『策兄様、御願いがあるの。
 ちょっと蜀まで、来て。』

「…って言われてもよぉ…」

紙に流れる孫尚香の文字を、二、三度繰り返し眺めてから、孫策は真っ白とは言えない程度に白い其の紙を、卓の上に放った。
無論、手紙の内容は此れだけではない。
だが、書かれているのは御決まりの挨拶やら、孫策達の身体を心配している事、…孫策が最も知りたい、『何故』蜀に来て欲しいかと言う事には、全く触れられていない。

『大した事じゃないから、策兄様が忙しくなければ良いの。
 策兄様が来れなければ、誰か代わりの人を…っていうのも必要ないから。』

「大した用事じゃないって言ってもなぁ…」

手紙の続きには、そう、書いてあった。
しかし、態々手紙を送り付けてくる位だ。
孫尚香だって、今の自分の立場を十分理解している筈。
同盟しているとは言え、何時崩れるかも判らない結び付き。
だと言うのに、其れでも孫策を呼んでいるのだ。
大した事ではないと手紙では言っていても、何か、重大事なのかも知れない。

「――だーもう、しゃぁねぇな!!訳判んねぇなら行くしかねぇだろ!!」

頭をがしがしと掻き、行儀悪く卓の上に上げていた脚を下ろすと、孫策は椅子を蹴倒さん勢いで立ち上がり、善は急げと旅支度を始める。
元々暇さえあればふらふらと何処かへ行く習性のある孫策、用意などあっさりと出来てしまう。

「どうせ暫く戦もねぇしな。執務執務って、権も周瑜も煩かったしよ」

内政が主となるこの時期、孫策にも多くの仕事が回って来ていた。
戦が終わり、城全体が落ち着いた最初の頃こそ少しは手を付けていたものの、今では専ら目についた人間に無理矢理押し付けてやらせている。
書簡やら何やらが積み重なった机のある、孫策の執務室には今誰が居ただろう。

――がらっ

「おう、呂蒙か」

最低限の荷物を纏めた袋を肩に担ぎ上げた孫策が己の執務室の戸を開くと、所狭しと机に積み重ねられた色々なものの向こうに、辛うじて呂蒙の姿が見受けられた。
呂蒙はぐったりとした顔で、しかし其れでも筆の動きは止めずに孫策に視線を合わせる。

「…何方が連れて来たと思ってるんですか、此所に」

忘れてた、とでも言わんばかりの孫策の言葉に、最早怒る気力もない、魂すら抜け出そうな溜息を呂蒙が吐く。
実際忘れていたのだが、其の事実を伝えるには、呂蒙には酷過ぎた。

「はははっ、悪ぃ!でよ、俺、尚香に呼ばれたから暫く蜀まで行って来るわ。権とか周瑜には煩ぇから言わねぇで行くけど、伝えといてくれよな!!」
「…は!?しょ、蜀!?」
「じゃ、頼んだぜっ!!」
「ちょ、ちょ…!!!」

ぱくぱくと口を開いては閉じる呂蒙の顔を一瞬だけ見遣った後、孫策は厩へと駆け出した。
一番相性の良い馬を連れ出して、跨る。

「けどよ、尚香…。『ちょっと蜀まで』って言うには、豪く距離離れてねぇか?」

ま、良いけどよ!と誰に言うでもなく声を出すと、馬に意思を伝えて走らせる。
建業から、益州が成都。
どの位の時間が掛かるだろうか。

――まぁ、旅気分で適当に楽しみながら行くか

名指しで来ている位なのだから、行かない訳には行かない。
だが、代理は要らないと言う位だ、緊急でもなさそうだ。
其の内着けば良いだろう、と言った気楽さで以てこの日、孫策は建業の地を発った。





っ、…――っ!!」
「馬超殿、そんなに急かすものでもないでしょう」
「何を言われる、趙雲殿。俺はの顔を見る為に此所に帰って来ているのだ」
「ははは、知っていますよ。何度聞いた事か」
「だから、」

――ぱたぱたぱた

玄関口でがやがや…と言っても馬超だけだが…騒ぎ立てる二人の声を聞きつけて、家の奥から少女が走ってきた。
長く伸ばした黒髪を結ぶ事無く垂らし、風に靡かせながら走り来る様は見ていてとても微笑ましい。
思わず手を伸ばし抱き留めようと構えてしまいそうになりながら、馬超は如何にか其れを落ち着かせる。
たった少しの距離を走っただけであろうに、僅かに息を切らせ頬を朱く染める様は、酷く愛らしかった。

「お帰りなさい、孟起。それに、子龍さん、いらっしゃいませ」
「ああ、只今、。良い子に待っていたか?」
「…もう、孟起。そんな歳ではありませんよ」

口元に手を当て、くすくすと笑うと呼ばれた少女の顔に、二人は見入る。
今日一日沢山面倒な事があり、心身ともに疲れていた筈なのに、この娘の笑顔…否、醸し出す雰囲気
其のものにとても癒される。
家に帰るのに遠回りであろうに、趙雲が態々馬超の屋敷を訪なうのも、が居る為であろう。
普段だったら、迷惑だろうから、とこんなに頻繁に他人の家に行く事をしない趙雲だったが、其れでも、
そう思いつつも、今日もまたこうしての顔を見に来てしまった。

「済まない、こんなに毎日のように邪魔をして」
「いえいえ、お気になさらないでくださいね。それよりも、ここで立ち話もなんですから」

さ、上がってください、とがにこりと頬笑んだ。
まるで自分の家のような立居振舞に、馬超は見る度擽ったさを覚える。

――こうして変わらず、何時までも俺の帰りをこの屋敷で待っていてくれ

想いを心の中だけで繰返す馬超の口角が、思わず上がる。
喜びを隠し切れない表れに馬超が慌てて口元を引き締める様を、趙雲は静かに見詰めていた。



「済まん、。飯は要らない」
「え?」

大きな盆に沢山の皿を乗せたが、危なっかしく二人の寛ぐ部屋に入ってくる。
乗せられた皿は全て値の張りそうなもので、其れに比例するかのように重さも中々のものであった。
そんな物を沢山乗せた盆はとても重かっただろう、細腕で何の文句も言わず運んで来てくれたに申し訳ないとは思いつつ、馬超はに言う。

「趙雲殿と、食事はもう済ませてきた」
「済まないな、。先に言えば良かった」
「いえいえ。お酒は、呑んで行かれますよね?」
「ああ、頼んでも良いだろうか?」
「ええ、勿論。孟起も…」
「頼む」
「判りました」

眉根一つ寄せる事もしない。
一度下ろした盆を、もう一度持ち上げると、にこやかに部屋を出ようとする。

「?…孟起?」

しかし、廊下に一歩出ようとしたところで、背後に馬超を感じ、立ち止まる。
盆の中の料理に一つ一つ目を配って行くと、一つの皿をひょい、と取った。
其れは、他の料理に比べて、使われた器も素朴で、中の料理も皿と同じように素朴。
見た目が悪い訳ではない、しかし、何処か華のある他の料理に比べ、素人色が濃い。
馬超はそんな、綺麗に切り分けられただけの卵焼きの乗った皿を手に、再び趙雲の向かいに腰を下ろ
した。

「…孟起?」
が作ってくれたんだろ?この卵焼きは」
「…何で判りました?」
「さぁな」
「あ、でも、無理して食べなくても、」
「食ったのが少し前だったからな。少し小腹が空いた」

言うなり、馬超は卵焼きを一切れ摘み、口に放り込む。
が制止の声を掛けようと口を開いた時には、馬超は既に咀嚼していた。

「孟起!…もう、手で食べるなんて、行儀が悪いですよ」

困ったように溜息を吐いたが、箸を手渡そうと、再び盆を下ろそうとする。


「あ、…済みません、子龍さん」

しかし、素早く立ち上がった趙雲が素早く其れを制すると、盆の中から小皿と箸を、二人分取った。
腰を下ろすと、馬超に一組を渡す。
広い卓の上に一つ置かれた自分の料理を、二人の男が争わん勢いで美味しそうに食べる様を見るのは、作った人間としてとても嬉しいようだ。
馬超がきちんと箸を使って食べているのを、良し、とまるで母親のように見て頷くと、は今度こそ部屋を出た。

「馬超殿、食事を取ったのはそんなに前でしたか?」
「ああ、の作った料理が入る程度の前だったな」

争うように…否、実際争いながら卵焼きを口にする二人が、互いの顔をにやにやと見合わせる。
あっという間に最後の二つとなった卵焼きを素早く自分の皿に取ると、二人は今までの速度とは一転、
ゆっくりと噛み締めるようにして口に運び出した。
塩、胡椒、砂糖が僅かずつ使われた、何の変哲も隠し味もない只の卵焼き。
だが其の至って普通の卵焼きが、馬超は、趙雲は、好きだった。
変な飾り気のないところがまるで其のもので、口にすれば家庭の味、と言うか温かみを感じる。
若干甘さが前に出ているのは馬超の好みの為なのだろう、其の点が若干趙雲には口惜しくも感じられたが、其れでもの手料理を食べられるのも馬超の御蔭なので、気にしない事にする。

「しかし、馬超殿。私が口を出す事でもないのでしょうが、昼だけでなく、夜も家僕達を置いておいたほうが良いのではないでしょうか?」

最後の一口を嚥下し、箸を下ろして馬超に言う。
余計な御世話は重々承知、しかし、今のの様子を見ていて、趙雲は思わず口に出していた。
未だ卵焼きを味わっていた馬超は趙雲の其の言葉に眉を顰め…そしてごくん、と嚥下した後に箸を置く。
決して雑に置いた訳ではないのに、箸を置く音がやけに響いた。

「俺は、この屋敷に人を置くのが嫌いなのだ。故に此れまでも人を雇うのは俺の居ない昼間だけであったし、が来たあの日からも変わっていない。今は、に何かあっては、と雇っているだけであって、夜は
俺が居るから、必要はないのだ」

かつてから馬超の屋敷では、昼間しか家僕を置いていなかった。
馬超が起きてから、其の人達は屋敷に入って来て、食事を作る。
馬超が出掛けてからは、家の事一切をし、夕方には馬超の夕食を作り、食べ終わった食器を片付けて
から出て行く。
護衛として、家の入口、裏口其々に二人ずつ立っているが、家の中に入らない為に、護衛とは名ばかり、門番のような役目しかしていない。
そしてそれらは、がやって来てからも大して変わる事はなかった。
変わった事と言えば、作る食事が基本的に二人分になった事、の昼食を作る事になった事、夕食を
作り終えた後は直ぐに帰るようになった事。
夕食を作り終えれば、が運んで行ってくれるし、片付けてもくれる。
馬超が其れを望んだ為に、そうなった。
も、自分に何か出来る事があれば少しでも、と進んでする。
気にするな、と馬超は言うが、やはり屋敷に置いて貰っていると言う負い目は感じているのだろう。
其れに馬超が気付いて居るからこそ、今の体制に落ち着いていた。

「…が辛そうにしていれば、また考える」
「…そう、ですか。いや、余計な事を言いましたね。済みません」
「いや…」

「お待たせしました。…あら、もう食べ終わったんですか?」
「美味かったからな」

広がる気不味い沈黙に、さて如何したものか、と心の中で苦く思っていたところに、丁度良くが酒を運んできた。
一気に明るい空気で満たされ、馬超はほっとしながらに笑いかける。
趙雲も心の中で安堵の溜息を吐きながら、部屋に入って来たに笑んだ。

「…酒器が一つ足りんな」
「え?…ちゃんと二つ、ありますよ?幾ら私でも、二つの数は間違えません」

ふふふ、と笑いながら、は馬超の前に、趙雲の前に、酒器を置く。
二人は置かれた酒器には手を付けず、互いの顔を見合わせ、にやり、と口角を上げた。

。自分の分を忘れて如何する」
「…え!?また私も呑むんですか?」
「当然だろう?待っているから、早く取ってくると良い」

馬超だけでなく、趙雲にまで言われ、は空いた卵焼きの皿を酒器を運んで来た盆に載せながら、困惑の顔を浮かべる。
しかし、この二人はきっと、自分の分の酒器を持ってこの部屋に来るまで、手を付けようとしないだろう。
其の上、例え此の侭部屋に戻ったとしても、馬超に無理矢理引っ張り出されるであろう事が予想出来た。
ならば。

「…少ししか、呑みませんからね?」

三人とも酔い潰れてしまったら、誰が御世話するんですか、とが心で呟く。
の困ったような笑顔に、其の場凌ぎのような頷きを以って返すと、は、もう、と口の中で呟くように小さな声を出した。



――ばたんっ

「!孟起っ!!」
「…もう、駄目だろうな。私が寝台まで運ぼう」
「…すみません、子龍さん」

笑い声を上げていたと思ったら、突然馬超が倒れた。
慌ててが席を立ち、傍に寄るも、すっかり眠っている。
三人で呑めば馬超が一番に潰れるので、こんな様子も慣れたもの、趙雲は苦笑混じりに立ち上がると、床に転がる馬超の身体を難なく抱え上げた。

「本当に、すみません。いつもいつも…」
が気にする事ではないから」
「でも…」

先に部屋の外に出たが、馬超を抱えた趙雲が通り易いように部屋の戸を全開に開く。
趙雲を先導するように前を歩くが、きょろきょろと後を振り向く。
転ばないように気を遣ってくれているのだろうが、其れなりに明るいこの廊下では、特に意味を為さない。
それでも、そうしてくれるの気遣い、心遣いに、趙雲は何だか嬉しくなった。

「ははは、其れこそ何時もの事なのだから。あぁ、そうだな」
「?」

広い屋敷の中を暫く歩いて行けば、廊下の奥、行き止まりの左右に戸が二つついている。
左側がの部屋、右側が馬超の部屋であった。
馬超の部屋にが先に入ると、手馴れた様子で部屋の所々に灯を置いていく。
自分の家同然の其の動きに、趙雲の心に少し影が射した。
否、自分の家同然も何も、は今、この屋敷の住人であるのだから、当然ではないか。
趙雲は頭を緩く振り、余計な考えを追い払うようにして、眠る馬超を寝台の上に横たわらせた。

が若し気にするのであれば、もう少し私に付き合ってくれないか?」

馬超に掛布を掛けるを見ながら、趙雲が馬超を起こさない程度の声で言う。
灯火が照らす趙雲の顔を、が見上げた。

「未だ、呑み足りないようだ」

私で良ければ、とが微笑んだ。



「もう大分、慣れたようだな。此方の生活にも」
「えぇ。お陰様です」
「何かあれば、遠慮なく頼ってくれ」
「ふふ、…はい」
「馬超殿は意外と大雑把なところがあるから…細かいところまで眼が行かない事もあるだろう」
「そうかもしれません。でも…孟起はとても良くしてくれますから」

ふんわりと、が笑んだ。
とても良くしている…そうだろう、確かに馬超は、彼に思いつく限りの範囲で、の為に様々な事をして
いる。
細かいところに眼が行かないのは性格としても、馬超が此処まで一人の人間の為に動いた事を、趙雲は見た事がない。

「本当に、孟起には感謝しているんです。勿論、子龍さんにも。あの時孟起が拾ってくれなければ、私は今頃、」
。拾って、など、動物のように言うものではない」
「……動物、ではないですか?」

の言葉を遮るように、趙雲が強い口調での名を呼んだ。
其の後に続く言葉は穏やかなもので、は黙って頷くのみかと趙雲は思っていたのだが。

「…何、」

しかし、返って来たのは、心の裡の読めない言葉。
二度反芻してみたものの、やはり読めない、察せない。
怪訝な顔で、声で、趙雲が問い返してみたものの、顔を伏せてしまったの姿を見て、趙雲もまた言葉を切った。
の其の様子はまるで、余計な事を言った、と言っているようだった。

「…、何か…あるのか?不満な事でも不安な事でも、何でも良い。私に話してくれないか」

酒器を置いて、背筋を真直ぐに伸ばし、を柔らかい視線で以って見詰める。
温かさすら篭る優しさを感じ、がゆっくりと顔を上げた。

「不満な事は、何もありませんよ」

穏やかに、が微笑んだ。



「此れ以上呑むと、帰れなくなるかも知れないな…、失礼しよう」

言って立ち上がる趙雲の姿に、も慌てて立ち上がる。

「あ、泊まって行かれたら如何ですか?子龍さんなら、孟起も、構わない、と言うと思いますから」
「…如何だろうな」
「え?」

玄関口に進んで行く趙雲からは、全く酔いは感じられない。
そんな趙雲を追い掛けるの足も確りとしていて、ずんずんと進んで行くのを小走りでちょこちょこと追い掛けている。
小走りのの様子を気配で感じながら笑むと、趙雲は前を向いたままぽつりと呟いた。
小さな其の呟きは、足音に消されには断片的にしか届かなかったようで、聞き返してくる。

「いや、何でもない。…、卵焼き美味しかったぞ。御馳走様」
「え、あ、ありがとうございます」
「では、な」
「あ、子龍さん!本当に帰ってしまうんだったら、送って、」
「大丈夫だ。…其れに、は外に出ては…」

――いけないだろう?

最後までは、言葉にしなかった。
一瞬の瞳が揺れた気がしたが、直ぐに元に戻る。
趙雲が一歩玄関から出ると、は玄関の戸に手を添えたまま、小さく頭を下げた。

に送って貰わなければいけないほど酔ってはいないから、大丈夫だ。其れに、送って貰っても、きっとを送り届けてしまいたくなるだろう」
「…はい」

月の光を吸い込んだ黒髪に掌を滑らせて、趙雲は漆黒の瞳を見詰めた。
其の瞳には、月と、そして趙雲自身が映り込んでいる。

「御休み、
「おやすみなさい、子龍さん」

誰も居ない門から趙雲が去って行くのを、其の背中が見えなくなるまで見送る。
影すらも消えてしまってから、はそっと玄関の戸を閉めた。
静まり返った廊下をは一人で戻り、給仕場で水瓶の中から水を掬い、水差しに満たすと、其れを持って先程趙雲と共に歩いた廊下を歩く。
突き当たりの右の部屋。
音を立てないよう戸を開き、馬超の様子を窺う。
良く、寝ているようだった。
そろそろと摺足で馬超の転がる寝台傍まで行くと、小机の上に持ってきた水差しを置く。

「お水、置いておきますから…孟起」

呟くような其れは、馬超を起こさない為のもの。
聞こえていなければ如何しようもないのだが、其れでも、何も言わずに立ち去るのも、と眠る馬超に言葉を残す。

「おやすみなさい、孟起」

入って来た時と違わず、音も立てずに戸が閉まる。
僅かな、気にしなければ聞こえないような足音を残して、が去って行った。

――………

再び一人に戻った馬超の部屋から、寝返りを打つ音と、何か小さな声が聞こえた、気がした。
は、気付かなかったようだが。



鉄格子を嵌められた窓から、零れた月の雫がの眠る寝台に燦然と降り注ぐ。
白い顔を蒼白く染めた其の顔は、まるで血の通っていないよう。

――本当は人形なのではないか

身動ぎもせずに瞳を閉じたままのを見て、思わず唇の近くに指先を遣る。
微かな寝息を指先が感じ取って、たった其れだけの事に安堵し、また、苦笑を浮かべる。
何をしているのだ、と。
自分に向けられた其の言葉は、窓に目を向けた後再び繰り返される事となる。

――鉄格子の嵌められた窓

此れではまるで、囚われの姫のようではないか。
自分でした事ながら、そう…馬超は思った。
決してを籠の鳥にする為にしたのではない。
部屋の戸にだって鍵などつけていないし、現には自由に屋敷の中を歩き回っている。
窓に鉄格子を嵌めたのも、に何か危険がないように。
危険があっても、少しでも其の度合いを減らせるように。
其れだけの理由だ、と馬超は誰に言うでもなく、心の中で呟いた。

――では、を一切外に出さないのは?

この屋敷にを連れて来てから、一度も外に出した事はない。
理由は、危険だから。
外を歩くには、はこの場所、この世界に無知であり、また、力もない。
だから、だからだ。
誰かがを連れ出す事を許さなかったし、自分だってを外に連れて行かなかった。
何より、が外に行きたいとは言わなかった。
…否、一度、何かの話の流れで言っていた気もするが、駄目だと言ったら其れからは言わなくなった。

「この屋敷の中で、静かに、俺に護られて生きていけば良い」

額に掛かる前髪に、軽く触れる。
其れだけでは、は目を覚ます事もない。

「俺の前から、居なくなったりしないでくれ」

何故だろう、馬超はが突然居なくなる夢を頻繁に見ていた。
そんな兆候を、が見せた訳でもないのに。
やはり、現れたのが唐突だった為だろうか。
眠るの姿を見ては安堵し、今のように心の底からの願いを吐き、そうして部屋に戻る日々が何日続いただろう。
此処数夜を思い返しながら、馬超は静かに部屋に戻った。


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