結婚を届け出る用紙は薄っぺらで、ちゃちなものだった。
 は自分の分の必要事項を書き込むと、最後に判を押した。
 会社で取り扱っている書類の方が、まだ数段複雑な気がした。
 書類を見詰めているの背後から張遼の指が伸び、婚姻の届出書を摘み上げた。
「これを出してしまえば、貴女は私のものになる」
 ぱさ、とローテーブルに投げ出す。
「こんなちゃちな紙切れが、鎖になって貴女を縛ることになる……よろしいですな」
 いいも悪いもない。
 そうしたいと言ったのは張遼で、はそれに従いたいと望んだ。
 ただそれだけのことだ。
「明日から一週間、出張に行かねばならない。行く前に役所に立ち寄り、これを出しておこう。それで、貴女は私のものだ」
 背後から抱きしめてくる腕に、自分の手を重ねては笑った。
 張遼の唇に自分から口付け、は身を反して張遼に圧し掛かる。
 腰に跨ぐように乗り上げ、揺すると、張遼の雄が布の下で反応を返してきた。
 くすりと笑うと、張遼も薄い笑みを浮かべる。
「しょうのない方だ。毎晩のように強請られて」
 そういう風に染められてしまったのだから仕方がない。そういう風に躾けたのは張遼なのだ。
 昔は、セックスなんて嫌いだった。
 痛いばかりで感じることもなかった。
 変えてしまったのは張遼で―――それから、甘寧だった。
「痛くされるのが、貴女の好み」
 張遼は笑うと、の手をネクタイで縛り上げた。
「支配されるのが、貴女の愉悦」
 仰向けに倒され、片足を高々と掲げられる。
「……本当に、しょうのない方だ」
 探られた秘部は、既に潤い音を立てるほどだった。
 張遼は己のものを取り出すと、ゆっくりとの中に沈めていく。
 熱く、固く張り詰めた昂ぶりに、の喉がごくりと鳴った。
「美味い、と?」
 笑いながら張遼はを見下ろす。
 食事なのだから、美味しくいただくに越したことはないと思う。
 事実、張遼のものはにとってたまらなく美味なのだ。
 頷き返し、張遼を見上げる。
「もっと下さい……いっぱいにして……」
 声を抑えることも、もうない。感じるままに声を上げ、して欲しいと思うことを思うままに強請り、はただ張遼を貪っていた。
 今は、セックスをしている時が一番幸せだと思った。

 張遼が出かけ間際に何か言っていたが、は半分眠っていたので聞いていなかった。
 食事だけは取るように、とか何とか言っていたような気もする。夜には電話を入れるとも言っていたような気がする。
 は、けだるく起き上がると、シャワーを浴びた。
 時間は既に昼近い。
 ローテーブルの上に食事の支度がしてあったが、食欲はなかった。
 寝室に戻ると、仕舞ってあったローターやバイブを取り出し、オナニーをした。
 何をどうしても張遼に与えられる快楽とは程遠く、はベッドの上に座り込んで溜息を吐いた。
 一週間も張遼と離れていなければならない。
 元々忙しいと知っていたのだから、我慢しなければとは頭を振った。
 ずっと真面目に勤め上げていたのに、張遼に捕らえられてすべてふいにしてしまった。
 そのことに後悔がないといえば嘘になる。
 けれど、張遼に愛されることに比べれば、それらは些細なことに思えた。
 信頼してくれていた人達を裏切ってしまったことには胸が痛んだが、だがもう取り返しはつかない。
 張遼に捕らえられた生活は甘美で、何より楽だった。
 何も考えなくていい。
 何も決めなくていい。
 すべて張遼に託し、張遼のいいようにすればいいのだ。
 人間としてはかなり駄目だろう。思考の放棄以外の何物でもない。
 けれど、もう疲れてしまったのだ。
 考えて決めたつもりのことは、張遼にあっさりと踏み躙られてしまった。それは正しくない、間違っていると決め付けられ、捕らえられ、そうされてもまた、あっさりと間違いだったと認めてしまった。
 帰っていいと解放されても、張遼の元に留まることを選んでしまった。
 これが甘寧だったらどうだろうか。張遼を選んだ自分を捕らえて閉じ込めたりするだろうか。
 きっとしなかっただろう。
 根拠はない。
 甘寧には、張遼のような狂おしい激情はない気がしていた。明るく、乱雑で、それでいて優しい気質の男だったから、憤りはしてもいつかは許してくれるだろうと思えた。
 携帯は、張遼に電話をしたあの日から電源を落として仕舞い込んだままになっている。
 甘寧に別れを告げた方がいいだろうか。
 きちんとした方が、いいだろうか。
 だが、きちんとしようとして張遼に電話して、連れ去られたのだ。
 甘寧はきっとそんなことはしない。
 けれど、もしされたらどうしようという恐怖が付きまとっていた。
 甘寧に攫われて、閉じ込められて、張遼を忘れると誓って。
 堂々巡りだ。終りも見えない。
 甘寧はそんなことはしない。
 優しい人だから。
 だが、もう終りにしたかった。決められずにふらふらするのは辛かった。決めたつもりのことをひっくり返されるのも、もう御免だった。
 鞄から携帯電話を取り出すと、風呂場に向かう。
 洗面器いっぱいに水を張り、携帯を落とした。
 じょぽん、という重苦しい音と共に携帯は沈んだ。
 これでいい。
 これで、張遼の居ない一週間、心が揺らいで甘寧に連絡を取ろうという気になっても大丈夫だ。
 張遼のマンションには電話はなかった。
 外に出ようにも鍵もない。
 だから、は安心してこのスペースに閉じこもっていられることができる。
 張遼と共に居た間、誰も訪ねてこなかった。
 静かな、閉ざされた空間ではただまどろんでいればいい。

 張遼が帰ってきたら、何をすればいいか聞こう。
 彼は私の夫で、私は彼の妻なのだから。
 私のすることは、すべて彼が決めてくれる。
 私は、彼の持ち物なのだ。

 そう決めてしまうと、心が軽くなった。
 間違っているとかいないとか、もう考えるのは疲れてしまった。
 考えなくて済むなら、それでいい。
 気が向いて、ベランダに出てみる。
 のマンションのそれとは違い、広くて柵も美麗な装飾の施されたデザインだった。
 物干し竿の一本も置いてない、だだっ広いただ空いているだけのスペースだ。
 張遼は洗濯はどうしているのだろう。全部クリーニングに出しているのだろうか。
 下着も?
 ビニールに包まれた下着を想像すると、何だか可笑しくなった。
 転落防止用なのだろう、高い手すりに手をかけ、何気なく下を覗いた。

 運命と言うくだらない物があるなら、はこの時ほどそれを呪いたいと思ったことはない。

 向かい側のマンション、張遼のマンションよりは幾分か低いそのマンションの廊下に、こちらを見上げて立ちすくんでいる人が居る。
 甘寧だった。
 二人はしばらく呆然として、互いの姿を見詰めあった。
 甘寧の口が、小さく動いた気がする。
 、と動いたように見えた。
 弾かれたように室内に逃げ戻り、窓に鍵をかけカーテンを閉める。
 全身が痙攣したように戦慄いて、はずるずるとその場にへたりこんだ。
 何故、どうして、こんなことになってしまうのだ。
 意味もわからない涙が込み上げ、はがちがちと歯を鳴らした。
 もう遅い。自分はもう、張遼の物になったのだ。
 けれど、あんな薄い紙切れが自分をちゃんと支えてくれるのか、は脅えた。
 支えてくれなくては、困る。張遼は居ないのだ。
 ピン・ポーン……。
 インターフォンが来客の訪問を告げる電子音をかき鳴らした。
 はぎくりと体を強張らせ、音を鳴らす源の存在を探す。
 ピン・ポーン……。
 しばらくして、また電子音が響き渡る。
 キッチンの方からのようだった。
 ピン・ポーン……。
 同じ音が同じ間隔で鳴り響く。
 心臓が破裂しそうだった。
 ピン・ポーン……。
 キッチンにある冷蔵庫の脇に受話器があった。
 モニターも着いている。
 ピン・ポーン……。
 甘寧が、無表情に立っていた。
 背景からして、廊下に立っているものらしい。
 ピン・ポーン……。
 このマンションはオートロックだと思った。
 微かな記憶だが、それなら甘寧はどうやって中に入ってきたのだろう。
 ピン・ポーン……。
 気が狂いそうだ。
 震える手で受話器を取り上げる。

 甘寧の声が、の名を呼ぶ。
 かつての優しい、愛しげな熱の篭った声ではなく、無表情に相応しい色を失くした声だった。
『開けろ』
 ひく、と喉がヒクついた。
 初めて聞く声だった。懇願でも囁きでもない、紛れもない完全な『命令』に、は心の底から脅えた。
 開けてはいけない、開けたら何をされるかわからない。
 折角決めて、やっと安堵した気持ちをまたずたずたにされる。
 怖い、だから開けられない。
 伝えようと思って口を開くが、言葉が声に転じてくれなかった。

 がんっ!!!

 凄まじい音が受話器にあてた耳と反対側の耳を同時に襲った。
『開けろ、
 でなけりゃ、ぶち破る。
 甘寧の声は淡々として、とても今さっき力いっぱいドアを蹴り上げた男の声には思えない。
 がたがたと震える手で受話器を戻そうとするが、震えて上手くいかない。

 がんっ!!!

 再び低く鋭い音が響き、は悲鳴を上げた。
 もつれる足で、壁伝いに手を突きながら玄関に向かう。
 震える指で鍵を開け、小さくドアを開ける。隙間から見える範囲に、人影はない。
 がし、と小さな衝撃がドアを揺らし、見上げた先に人の指がドアを掴んでいるのが見えた。
 よろけ、後退ると、ドアの隙間から甘寧がするりと滑り込んでくる。
 後ろ手に素早く鍵をかけ、に腕を伸ばしてくる。
 が逃げようと身を翻すより早く、甘寧はを捕らえてしまった。
 捕らわれてしまった。
 また。
 また、繰り返す。
 呆然として力の抜けたを小脇に抱えると、甘寧は大股で室内に入り込み、何かを探すようにあちこちをうろうろする。
「……誰も、いねぇのか」
 初めて吐露された感情は、苛立ちに満ちていた。
 をソファに投げ下ろし、膝を乗り上げて見下ろす。
「誰もいねぇのかって訊いてんだよ」
 慌てて首を横に振ると、今度は『何時帰ってくる』と問われた。
「い……一週間、後……」
 口がまわらないのを必死に律して答えると、甘寧は憎々しげにを睨めつける。
「……何してやがった」
 甘寧の指がの襟元を締め上げ、勢い良く左右に開く。
 裸に張遼のワイシャツを纏っていただけのは、甘寧の前に裸体を晒すことになる。
「……決まってるわな、男に犯られてひぃひい言ってたんだろうけどよ」
 乳房を鷲掴みされて、は悲鳴を上げた。
 皮膚に甘寧の指が食い込む。柔らかい肉といっても、限界がある。爪が皮膚を食い破り、は痛みに眉を顰めた。
「……俺が……」
 低い恫喝の声が、不意に揺らいだ。
「……俺がどれだけ探したと……どんだけ、お前のこと心配してたと……」
 の顔に、甘寧の涙が雨のように落ちてくる。
 冷たく、また熱い感触はまるで力いっぱい殴られているかのようだった。
 わたし。
 なにを。
 突然夢から覚醒したように、は目を見開いた。
 後悔が、腹の奥底から湧き上がるように込み上げる。
 わたし、なにを。何を。して。
「……っあ、あぁ、やだぁっ!!!」
 叫び声には恐怖が満ちていた。
 怯んだ甘寧を押し退け、はキッチンに飛び込んだ。
 わたし、何して、いったい何考えて、私、わたし、わたし、は……!
 整然としたシステムキッチンの扉を片っ端から開けて、扉側に差し込まれた柄を抜き取る。
 逆手に握り締め、胸に突き立てようとした瞬間、強烈な力に抑え込まれた。
「何してんだ、馬鹿!」
 振り払おうと力いっぱい暴れる。
 どうしてもこれを自分の胸に突き立てなければならない。
 義務めいた衝動がを突き動かしていた。
「……この、馬鹿!!」
 甘寧の手がの手に握り締められていた柳刃包丁を弾き、それは宙を滑り壁に当たって床に突き立った。
 違う、床じゃなくて、それは、私の胸に。
 が未練がましく指を伸ばすのを、甘寧が引きずり戻す。
 押し倒され、それでも這いずって前進するを掴む他人の手が、鮮烈な朱の模様に彩られているのが見えた。
「あ」
 力が抜けた。
 上に乗り上げた甘寧から、安堵の溜息が漏れる。
「……この馬鹿……どこまで、手間かけさせりゃ……気が済むんだよ……」
 甘寧の息が上がっている。
 死にたかったの。
 私、今、どうしても、死ななくちゃいけなかったの。
「……ぅ、ぐ……っ……」
 涙が堰を切って溢れた。
 私は、馬鹿だ。裏切って、裏切って、裏切りまくって、逃げているだけだ。
 死んだ方が良かった。
 その方が楽だから。
「……ご、め……ごめ、なさ……ごめ……」
 泣きじゃくるに甘寧は困惑し、ただ抱きしめた。


  

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