書庫の片隅で、は魂が抜け落ちたかのようにぼんやりと呆けていた。
 張遼はの前に片膝を着くと、の肩に手を伸ばした。
 びくんっ。
 途端、は弾けるようにその手を避けた。
 張遼は苦笑し、傍らにある脚立に手にした服を掛けた。
「そのままでは、帰れますまい」
 着替え、ということらしい。アパレルメーカーだけあって、在庫やサンプルとして常時何枚かの服がある。恐らく、それを持ってきたのだろう。
 は唇を噛み締め、激しい体の震えを堪えた。
 恐怖ではない。
 怒りに近かった。
 姑息だ、と思った。
 着替えがあるから、汚そうが引き裂こうが構わないとでも思ったか。
 座ったまま、は腕を伸ばし張遼の頬を叩いた。
 目測を誤ったか、の指が微かに掛かったのみで、しかし切り揃えた爪でも引っかき傷程度は残せることが出来た。
 張遼は感情の揺らぎすら見せず、静かに蚯蚓腫れに腫れた頬に手を添えた。
「……着替えて下さるか。車で送って差し上げよう」
「けっこうです」
 このまま帰ってやろうかと自棄になっていた。ブラウスもストッキングもずたずたで、スカートには脚立のキャスターに轢かれた跡が幾筋も残っている。
 だが、構ったことではないと思った。
 私は、悪くない。
 私は、何も悪いことなんかしていない。
 したのは、この、ぬけぬけと自分の前に立つ、この……。
 そこまで考えて、の目から大粒の涙が零れた。
 涙は、今まで感じたこともないくらいに熱く、の力を吸い取っていくかのようだった。涙を零すたびに力が抜け、体が重くなる。体の震えが大きくなる。しゃくりあげる声が大きくなる。
「……なんでぇ?」
 何故、自分がこんな目に遭わなくてはいけないのか。
 酷い、と思った。今まで誰に恥じることなく真っ正直に生きてきた。こんな目に遭うほど、悪どいことをしてきた覚えはまったくない。
 なのに、何故こんな目に遭うのだろうか。
 自分の体が、汚物より汚いものに塗れた気がする。汚くて、汚らわしくて、指先に力を篭めて掻きむしった。
「……およしなされ」
 張遼がの手を押さえ、薄っすらと血に塗れた肩や腕を痛々しい目で見つめる。
 は張遼を振り払おうともがき、叶わず、憤るままにくぐもった嗚咽を漏らしてがっくりと俯いた。
「何で……何で、何でぇ? ねぇ、何で……何で……」
 ぼろぼろと零れる涙は、張遼の濃い色のスラックスの膝に、円形の染みを幾つも幾つも作った。
 しかし、張遼は黙ったまま、泣きじゃくるの項を沈痛な面持ちで見つめるのみだった。

 は、黙りこくったまま助手席に座していた。
 着替えこそ自分でしたが、自分のロッカーのドアも開けず、地下駐車場に移動するのも張遼に腕を引かれて行き、シートベルトさえ張遼が装着させた。
 呆けていたは知らなかったのだが、就業時間はとっくに過ぎており、もう夜中と言っていい時間だった。
 大抵何人かは残業で居残っている会社だから、が誰にも顔を合わせず張遼の車に乗れたのは奇跡に近い。
 ひょっとしたら、張遼があざとく機転を利かせたのかもしれなかったが、にはどうでもいいことだった。
 肩口の、自分でつけた傷がひりひりと痛んだ。
 体が汚れていて、消毒する時に熱を伴う痛みを感じるように、それと同じ痛みを感じているようにも思えた。
 じゃあ、少しは、綺麗になってるのかな。
 そんなわけがない。
 体の奥に汚いものをぶちまけられたんだから、内臓の奥から汚されたのだから、綺麗に戻れるわけがない。
 処女ってわけじゃなかったんだから、まだ、マシ、かな。
 初めては、好きな人とだった。
 そうだったろうか。
 頭の中がぐちゃぐちゃで、もう何もかもがどうでも良かった。
 誰も、彼も、みんな、嫌い。
 嫌い。嫌い。嫌い。全部、嫌い。大ッ嫌い。
 だから、
 自分も、
 嫌いだ。
 涙が零れた。

 張遼が車を止めたのは、見知らぬマンションの地下駐車場だった。
「階段で昇るが、よろしいか」
 のシートベルトを外しながら、張遼はそんなことを言った。
 どうでもいい。
 涙が乾いて、の頬に新たな筋を刻んでいた。
 身動ぎ一つしないをどう思ったか、張遼はを抱き上げて車のドアを閉めた。キーレスエントリーシステムの作動する、ガチン、という小さな音がの鼓膜から体の中に響いた。
 鍵が、掛かった。
 単なる思い込みに過ぎなかったが、は自分の何かに鍵が掛かったと思った。
 少しだけ、気持ちが楽になった気がした。
 張遼はエレベーターは使わず、薄暗い階段を登った。一階に出ると、そこはロビーになっており、張遼はやはりエレベーターは使わず、わざわざ外部に備え付けられた非常階段を使って上がる。
 夜の涼しい風がの髪を乱し、を抱きかかえる張遼の熱を殊更に引き立ててに伝えた。
 温かい。
 拒みきれない温もりがあった。
 どうして、この人非常階段なんか上っているんだろう。
 保身の為なのか、とは考えた。
 涙でぐちゃぐちゃになった自分を、誰かに見られるのを嫌ってのことだろうか。
 だったら、エレベーターでさっと上がってしまえばいいことではないだろうか。先程のロビーに人気はなかったし、気のせいでなければエレベーターは一階に着いていたのだから。
 保身の為、という身勝手で言うなら、この労苦はあまりに釣り合わない気がした。壁に打ち込まれたアルミ製の標識によれば、もう8階を通り越した。
 一人を抱えて上りたいと思える階数ではないのではないだろうか。
 結局、張遼は最上階の12階までを抱えたまま上り切った。
 非常階段のドアを開け、一番近くのドアに歩み寄る。
 その時、別の部屋のドアが開いた。
 中から出てきた男は、少し驚き、興味深げに張遼とを盗み見た。
 張遼は体を少し斜めにすることで、を自分の影に隠した。
 顔をすっと上げ、男を睨めつけている。背筋をぴしりと伸ばし、何も臆するところはないようだった。
 男は、エレベーターの中に駆け込んだようだ。空気の漏れるような独特の音の後、ばたついた足音、カチカチとボタンを連打する音が続き、床に漏れていた光は階下に流れていった。
「……申し訳ない」
 何を謝っているのか、には理解できなかった。
 ドアを開けると、張遼はを玄関で降ろした。
 靴のまま玄関マットの上に降ろされ、はぎょっとした。
 張遼はまったく気にしていないようだ。自分は革靴を脱いで上がると、手前のドアを開けて、奥に
入っていく。風呂場のようだった。中から、大きな水音と湯気が見えた。
「すぐに、湯を張ります故」
 そして再びを抱きかかえ、奥に向かう。
 廊下を抜けると、広いリビングに出た。まるで、インテリアショップに設えられた見本のセットのように人の気配のしない、真新しい家具群がそこにあった。
 三人は優に座れる大きなソファにを降ろし、張遼は黒檀のローテーブルとソファの間に正座した。
 は、困惑して張遼を見下ろした。
 まだ靴を履いたままで、幾何学模様を描く絨毯を踏みしめているのだ。張遼に見つめられた状態では脱ぐに脱げず、あからさまに高価な絨毯を汚している安物のパンプスに、は恨めしい視線を向けた。
「許していただこうとは思いませぬ」
 張遼が突然口を開いた。
「私は、貴女が許せませなんだ。どうして、ご自分を大切になされぬのか、と……前の男のことも、私は良くは思っておりませなんだ。決して偏見からでなく……小ずるい、己が保身にのみ尽力する、誇りばかりが高い中身のない男……私は、そう見ておりました。故に、貴女が何故あの男と付き合っておられるか、私にはわかりませなんだ……貴女は貴女なりに、あの男の良さを見つけているのだ、そう思ったからこそ、私は何も申し上げずに今日まで参った……だが」
 張遼の形良い眉が吊り上がる。
「貴女はあの男と別れた。割に、元気にしておられた故、貴女があの男のくだらなさに気が付き、であるからこそお元気なのだと……私は思っておりました。ですが、貴女は、今度はあんな男と、しかも付き合ってもおられぬのに、むざむざその御身を……私は憤った。貴女を傷つけても構わぬ、今すぐこの手にと、愚かしくも思った。結果、私は予想通りに貴女を傷つけた。だが、私は……どうしても、貴女を、許せなかった……」
 何故、貴女は、幸せになろうとして下さらぬのだ。
 張遼の膝の上で、拳がぎちりと鳴った。
 は、唐突な張遼の告白に、ただ飲まれていた。初めて聞くこの長い告解からすれば、引き出せる結論は一つしかなかった。
「……わたし、のこと、……え?」
「お慕いしております」
 即座に答えが返ってきた。
 どうにも古風な言葉だった。
 好き、と言えば簡単なのに、だが張遼らしいとも思った。
「どうして……」
 張遼に好かれる理由など、心当たりがない。
 机を並べていたのは僅かな期間で、はすぐに呉に転属となった。歓迎会と送別会を一緒にやったくらいなのだ。一月居ただろうか。それぐらいの付き合いだ。後は、ほとんど顔も合わせた覚えもない。
「私がここに来た時、私に初めて声を掛けて下さったのは貴女だった」
 は、張遼に机を指し示しながら、会社が変わると大変でしょう、と微笑みかけた。
 ポケットから鍵を取り出し、張遼に差し出して、でも、今日からここが貴方の居場所になるのだから、頑張りましょうね、とまた微笑みかけた。
 鍵はほんのりと温かく、張遼はその柔らかな温もりを愛しく思った。
 たったそれだけだ。
 それだけで、張遼はに恋をした。
「……それだけ……?」
 は呆然とした。到底信じられず、言葉は疑問形で零れた。
 だが、張遼は深く、一度だけ頷いた。
 ここが、は張遼にとってになっていた。
 が居れば、どんなことでも耐えようと思った。耐えられると思った。事実、耐えられた。
 張遼の着任の数日後にの転属が決まり、が誰にも知られないよう人目をはばかり物陰で泣いていたのも見た。皆の前では明るく振舞っていたのも見ていた。自分の送別会だというのに、酔った同僚を気遣ったり、酒や料理が足りてない席はないかと気を配っていたのも目に留めていた。
 離れても、想いは、視線はから離れようとはしなかった。
 幸せであれと、何度願ったかしれない。幸せになるべきひとだと信じ込んでいた。
 いったい、どれくらいの時を、どれくらいの深さで思い続けてきたというのだろう。
 は、ただ呆気にとられて張遼を見つめた。
 風呂が沸いたと、電子音声が告げた。
 張遼はを抱きかかえようと腕を伸ばし、は慌てて背を反らした。
 靴を脱いで、手に持った。
 自分で立った。
 張遼はを見上げ、俯いた。
「……お風呂、じゃあ、借ります」
 張遼も立ち上がり、を先導するように風呂場に向かった。
 流し場に、服を着たままとは言え先に入っていく張遼に驚く。まさか一緒に入るのかと立ち竦んでいると、張遼は剃刀を手にして出て来た。洗面台に置いてある、予備と思しき剃刀も全部取り出した。
 バスタオルとタオルを数本用意して、剃刀を持ったままごゆっくり、と去って行った。は閉ざされた扉を見つめながら、張遼の行動の意図を考えた。
 あぁ。
 手首を切るかもしれないと思われたのか、と思いついた。
 突然の告白に度肝を抜かれて失念してしまったが、は張遼に強姦されたのだ。
 死のうとしたって、おかしくないことなのだ。
 傷ついて、泣き叫んで、もっと気が狂ったみたいになっていて当たり前なのに、強姦した人間のうちで風呂を借りようとしている。
 何してんだろう、私。
 肩口に指を当てると、ぴりぴりと痛む。
 そうだった。
 強姦、されたんだ。
 けれど、の中には何の感情も浮かんでこなかった。
 まるで夢の中の出来事のようにおぼろげで、遠い昔の微かな思い出のように儚げだった。
 真っ黒だった自分の中の負の感情が、霧が晴れるようにぱぁっとどこかに消え失せていた。
 凄い、馬鹿みたい、私。
 あまりにどうしようもない自分に呆然とした。

 風呂から上がると、張遼はキッチンで何かしていた。
 スーツの上着だけを脱ぎ、ワイシャツの袖を捲り上げた張遼の後ろ姿は、不思議と好ましいものに見えた。
 立ち竦むに気付き、張遼は小さな盆に何かを持って戻ってきた。
 ローテーブルに置かれたのは、鍋焼きうどんだった。海老の天ぷらと椎茸、絹さや、長ネギに割り入れられた玉子が乗っていた。
「口に合うかわからぬが、少し何か腹に収められた方が良い」
 赤味がかった黒い木のレンゲと割り箸が添えられている。割り箸は、出前や弁当屋のものではなく、わざわざ買って来たと思しき竹の箸だった。張遼の気性が垣間見えるようだ。
 絨毯敷きに直接座り込んで、は湯気を立てている小鍋の中を見つめた。
「なかったことにしましょう」
 ぽつりと言葉が漏れ出た。うどんの湯気が喉を湿らせて、呼吸を楽にしてくれたからかもしれない。
「これいただいたら私、家に帰ります。それで、なかったことにしましょう。それで、終わりにしましょう」
 明日になったらどうなっているかわからない。この潔い気持ちは掻き消え、好き勝手に体を弄り回されたという恨みや憎しみで荒れ狂うかもしれない。けれど、いやだからこそ、ここで張遼と誓いを立てて、なかったことにしてしまうのが一番いいと思えた。約束することで、きっと醜態を晒さずに済むと思った。
 だのに。
「嫌です」
 張遼は、の膝の上で固く握り締められた手に自分の手を重ねた。温かい手だった。
「何処ぞに訴えて下さっても構わない、詰って下さっても責めて下さっても構わない、けれど、なかったことにするのだけは承服しかねる」
 何だ、それは。
 は思わず鼻で笑い飛ばした。
 張遼にとっては、これほど都合のいい申し出はあるまい。なのに、それだけは嫌だという。わからない。
「……後で、騒いだりしません、よ? 何でしたら、誓約書でも何でも、書きますけど」
「貴女は、約束を違えたりする方ではない。わかっております」
 では、何故だ。
「私は貴女を抱きたくて抱いたのだ。この手に、欲しくてたまらなくなって、力尽くで貴女を奪ったのだ。醜い、許されざる行為だと知っております。だが」
 その醜さも愚かしさも、すべて私の真実。
「なかったことには、出来ぬ」
 今も、たった今も尚、この胸にその想いは、ある。
「なればこそ」
 なかったことになど、到底出来ぬ。
 は張遼の目を見詰めた。張遼も、臆さずの目を見つめ返す。
「……何ですか、それ」
 張遼は答えない。の手を、強く握りこんだ。
「今も、そうなんですか。私を、抱きたい?」
 しばらく沈黙が落ちた。
 やがて、重々しく開かれた口から短い言葉が漏れた。
「はい」
 言葉に迷いはなかった。大切な宝物を、幾重にも封印された箱から取り出すような恭しさのみが
あった。
「じゃあ」
 の声には色がない。声が勝手に紡がれているような、不可思議な危うさがあった。事実そうだったのかもしれない。
「じゃあ、そうして下さい」
 張遼はを見つめた。の胸の内を推し量っているようにも見えた。
 は、張遼に向けていた視線をすっと落とした。
 それが合図のようだった。
 張遼はの手から手を離し、代わりに膝を進めての背中に手を回した。
 強く抱きこまれて、は弓形に背を反らす。
 離れないように、張遼の背に手を回した。
「お会いしてからこの方、貴女をずっと想ってきた」
 告白。
「愛している」
 大袈裟な言葉だと思った。張遼らしい、真実の重みで押し潰されそうな言葉だった。
 は微かに頷いて、確かに張遼の言葉を受け取ったと告げた。
 張遼は僅かに身を離し、に口付けた。
 柔らかな口付けは、徐々に熱を帯びた深いものに変化し、舌を触れ合わせ、互いの吐息を重ねていく。
 の頬が薔薇色に染まり、閉じていた目がおずおずと開くと、張遼を映した。
 力の抜けたを抱き上げ、張遼はリビングを出て一つの扉を押し開ける。
 ベッドが一つ、置いてあった。
「堪えきれなくなった」
 淡々と語る張遼は、普段と何ら変わるところがなく、は少し戸惑った。
 張遼はに口付けを落とし、ベッドに向かう。
「貴女への気持ちは、私にも手に余る。だからこそ、秘めてきた。……今宵は、もう抑えられぬ」
 嫌だと仰られても、抱かせていただく。
 ベッドのスプリングに軽く体を揺すられながら、は張遼の言葉を黙って聞いていた。
「……嫌って、さっきの時も言いました」
「仰っておられましたな」
「止めて、くれませんでした」
「止めませんでしたな」
 張遼はの上に覆いかぶさるようにして見下ろしながら、微かに笑った。
「否、止められなかった。貴女を滅茶苦茶に傷つけてしまいたい、ずっとそう願っていた」
 口付けられて、は目を閉じ、張遼の背に腕を回した。
「貴女を、私の物にする」
 ただ、頷いて返した。


  

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