がフロアに入ると、一瞬辺りの喧騒が掻き消えた。
 澱むようなざわめきがから呼吸を奪う。
 吐き気と眩暈がしたが、重い足を掬い上げるようにして前に進む。
 呂蒙がデスクから離れ、の元に歩いてきた。
「別室で話を聞こう」
 の返事も待たず、の肩を押して元来た道を引き返させる。
「か、課長、私は……」
「お前が居ると、皆が落ち着かん」
 切り捨てるような言葉に、は俯き従った。
 同情めいた視線と憤りじみた視線、好奇に満ちた視線が複雑に絡まりあってを捕らえ続けていた。
 陸遜は、ドアの向こうに消えた人影を未練がましく見詰めていたが、溜息を吐いて隣の机を見やる。
 書類の束がうず高く積もれたデスクは甘寧のものだったが、その机の主は今日は未だに姿を見せていなかった。

 呂蒙の目は険しい。
 心の底から怒っているのがよくわかった。
 元々、腹芸など出来る人ではない。それ故に部下の信頼も厚く、公明正大と評価も高い。の能力を高く買ってくれていた、自身も信頼の深い相手だ。
 その呂蒙が、怒っている。
 怒って当然だ、とは涙を堪えた。
「……どうして、何も言わん」
 怒りを抑えて震える声は、の心臓をえぐるようだった。
「俺は、お前に言ったはずだな? もう、こんなことはしてくれるなよ、と。お前は何と答えた。もうしない、もう大丈夫だと言っていたと、俺は記憶していたが。違っているか」
 違わない。
 あの時のは、今度こそちゃんと仕事に専念しようと誓ったのだ。プライベートを仕事に持ち込むまい、そう決めて呂蒙の問いにも答えた。
 そのつもりだった。
「言い訳をするつもりはありません」
「俺は、事実の釈明をしろと言っている」
 呂蒙は、膝に置いた手を強く握り締めた。
「一ヶ月以上無断欠勤した挙句、連絡も取れん、家にも居らん。やっと顔を見せたと思えば事情も説明しないまま退職するという。これでどうやって納得すればいい。他の連中に何と説明しろと言うんだ、お前は!」
 声高に怒鳴られるのは、呂蒙が本当にを案じているからだろう。
 だが、言ったところで理解してもらえるとは到底思えない。
 指先が震えた。
 その時、二人の居る会議室の扉をノックする音がした。
 呂蒙が鍵を開けると、君主・孫堅が立っていた。
「これは……」
 も慌てて椅子から立ち上がり、頭を下げる。
 孫堅はつかつかと中に進み、を座らせると自分はその隣に腰掛けた。
 呂蒙に視線を向けると、呂蒙は溜息を吐いて首を振った。
「……何故、何も言わん?」
 は俯き、唇を噛んだ。
「俺は呂蒙と違って優しくないのでな、正当な理由なしに有能な社員を解雇してやるつもりは毛頭ない。言わねば、お前の退職届けは一切受理させん」
 会社に来ずとも、の銀行口座には毎月決まった金額が振り込まれると孫堅は笑った。
「良かったな、どこぞの悪徳公務員と同じ待遇だぞ」
 にとっては耐え難い侮辱の言葉だった。涙が溢れそうになるのを、必死に堪えた。
「言え、
 ひそりと耳元で囁かれる声は、悪魔の甘言じみていた。
「言わぬなら、言いたくなるようにしてくれる。俺にそんな真似をさせるな、
 穏やかな笑みの中に鋭い切っ先が秘められている。
 言葉とは裏腹に冷たい空気を纏う孫堅に、呂蒙は思わず怯み、脂汗を流した。
 呂蒙ですら黙り込む威圧に、間近に居るが耐えられるはずもなかった。

 ぽつぽつと話を続けていたの唇が閉ざされた。
 個人名は出されなかったものの、男の片方が甘寧であることは明らかだった。そしてもう一人の男の狂気じみた行動に、呂蒙は寒気を感じていた。
 は平凡な女だと思っていた。物静かだが決して人付き合いは悪くなく、多忙にも文句を言わず仕事に専念するような、地味だが捨て難い有能さを兼ね備えていた。
 そのが、何故こんな目に遭っているのか呂蒙には理解できなかった。
 何より、その男との婚姻届を出したという事実に、呂蒙は魂消るほどの衝撃を受けた。
「……取り消せないのか、その……まともな状態ではなかったのだろう、お前は」
 いわゆる心神衰弱だったと証明できれば、そんな届出など無効にできるのではないか。
 だが、は黙って首を振った。
「私は、あの時確かにそうしたいと思って記名しました。……それに、そんなことしたら裁判になります。相手の人に迷惑かかってしまう……」
 それがどうした、とわめきたいのを呂蒙は堪えた。孫堅の鋭い視線に制され、口を閉ざさざるを得なかったのだ。
「……お前は、その男を愛しているのか?」
 単純かつ最基本的な質問を孫堅は問うた。
 愛しているから、かばうのか。
 しかし、はやはり首を振った。
「わかりません。わからないんです。あの人は、私が裁判を起こしたらきっと黙って付き合ってくれます。傷つくかもしれませんが、それでも私のすることだからと付き合ってくれると思います……あの人が悪いのではないのです……ちゃんと選べない、私が悪いんです」
「選んだではないか、お前は甘寧を……!」
 呂蒙が思わず叫ぶと、は疲れたような顔を手で覆ってしまった。
 絶望しているようにも見える。
「……それも、本当は選んでなかったのかもしれない……私、当たり前のように二者択一をしてしまって、でも、本当はそんなんじゃないですよね、二人とも選ばないという選択だってあったはずなんです。ちゃんと選ばなかったのを見抜かれてしまって、結局二人とも傷つけて……だから、私……」
 全部なしにしてしまいたい。
 起きたことをなかったことにはできない。だったら、よりゼロに近い状態に戻す努力はしたい。
 でなければ、もう何もまともに考えられない。
 退職を希望するのはその為だ。
「……甘寧は、甘寧には伝えたのか」
 の決心が絶望に染まって揺るがないのを見ても尚、呂蒙は取りすがった。このまま手離すのは耐え難かった。切り捨てられるようで嫌だったのかもしれない。
 呂蒙とて、を大切に思っていたのだ。
 は暗い目を遠いところに向けた。
「まだ、です。でも、伝えたい、と思っています」
 膝の上に置かれた手が、きゅうっと握り締められる。
 孫堅は、絶妙のタイミングでの肩を叩いた。
 はっとして孫堅を見上げるに、孫堅は微笑みかけた。
「ならば、そちらを先に済ませてしまえ。相手のその男とも甘寧とも上手くいかなかったらどうするつもりだ。お前の年では再就職こそ出来ても、今以上にいい給料を出す企業なぞないぞ。お前の能力を我々以上に評価できる上司もな。何、職場はここ以外にもたんと揃っている、地方でゆっくりするのも手だ。退職すると決める前に、人間関係の整理を先に済ませてしまえ」
「そんな」
 そんな都合のいいことが、許されていいものか。
 先刻の同僚の冷たい視線を覚えている。勝手に休んで、仕事をさぼっていたと思われている。
 客観的にはその通りなのだから文句は言えない。勝手にパニックを起こして逃避して自己を正当化して、最低だ。
 の目が潤む。
「俺が許す」
 孫堅の声は低く、柔らかだった。
「俺が許す、何も問題はない。その上でどうしてもと言うなら退職すればいい。俺の言うことがわかるな?」
 は逡巡しつつ、こくりと頷いた。
「……よし、では、甘寧のところなりその男のところなりに行って来い。お前が嫌なら、婚姻届もな、解消できないというなら別れてしまえ。何、婚姻欄に一つくらいバツがあったとして、そんなことを気にする男はお前の方から振ってやればいい」
 何なら俺がもらってやってもいいぞ、と快活に笑う孫堅に、呂蒙は慌てふためいた。
 は黙って立ち上がり、深々と礼をして退室していった。思い詰めていた顔が少し緩んだのを、呂蒙は最後に盗み見ることが出来た。
 が立ち去ったのを確認した後、呂蒙はおもむろに孫堅を振り返った。
「……有難うございました」
「何のことだ?」
 孫堅は頬杖を突きつつ悪戯っぽい笑みを浮かべ、呂蒙を見返した。
「俺一人では、とてもを説き伏せられなかったでしょう……思い込むと、どうにも頑ななところがありますからな」
「それは、お前がそうあって欲しいと望むからだろう」
 孫堅の言葉に、呂蒙はきょとんとした。意味がわからない。
 軽く艶笑してみせると、孫堅はの立ち去ったドアを見詰めた。
は、水のような女だ。相手の望むままにその姿を転じようとする、また転じてみせる……だからこそ魏での評価は低かった。あそこは自力で成長する人材こそ最良とするTEAMだからな。それ故にの水のような資質は捉え切れずに取りこぼしていたのだろう」
 そう言えば、の評価は魏に居た頃と呉に移った後とでは格段に違う。人事部の上層の方では、何故手放したかと曹操が癇癪を起こしたという噂話があるほどなのだ。
 曹操ほどの男が評価を間違うとはなかなか思い至らない。自身にその理由があったとすれば、なるほど納得もしよう。の周囲に、偶々が触発されるだけの人物が居なかったのだ。
 張遼という人材を得てを手放したという話だが、もしそのままを残していたのなら強力無比なコンビになっていたかもしれない。張遼は社内でも無双のやり手だと聞き及ぶ。を感化させるのに不自由はあるまい。
 だが、は呉に移ることが確定していた。の能力を見出し開花させたのは、孫堅であり呂蒙なのだ。先日も魏からの異動を打診されていたが、呂蒙が独断で蹴っていた。今更何を、と思った。
 話が逸れたな、と孫堅は姿勢を正した。呂蒙もそれに倣う。
「……水は、決してその手には残らん。触れさせるのも掬わせるのも自由にさせるくせに、何処からともなく零れ落ちていってしまう……感触だけ残してな。その感触に魅入られた者は躍起になって掬おうともがくが、水を掬うのに人の手で叶おうはずがない。せいぜい、道具を使って掬い上げ、器越しに水の温度を感じるだけでな。それは渇きを呼ぶだけだろう?」
 はぁ、と呂蒙はわかったようなわからないような要領を得ない返事を漏らす。
「水は決して捕まらん。飲み干そうがその身を浸そうが、それらは結局水を掴むことにはならぬのだ。お前は、渇くまで囚われずに済んで良かったな」
 真に幸い、と孫堅は笑った。
 呂蒙には、孫堅が何を言いたいのか半分も理解できない。ただ、という女は、傍目から見るほどには一筋縄ではいかない女なのだ、と言いたいのだろうとわかる程度だ。
「……水を掴むのに、もっとも有効な方法を知っているか、呂蒙」
 これもまた唐突な問い掛けに、呂蒙は困惑しつつも考え込んだ。
 水を掬うのに、人の手は適さないと言ったばかりだからこれではなかろう。飲み干すのも浸すのも持つことにはならぬ、と言われていた。
「……申し訳ありません」
 わからなかった。
 孫堅は、さも可笑しそうにくつくつと笑った。呂蒙は羞恥を感じ、顔を赤らめた。
「何、恥じ入るようなことではない。とんちに近い愚問故、な」
 ふふ、と孫堅は吐息を零すように笑った。
「凍らせてしまえばいいのだ。それならば、手の中の熱で溶けてしまうまでは持つ。だが……」
 孫堅の眉宇がわずかに曇る。
 呂蒙が気に掛けて問うと、孫堅は苦笑を浮かべた。
「恋と言う奴は厄介なことだと思ったのだ。言葉にすればこれほど軽く、馬鹿馬鹿しくも愚かしい言葉は少なかろうに、な」
 誤魔化されたような気になったが、孫堅が進んで説明しないのであれば、どんなに問い掛けても教えてもらえることではないのだ。長の付き合いで、それくらいはわかる。
 孫堅は憂鬱そうに窓の外を見遣った。
 恐らく、のことを考えているのだろうと呂蒙は察しをつけた。しかし、何故そんな風に気鬱にしているのか、その理由がわからない。
 に温かな言葉をかけたのはつい先程のことで、戻って来いと言い含めて背中を押し、送り出したのは孫堅自身ではないか。
 呂蒙は、謎掛けのような孫堅の言葉を胸の内で諳んじた
――は水のような女。水は人の手で掬い上げることは叶わず。器を通して温度を感じても、それは渇きを呼ぶだけ。水を掴むのに最も有効な手段は、凍らせること。
 やはり、わからない。
 だが、どうしようもなく不安になるのだけは止められなかった。
 孫堅に無理やりでも聞き出したい衝動に駆られるが、無言の孫堅の背からは、それを許してくれる隙は一分も見出せなかった。


  

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