなかった。
甘寧だった。
ならば、は連れ去られたのだろう。
それでも、張遼の胸の内には微塵の動揺もなかった。
不思議だった。
甘寧の目は、薄闇の中でぎらぎらと光を放っているかのようだった。
「……ずいぶん、落ち着いてやがるな。わかってたとでも言うつもりかよ」
「が居らぬのはわかっていた。代わりに招かれざる客が居るのもな。は何処か。返してもらおう」
甘寧の口元が大きく歪む。
反吐が出る、まさしくそういう顔をしていた。
「返せっつわれて返すと思ってんのかよ」
甘寧が何を言おうと、張遼に揺るぎはない。
「は私の妻だ」
婚姻届は既に正式に受理されている。
自分が望み、が応えて結ばれた契約だ。誰に何を言われる筋合いもない。
甘寧の目は、怒りで焦がれるような熱を湛えていた。
許せないか。
それも当然だ。
は、一度は甘寧を選んだ。人に隠れて口付けを交わす二人の姿を、張遼も見ている。
義務のような口付けだと思った。
そうするのが職務の一つだと言うような、おざなりな口付けだと思った。
やっかみだったとは思わない。
は疲れていた。甘寧の求めに応じて受け入れているだけに見えた。
そう、あのひとは。
張遼は、自嘲した。
「……何が可笑しい」
唸るような低い声に、張遼は更に込み上げる笑いを抑えきれずに笑った。
あのひとは。
誰も選んでいない。誰も選ばない。ただ、請われ流され、あるがままに受け入れるだけだ。
だから、縛りたかった。繋ぎ留めたかった。
そうすれば、あのひとは手の中に降りてきてくれる人だったから。
半身だと告げれば頷き、妻だといえば頷き、弱くて、優しくて、ただ純粋に卑怯だ。
「虚しいことよな」
張遼の言葉に、甘寧はぎくりと体を強張らせ、唇を噛んだ。
この男もわかっていたのか。
張遼は、微かに笑った。
どちらかだったら良かったのだ。
あのひとの一生で、己か、この男か、どちらか一人だったら良かったのだ。
そうしたらあのひとはきっと、死ぬまで幸せなつもりになっていられただろう。
どうしても諦めきれず、あのひとがなければ生きていけないと思う愚か者が二人も居るから、あのひとは迷い揺らぐ。
人の業のようなこの関係を断ち切るには、いったいどうしたらいいのだろうか。
誰かが欠ければ。
三つの要素の一つが欠ければ。
半身は、必ず二つで揃いとならなければならない。番がそうであるように。貝の合わせが一対であるように。
では。
「誰が欠ければいい?」
張遼の小さな呟きは、静寂に満ちた部屋の中に大きく響き渡った。
甘寧の部屋で、は小さく縮こまっていた。
酷く心細かった。
甘寧は、夜には戻るからと言ったきり帰ってこない。
時計は既に十時を回っていた。
自殺を図ってから、は甘寧に連れられて甘寧の部屋に来ていた。
やっぱりこうなるのかという苦い気持ちがあった。
けれど、しばらくすると体が勝手に火照って落ち着けなくなった。甘寧にもすぐばれてしまった。
甘寧はもう怒ってはいなかったが、やはり何か腑に落ちないものがあったらしく、意地悪い笑みを浮かべてを見下ろした。
「一人で、しな」
はぱっと顔を赤らめて、うろたえながら立ち上がった。
「どこに行く気だよ……ここでしろっつってんだぜ」
ここで、俺の前で、しな。
見ててやるからと言われて落ち着けるはずがない。
吊り下げられた電灯の紐を引こうとすると、その手を押さえられてしまった。
甘寧の手には、白い包帯が巻かれている。
それ程深くないからといって、消毒と軟膏をすり込んで包帯を巻くだけの手当てしかしていない。それも、甘寧が一人で全部した。慣れているのだと言ったとおり、片手で不自由もなくすいすいと巻いてしまった。
がつけた傷だった。
ぎこちなくしゃがむと、甘寧に見せるように膝を広げた。下着は着けていない。今着ているのも、甘寧から借り受けたTシャツだった。
指をそろそろと這わせると、熱い湿り気を感じる。
掻き分けるようにして指を進ませると、突然指が深く沈んだ。
内壁に爪が食い込む感触に、わずかな痛みを覚えては眉を顰めた。
「……のそこ、狭いからな」
突然甘寧が口を開いた。
「ゆっくり、しな。初めは浅く、周り撫でて」
甘寧の言うままに指を動かすと、緩い悦が込み上げてくる。
「濡れてきただろ? そしたら、指二本、奥まで突っ込みな」
一瞬の躊躇いを見せた後、は甘寧に従って指を二本、揃えて突き込んだ。
痛みと衝撃がを襲う。
がくがくと腰が揺れ、膝が崩れ落ちた。
「……落ち着いてきたら、ゆっくり出し入れしてみな。ゆっくり、ゆっくりだ」
深呼吸を繰り返し、指をそっと引き抜いてまた奥に差し込む。ずるずると濡れた音がした。繰り返している内に、愛液が溢れて腿まで濡れてきた。
「すげぇ、濡れてきただろ? はイヤラシイからな」
甘寧は笑って、ジッパーを下ろした。
「咥えながら、しな。咥えたいだろ? 、口でするの好きだもんな」
言われるがままに甘寧のものを口に含み、指の抜き差しを繰り返す。
口の中で甘寧のものは固く膨れ上がり、ぴくぴくと跳ねた。
甘寧のものは、張遼のものとは色も形も違う。味もまた、微妙に違っていた。
膨れ上がったものを夢中になって舐め続けていると、握った手の中で一際大きくひくつく。
あ、出る。
無意識に口をすぼめてその時に備えている。
口の中で生温い粘つく液が弾け、はそれを飲み干した。
「……ふ、あ……」
記憶をなぞるように指を舐め、吸い上げる。
反対の指は股間に沈み、濡れた膣壁を擦りあげていた。
ぞくぞくする感触に震えるが、やはり物足りない。
男がいないと、駄目だ。
それは甘寧なのだろうか、張遼なのだろうか。
指を引き抜くと、薄く粘る汁に塗れていた。
嫌悪感があった。
洗面台に立って、手を洗った。
石鹸を使い、よく泡立てるのだが、一向に汚れが落ちた気がしない。
何度も洗う。手と手を合わせて強く擦りつける。
次第に皮膚が赤くなってきたが、しかしどうしても綺麗にしたくて、そうしたという満足感が欲しくて何度も擦り洗い上げる。
綺麗にならない。
涙が溢れてきた。
泣きながら手を洗う。
「そんなに洗ったら」
背後から伸びてきた手が、の手首を優しく掴んだ。
「手の皮膚が、剥けてしまう」
その手に包帯はない。
顔を上げ、鏡を見詰める。
泣き濡れたの顔の後ろに、張遼の顔が映っていた。
穏やかに、何処か悲しげに微笑む鏡の中の張遼に、は呆然と目を向ける。
「ただいま戻り申した……さ、貴女も」
家に、戻ろう。
背後から回ってきた手は、の体を容易く包み込んだ。
あぁ、また。
また、繰り返す。
また。
は眩暈を起こし、そのまま失神した。
目を覚ました時、そこは既に張遼の家だった。
見慣れた天井が映る。
「……目を覚まされたか」
何と寝坊な妻だろう、と、張遼にしては珍しくおどけ、をからかった。
横になったまま張遼を見上げるに、張遼はベッドの端に腰掛けての頬を優しく撫でた。
「あれほど言ったのに、食事もろくに取らなかったのだな。倒れた貴女を見て、私がどれだけ心配したかお分かりにならぬか」
倒れていた?
は違和感を感じて考え込んだ。こめかみの辺りが酷く痛んだ。
「連絡が取れないので、心配になって出張を切り上げて戻ったのだが……やはり正解だった。もう少ししっかりしてもらわねば、私はおちおち職務についてもおられぬ」
困った人だと張遼は繰り返す。
早めに戻った。連絡が取れなかった。
何だろう、この違和感は。
「携帯は洗面器に沈めてしまってあるし。携帯は洗ってはいけないと、ショップの人間に説明させなくてはならないのか、貴女は」
腕に抵抗を感じて振り向けば、点滴が繋がっていた。
「……私……?」
「ずっと眠っておられたのだ。覚えておられぬのか」
張遼の口ぶりには、わずかに呆れが滲み出ていた。
「……ずっと……?」
「この状態で何処に行けると。本当に困った方だ、貴女は」
重湯でも作ってこようと、張遼は寝室を出て行った。
「……ずっと……眠っていた……?」
では、甘寧との再会は、甘寧の家に行ったのは、全部夢だったのだろうか。
甘寧を傷つけたことも、許されたことも、すべての願望が見せた夢だったのだろうか。
「…………」
涙が滲んだ。
溢れて、枕に浸み込んだ。
「……甘寧、ごめん、ごめんね……」
起き上がれるようになったら、ちゃんと会いに行こう。謝って、許してくれなくてもいい、とにかく会って、謝って、殴られてもいい、蹴られても、怒鳴られても、ちゃんと謝ろう。
なんて駄目な人間だろう、もっとしっかりしていたら、こんなことにはならなかったはずだ。
会社にもちゃんと行って、ちゃんと退職の手続きをして、それから何もかももう一度考えよう。
傷ついても、傷つけても、もう逃げたらいけない。
苦しいからといって逃げても、何にもならない。立派な人間でもないし、強くもないし勇気もないけれど、ただ流されるこんな生き方は駄目だ。
涙が後から後から流れた。
体の中に巻きつく錆びた鎖が砕けていくのを、は想像した。ばきん、と砕ける音が聞こえた気がした。
ちゃんと、しよう。
冷たく重い体の中で、心臓だけがを励ますようにとくとくと音を立てて脈打っていた。
続