遠くで鍵が開けられる音がする。
 はびくりとして顔を上げた。
 重い鎖がじゃらりと鳴った。
 元々、あまり家具のないリビングだった。
 今は壁際に追いやられてしまったリビングセットが、まるで撮影現場にいるかのような現実味のなさを醸し出す。
 傷一つなかったフローリングの真ん真ん中に、無骨なボルトが打ち込まれた鎖留めのフック、そこから大型肉食獣にでも使うのかと言う極太の鎖が伸び、の首に繋がっている。
 手足を拘束されたわけではないのだが、首に巻かれたやはり極太の首輪は、どんなにが足掻こうと外すことは叶わなかった。
 身を隠す術すらない。
 それどころか、服は剥ぎ取られ、ほぼ裸身の体を隠す布一枚も与えられてはいなかった。
 足音が近付いてくる。
 は恐怖に強張った顔で、じっと扉を見詰めた。
 開かなければいい。
 念じた瞬間、を嘲笑するかのように扉が開く。
 スーツ姿の張遼が立っていた。
「大人しくしておられたか」
 の傍らに屈みこむのを、身を捻って目を逸らす。
 張遼のごつい指がの顎に掛かり、無言で引き戻した。
「食事を取られていないようだが。お気に召さなんだか」
 脇に置かれた黒の角盆には、牛乳やオレンジジュース、麦茶のボトルの他に、ラップに掛けられたサンドイッチやサラダ、ヨーグルトなどが彩り良く並んでいる。
「トイレも。お体の具合でもよろしくないのか」
 の顔が、そこで初めて引き攣る。
 張遼の視線の先には、簡易型のトイレが置かれている。
「……トイレ、行かせて下さい」
「それならば、そこに」
 張遼の言葉に、の喉から甲高い悲鳴が上がる。枯れ果てたと思った涙が零れ、気が触れたように頭を掻き毟った。
 張遼はそっとの手を戒め、易々と封じてしまう。
「仕方のない方だ、では、お連れしよう」
 フックの鍵を外し、鎖を片手に巻きつけての体を抱き上げる。
 しゃくり上げるをそのまま運ぶと、扉を開けて便座に座らせる。
「……戸を」
 立ち去ろうとはしない張遼に、の声が震える。
「それはならぬ」
「じゃあ、せめて、出てって下さい……!」
 の下腹は張っているように膨らんでいて、長い時間排泄を耐えていたことを伺わせた。
 張遼は、当たり前のようにの足の間に手を伸ばし、刺激を加えて排泄を促した。
「いやっ!!!」
 の悲鳴が個室の壁に反射し、刺激に耐え切れず排泄される音と共に絶望して泣き喚く声が尾を引いて響いた。

 毎日、少しずつ人としての自分が損なわれていく。
 目を覚ましたが辺りを見回すと、そこは張遼のマンションのリビングだった。
 家具は端に追いやられ、自分は裸で、飼い犬のように鎖に繋がれていることを知った。
 現実味がなさ過ぎて茫然自失としているを、張遼は何の感慨もなく見下ろしていた。
 貴女が畜生に落ちたと言うなら、私も貴女を畜生として扱うまでのこと。
 そう言った張遼の目は静かで深く、は夢でも見ているのかと思った……思いたかった。
 けれど、身に纏うものとして唯一残された黒のレースのガーターベルトが、これは現実であると如実に物語っていた。
 それだけはとても似合っておられたから、だから残したのだと張遼は言った。
 張遼に見せたくて買ったものではない。
 外そうとして、けれど何の役にも立たないそれを外すことが異様に躊躇われて、結果ガーターベルトは未だにの腰に巻かれたままでいる。
 食事も与えられ、夜寝る時には毛布も与えられる。
 けれど、人としての最低の条件は剥奪されていた。
 外に出ることは勿論、まともにトイレに行くことも許されない。風呂も張遼と共に入るのだ。と言って、張遼が服を脱ぐことはない。飼い犬を洗うように袖まくりをした張遼が、びしょびしょになりながらを洗い風呂に漬ける。
 張遼は、自分の宣言した言葉を正しく実行していた。
 畜生、つまり獣扱いだ。
 人としての尊厳を捨てたなら、は主人にとても可愛がられている獣として、穏やかに幸せに暮らしていると言っていいだろう。
 けれど、は人であって獣ではない。
 諦めと絶望に打ちのめされても、未だ人として這い上がろうと足掻く気力があった。
 何にもならない、むしろ捨ててしまえばいいと思っても、どうしても捨てきれずにいる生きようとする希望だった。
 コレと同じ。
 は、腰に着けたガーターベルトを見下ろした。
 体を隠すこともできない、かなぐり捨ててしまえばいいのに、何故かそれもできない。
 甘寧。
 涙が滲んだ。
 心配していると思う。それどころか、きっと怒り狂ってを探しているに違いない。
 ごめんね、甘寧。
 就職が決まったばかりで落ち着かないはずだ。覚えることが山のようにあって、だからが色々と教えてやろうと思っていたのだ。
 ごめん。
 トイレから出てすぐ風呂に入れられ、生乾きの髪がはらりと落ちる。
 鎖は元の通りに繋がれ、はリビングの真ん中でしどけなく膝を崩して座っていた。
 張遼が戻ってきた。
 自分も風呂に入ったのか、髪は濡れてスーツも着替えていた。
 とは言え、固い襟のシャツにスラックスという出で立ちは、ネクタイをしていないというだけでスーツ姿とそれほど変わりはない。
 張遼は、焦点を無くした目で自分を見上げるに気付き、近付いて来る。
「すぐ、食事の支度をしよう。貴女はしばし、楽しまれているが良かろう」
 の肩が跳ね上がり、張遼の元から逃げようとして転倒する。
 横倒しになった足を捉えられ、引き摺るようにして戻されると、張遼の手には禍々しい色の器具が握られていた。
「イヤ、嫌です、やめて……!」
 張遼は無言のまま、の膣の中にそれを突き込む。
 小さなそれは、呆気ないほどの中に納まった。
 異物の感触にの眉が顰められる。
 張遼が手にしたスイッチから、かちりと小さな音が上がった。
「やだぁっ!!」
 小さな悲鳴が上がり、の体に力が入る。モーター音が音のない部屋に微かに響き、が責められていることを示していた。
 張遼はそのままキッチンに向かい、かちゃかちゃと食器や調理器具を扱う音が聞こえてきた。
 現実の中の非現実に、は神経を焼かれて身悶えた。

 拘束されてから何日経ったのか、には判然としない。
 ひょっとしたら数日かもしれないし、数ヶ月、それとも数年経ってしまったかもしれない。
 時計もない、テレビもないリビングで、は一人裸のままで座しているだけだった。
 張遼の用意する食事を摂り、張遼の為すがままに身を任せる。
 反抗する気は失せてしまった。
 張遼のマンションはいつも物音一つ聞こえてくることもなく、は時間に見放されてしまったような感覚になっていた。
 朝は来る、そして夜も来る。
 けれど、それらはには何の変化ももたらさない。
 ただ、広いリビングの真ん中に鎖で留め置かれるだけだった。
 張遼はに器具の慰めを与えることはあったが、自ら抱こうとは決してしなかった。
 彼にとっては大事な飼い犬であり、誠心誠意を篭めて世話することはあっても、抱こうという衝動を持ち合わすことはできないのかもしれない、と思い始めた。
 飼われている。
 は自分の立場をそう理解し始めていた。
 そうなると今度は、学生時代の思い出も就職活動した記憶も、何もかもが夢だったのではないかと思い始めた。
 自分は人でなどなく張遼に拾われた犬か何かで、こうして見える腕も足も、本当は毛に覆われた四足獣なのではないかと思えた。
 自分の輪郭が酷く曖昧でぼやけていた。
 何にせよ、自分が今こうして飼われていることに違いはない。
 遠くで鍵が開けられる音がする。
 は、視線だけをのろのろとそちらに向けた。
 足音が近付いてくる。
 どうせ張遼だ。
 扉が開く。
 スーツ姿の張遼が立っていた。
 犬のように舌を出し、嬉しそうに立ち上がった方がいいだろうか。
 何の気概もなく、ごろりと横たわったままで張遼を見上げる。
 生きながら腐っていくかのようだ。
 張遼の手が伸び、首にかかる。
 じゃら、と鎖が鳴った。
 違和感を感じて指を首元に這わせれば、首輪はそのままだったけれど、重い鎖は外されていた。
 張遼は、空になった食器を盆ごとキッチンに運んでいく。
 ぺたりと座り込んだの口元に、何時の間にかスプーンが差し出されていた。
 暖かいシチューが口の中に注ぎ込まれる。
「良く噛んで食べられよ」
 言われるがままに咀嚼すると、にんじんの甘いような青臭いような味が広がる。
 飲み込むと、もう一さじのシチューが運ばれ、は口を開けて受け止めた。
 張遼の口元が緩やかな弧を描く。
 しばらく同じような遣り取りが続いた。
「……もうよろしいのか」
 こくりと頷くと、張遼は笑みを浮かべた。ここに連れて来られてから初めて見る、笑みと言っていい笑みだった。
 口元を濡れた布で拭われ、湿った感触には眉を寄せた。
「これを」
 張遼の差し出す手に、布を畳んだものが何枚か握られている。
 何だか良くわからず首を傾げると、張遼は布の一枚を広げ、に被せる。
 頬や額にずるずると布が擦れる感触があり、不快感に顔が顰められる。
 気が付くと、の上半身は布で覆われていた。
 張遼はもう一枚の布を手に取ると、ふと気が付いたようにのガーターベルトに指を伸ばす。
 ホックが外され、浮き上がる感触には悲鳴を上げた。
「嫌!」
 突然我に返る。
 張遼は鎖を外し、に服を着せようとしていた。
 当たり前のことがわからなくなっている。
 壊れていく自分に恐怖して、は立ち上がり、リビングを飛び出した。
 自由に動ける、しかし、着せられていたのは上だけで、下は裸のままだ。
 外に飛び出すことはできず、はトイレの中に駆け込み、鍵を掛けた。
 心臓が忙しく鼓動を奏でる。煩くて、気が狂いそうだ。または、喉から吐き出してしまいそうだ。
 嘔吐感がこみ上げ、は食べたばかりのシチューをすべて戻した。
 胃の中が空になり、胃液も吐き出してしまうと、は壁にもたれてずるずると崩れ落ちた。
 腰の辺りに手をやると、ずっと着けていたガーターベルトがない。
 喪失感があった。
 ベルトを着けていた位置を何度も撫で摩る。擦れて荒れた肌の感触しかなかった。
 ドアがノックされる。
 ぎくりと体を強張らせると、外から張遼の声がした。
「ここに、残りの着替えを置いておく。貴女の鞄も一緒だ」
 張遼の気配が消え、扉の外には誰も居ないようだった。
 騙されるものか、とは身を強張らせたまま、じっと外を伺う。
 何の物音もしない。
 けれど、騙されまい、とは暗がりに身を潜めていた。

 張遼は、リビングの真ん中に座っていた。
 ちょうどが囚われていた辺りだった。
 膝を立て、ぼんやりと虚空を見詰めている。
 がそうしていたのと同じようだった。
 開け放たれたドアに手を付き、は張遼を見詰めていた。
 月は見えなかったが、部屋の中は明るかった。
「帰りなされ」
 張遼はを振り返りもせずに呟いた。
「この一ヶ月、貴女を捕えてきた。もう充分。お帰りなされ」
 何がどう充分なのか、には理解できなかった。
 だが、青い月明かりに浮かび上がる張遼の横顔は、決して満足したようには見えなかった。
「あなたのしたことは、…………」
 どう続けていいのかにもわからない。そのまま口篭って俯いた。
 の代わりに、張遼が続けた。
「何にもならぬ、愚行です。警察なり何なり、したいようになさるが良かろう」
 自棄になっているとも思えない、静かな声で張遼は呟く。
 静かな、低い、染みるような熱を含む声だ。
 の目から、涙が落ちた。
「何故、抱かなかったんです」
 飼い犬だったからか。
 どうしても、何故かどうしても確認せずにはおられなかった。
「私にとて、ろくでもない見栄がある」
 張遼の声に、焦燥に似た色が浮かぶ。
「……振り向いてもくれぬ想い人を、どうして抱けようか」
 一度は確かに腕に抱いたからこそ、どうにもその温度差は耐えがたかったのだろう。
 滅茶苦茶にしたかったのは、それでもすがってくれると信じたからこそで、拒絶されるためではない。
 受け入れて欲しい。それが叶わぬのなら、全ては無意味なのだ。
 きり、ときしむ音がした。
 張遼が、歯を噛み締めているのだろう。
 噛み締めて、何を耐えているのか。
「……帰りなされ」
 の足元に、黒っぽい何かが投げられた。財布だった。
「ここを出て、まっすぐ行けば直に大通りに出る。そこなら、タクシーも捕まりやすい。お帰りなされ」
 は張遼の財布を拾い上げた。
 張遼の目に動揺が走る。
 隣に、が座っていた。
「ここに居ます」
 だって、まだ首輪が残っているから。
 それが言い訳に過ぎないことを、誰より自身がわかっていた。
 けれど、張遼の側を離れられなかった。
 ほんの少しだけ開いた距離は互いの熱と存在を伝えていた。
 そしてどこまでも遠かった。


  

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