「っはー、やっと着いたぜ」

馬に乗った孫策が、肉饅片手に城門手前から成都の城を見上げている。
ふーん、と感動しているのかしていないのか、良く判らない声を漏らしながら肉饅を一口。
あからさまに怪しい孫策の姿に、門兵が二人、槍を構えた。
入ってくるな、と言う威嚇なのであろう、しかし、孫策は残りの肉饅を二口で胃に収めてしまうと、馬を歩かせ堂々と城門をくぐろうとする。

「お、おい!貴様、勝手に入ってくるな!」
「えー、何だよ、入っちゃ駄目なのかよ」
「当り前であろう!!」
「何でだよ」
「何故…って、劉備様の御すこの城に、貴様のような怪しい人間を入れる訳にはいかんからだ!」

馬に跨り、不満げに口を尖らす孫策に調子を乱されながらも、二人の門兵は職務を全うせんとする。
面倒臭ぇな、と思いつつも、此れが門兵の仕事なんだよな、とぼんやりと考えながら、孫策は口を
開いた。

「怪しいって、失礼だな。御前ら。ま、良いや。ならよ、劉備の嫁に、孫尚香って居るだろ?そいつに、策兄様が来てやったぞ、って伝えてくんねぇ?」



「…本当に来てくれたの?何で?そんなに暇だったの?」
「…御前なぁ」

余りな妹の第一声に、孫策はぐったりと肩を落とす。
数週間と掛かって、此処成都まで辿り着いたのだ。
戦乱の世、決して穏やかな旅とは行かなかった事を考えれば、やはり目の前の妹の言葉は酷いと
思った。
とは言え、孫策としても穏やかな旅を望んでいた訳でもなかったし、ごたごたに好き好んで突っ込んでいく人間だったので、苦ではなかったであろうが。

「ふふ…冗談よ、御免なさい。…そして…来てくれて、本当に有難う」

笑う孫尚香は、本当に喜んでいるようで、…しかし、礼を告げた時の顔は酷く真剣みを帯びていて、孫策は眉を顰めた。
やはり何かあったのか、と久し振りに会った妹を見ながら、思う。

「で?用って何だったんだよ。まさか俺の顔だけが見たかった、なんて理由じゃねぇんだろ?」
「…御免なさい、策兄様」
「…何だよ」

幾分か茶化して訊いた孫策の質問にも、孫尚香は謝罪の言葉を以って返す。
益々訳が判らない妹の様子に、孫策も雰囲気を変える事を諦め、真剣な口調になった。

「兄様に来て貰ったのは、私の我侭の為なの」

単語単語を、噛締めるように孫尚香が話す。
何故、そんなにも悲痛な表情を浮かべるのか、次にどんな言葉が飛び出すのか、孫策は無表情を装っていたが、内心は穏やかではなかった。
孫尚香は、卓の上で手を組むと、俯きがちだった顔を上げ、真正面に座る孫策に視線を合わせた。

「御願い、兄様。…を、助けてあげて」



今から数月前の夜、草原の真中で、月明かりを浴びながら茫然と立ち尽くした人間を、漢中まで劉備の遣いに行っていた馬超が発見した。
其れが、
風に踊る黒髪、白の衣服と言う、黒と白のみで構成されたの姿は馬超の瞳に焼きつき、現在自分の居るこの場所が全く判らない、と言うの言葉を受けた馬超は、ならば、と連れて帰る事を即決した。
の話す事は訳の判らないものが多かったが、取り敢えず判ったのはに帰る場所がないと言う事。
優しさを体現したような劉備が、好きなだけ此処に居れば良い、と言った為に、は馬超の屋敷に住む事で話は落ち着く事となった。
其れは、馬超の望みでもあった。
其れから、劉備と共にを見ていた孫尚香は、馬超の屋敷へを訪ねに行った。
顔、雰囲気、仕種、の全てを気に入った孫尚香、頻繁にに会いに行く内に、とある事に気付く。
外に出る事を許されず、一部の人を除き訪れてくる人にも会えず、只々屋敷の中で…馬超だけの世界でが生きていると言う事に。
劉備の妻、と言う立場があるからこそ孫尚香も如何にかに会えているような状況で、他にに会った事があるのは、趙雲だけのようだ。

「…あの子は絶対に、人の迷惑になる、と思うような事は言わない子だから。例え、どんな小さな事でも」

孫尚香が知る限りの事を、孫尚香の主観で説明していく内にやがて、の住まう馬超の屋敷へと辿り着いた。
門には二人、護衛が立っている。

「尚香。助ける、ったって、俺は何をすりゃ良いんだよ」
「…私も、判らないの」
「…は……」

はぁ?と返そうとして、しかし孫尚香の思い詰めた顔に、言葉を呑み込む。
思えば、こんなにも思い悩む妹は、初めて見たかも知れない。
同盟の為、と劉備の元へ嫁ぐ話を聞かされた時でさえ、これ程ではなかった筈だ。

「如何すれば良いか判らないの。只、今のままじゃ絶対に駄目、って、そう思った瞬間には、策兄様に手紙を書いてた…」
「…何で俺なんだ?」
「…凄く、凄く大人しい子なの。権兄様のほうが良いかなって思ったけど、権兄様は忙しいだろうから」
「…俺は?」
「策兄様は戦がなければ暇でしょ?執務さぼるんだし」
「俺は権の代わりかよ」

げんなりと溜息を吐く孫策に、孫尚香がふふ、と笑った。
漸くの笑い顔に、孫策は顔には出さずとも、少なからず安堵する。

「でもね、私思ったの。この状況を如何にかしてくれるのは、権兄様じゃなくて、策兄様だろうって。策兄様の勢いがあれば、きっと何か変えてくれるんじゃないか、って」

純粋に、嬉しいと思った。
妹に頼られる事に、気恥ずかしい喜びを覚えている。
しかし孫策は、鼻の頭を掻きながら、何でもない、と言った風に表情を作った。

「策兄様に何をして欲しいのか、何を変えて欲しいのか、其れは私も判ってないの。でも、取り敢えずに会ってみて。そうすれば、判る筈だから。私が、こうまでして如何にかしたい、と思う気持ちが…」

孫策が口元を引き締めて頷いたのを見て、孫尚香は淡く微笑んで歩き出した。
孫尚香に気付くと、馬超の屋敷の門前に立つ護衛兵が会釈をしたが、しかし、孫策の姿に眉根を
寄せる。
其れを見た孫尚香もまた、思うところあるのか、眉根を顰めた。

――一部の人間以外は、に会えない

現状として、馬超は孫尚香と趙雲しか屋敷に入れる事を許していないようだ。
と言っても、馬超が孫尚香の事を許した覚えはなく、孫尚香は飽くまで劉備の妻、と言う権限を活用してに会っていたのだが。
そんな状況の中、やはり孫策を通す事は認められないらしい。
二人が門をくぐろうとしたところで、護衛兵が静かに声を掛けた。

「…孫尚香様。其方は」
「私の兄よ」
「申し訳ありませんが、馬超様より人を入れるな、と申し付けられております」
「私は今まで普通に入れて貰ってたけど?」
「其れは、孫尚香様だからです」
「じゃあ、この人私の兄だもの。何の問題もないじゃない」
「…私たちは、其の方の御顔を知りません。初めて見る方を、主の屋敷に勝手に通す訳には行かないのです」
「私は、玄徳様に、の事を頼まれてるのよ?きっとが暇してるだろうと思って、こうして自慢の面白い兄を態々連れてきたんだけど」

――おい

孫尚香の言葉の一部に引っ掛かりを感じ、思わず声を出しそうになったが堪える。
口を噤みながら二人の門兵の様子を窺えば、流石に『劉備』の名は強いのだろう、深い困惑の色を見せ始めていた。

「それとも何?私の親族を、疑うの?」

孫尚香の親族…其れは、義理とは言え劉備の親族も同じ。
其処まで言われては、もう、護衛兵達には如何しようもなかった。

「…失礼致しました、孫尚香様。どうぞ、様が御待ちです」

言われ、孫尚香はふふん、と笑い…はしなかったが、確かに其の顔には勝ち誇った笑みがあった。
対して、妹の横暴さを目の当たりにした孫策は、微妙に引き攣った笑みを以て、孫尚香の後を追って門をくぐる。
生来の明るさを知っているとは言え、単身蜀に渡った妹を心配していた孫策だったが、…この分だと、楽しくやっているらしい。
そうして孫策が人並みに妹を心配していたりしている内に、孫尚香は勝手に玄関を開け、上がりこみ、ずんずんと廊下を進んで行く。
人気は、殆どない。
馬超、と言えば音に聞こえる武将ではないか、其の武将の屋敷に此れだけの人気しかないとは…、と、孫策はきょろきょろと左右を見回す。
しかし、そうしてみたところで人気が増える訳もなく、時々閉められた戸の向こうで人が動いているのが感じられる程度だった。
妙、と言えば其れだけではない。
人を徹底して入れない事は、先程の門での一件で解った。
しかし、其れにしては警備が手薄ではないか。
屋敷の中には、武に長けた者の気、と言うのが全く感じられない。
余程の手練が気を消している、とも思えたが、そうする必要性は何処にあるだろう?
孫策が傾げた首を更に傾けていると、やがて廊下の突き当たりに差しかかった。
孫尚香は向かって左手側の戸の前に立ち、中に向けて声を掛けると、徐に戸を開く。

「あら?」
「ん?如何した」
「居ないわ。…?」

一歩足を進めた孫尚香の後ろから、孫策も部屋を覗き込む。

「…何だよ、其れ」
「え?何か言った、兄様?」
「…いや」

向かって正面奥、寝台傍の壁に空いた窓。
真っ先に目に入った其の窓には、鉄格子が嵌められていた。
孫策の口から思わず出た声に、さして広くもない室内をきょろきょろと眺めていた孫尚香が聞き返した
が、孫策は小さく呟き部屋を出る。

「……何だぁ?」

元来た道を戻る孫策が、戸の隙間から一際明るい光が漏れる部屋を発見した。
先程歩いていた時は、気配を探る事ばかりに集中していた為に気付かなかったのだろう、自然色の白の明かりが漏れ出る部屋は、人が少ない為だろうか、この何処か陰鬱とした気すら漂う屋敷において異質ですらある。
孫策は其の部屋の目の前まで来ると、何の躊躇も、断りもなく戸を引いた。

――がらっ

「………」
「………」

部屋は、部屋であって部屋でなかった。

「……え、は?な、何だ此処…」
「………」

幅、奥行き共に、十歩歩けば壁に着いてしまう程度の広さの部屋一杯に、草花が咲き乱れていた。
戸付近の床には握り拳大の石が敷き詰めてあるが、後は一面、茶色の土と緑の草が床の代わりに敷いてある。
其処彼処からは雑草のようにも見える緑の草花、また、大小、色問わず、季節の花が咲き誇っていた。
外に出たのでは、と一瞬勘違いしそうになるが、四方の壁は確かに部屋の中の其れ。
天井も確かにあるが、しかし異なるのが、明り取りの為だろうか、人三人が優に通れるであろう直径の穴が開いており、この穴もまた、先程見た部屋の窓のように鉄格子が嵌めてある。

「……だ、だ…れ…?」

まるで突然可笑しな世界に紛れ込んでしまったのでは、とでも思い込ませるようなこの空間、其の中央、様々な草花に囲まれ、緑の絨毯の上に腰を下ろしていた少女が、ぽかん、と開けていた口から言葉を発した。
心地好く耳に流れ込んできた其の声に、呆然と室内を眺め回していた孫策が我に返る。
人が居るとは気付いていたが、気付かなかった。
視覚は人、と認識しているのだが、頭はこの色彩豊かな空間を形作る一部のように認識していたのだ。
其れ程までにこの少女は草花に、この部屋に溶け込んでいた。

「…あ、」

「あっ、!此所に居たのね?…あら、兄様まで」

「…尚香」
「…尚香ちゃん」

少女の問い掛けに漸く口を開いた孫策も、後ろからやって来た妹の必要以上に大きな声に、一瞬何を
答えようとしていたのか忘れ、其の名を呼んだに留めた。
と呼ばれた少女もまた、孫策と同時に言葉を発し、留める。

「こんにちは、。今日は私の兄様を連れて来たわ」
「………」
「…ちょっと、兄様!名前くらい言ったら如何なの!?」
「…へ?あ、あぁ…」

茫、と天窓から降り注ぐ日光を浴びる少女を見詰めていた孫策が、孫尚香に小突かれて二度我に返る。
孫尚香の、何してるのよ、と言う声に心の中で毒突いた後、孫策は口を開いた。

「俺は、孫策、字は伯符ってんだ」
「あ、はい。私は、です。よろしくおねがいします…。あと、それと、こんにちは、尚香ちゃん」
「えぇ、こんにちは」

ぎこちない笑みを浮かべながら名告った孫策。
其れに対し、突然入って来た孫策が何者か判った事で安堵したのだろう、落ち着きを取り戻した笑みを
以て、は、孫策に、孫尚香に挨拶を返した。
何時も通りのふんわりとした頬笑み。
孫尚香は自然、口元が緩むのを感じながら、二度目の挨拶をに向けた。

「相変わらず綺麗に咲いてるのね」
「ふふ、そうですか?そう言って貰えると嬉しいです」

世辞などではなく、心の底からそう思う。
花は、育てたものの心を写すと言うが、事実なのだろう、此所に咲く花も、緑の草でさえも、綺麗に真っ直ぐに咲き誇っている。
目の前のこの少女の、はにかんだような頬笑みを見れば、其の綺麗さも頷けた。

、寝台借りて良い?」
「…え?尚香ちゃん、具合でも悪いん、」
「ううん、寝るだけ。後は、御二人でゆっくり話してくださいな」

「………は?」
「………え?」

「それじゃ」

孫尚香はひらひらと手を振ると、二人を残して本当に出て行ってしまった。
御丁寧に、戸まで閉めて行く。
唐突な展開に、ほんの少し前に出会ったばかりの二人は、困ったように顔を見合わせた。
二人の知る共通の人物である孫尚香が居なければ、何を話して良いかすら判らない。
普段、人見知りする事のない孫策だって、この状況には参った。
だが、もっと困っているのは恐らくであろう。
孫尚香曰く、凄く大人しい娘らしいのだ、確かに見る限り、出会ったばかりの人間とぺらぺら喋れるような人種ではなさそうだった。
少なくとも、孫尚香とは違う。
孫策は困ったように頭を掻くと、取り敢えず立った侭もあれだな、と勧められた訳でもなく、勝手に自分で座り始めた。

「…あっ、と、座ったら不味ぃのか?」
「あ、いえ、花が咲いてないところは、大丈夫です。緑の草達は、皆強いですから」

腰を下ろそうとしたところで、が大切に育てたと言う緑の存在を思い出し、慌てて中空で止まる。
は慌てて腰を浮かして部屋中を見回すと、孫策の座ろうとしていたところは緑の草の絨毯しかない事を確認し、頷いた。
何処か嬉しそうに頬笑んだのは、孫策が気を遣ってくれたからだろうか。

「孫…策、様、は、尚香ちゃんのお兄さんなんですか?」
「何でも良いぜ?」
「え?」
「呼び方。様付けなんて柄じゃねぇよ。尚香呼ぶみたいに、気楽に呼べよ」
「えっと、じゃあ…孫策、伯符さん、だから…」

孫策の言葉に、が口の中で反芻する。
孫策様、孫策さん、孫策伯符さん、様々な呼称がの口から飛び出て来た。

「…孟起。馬超、孟起…」
「え?」

鮮やかな花々の中央で考え込んでいたから、聞き慣れない、だが、耳にした事のある名前が自分の名の間に紛れていて、思わず孫策は声を上げる。
はと言えば、自然に出た名前だったらしく、孫策の上げた声の理由に気付かず首を軽く傾げると、構わず纏まった答えに口を開いた。

「孫策さん、で良いですか?」

自分でも理由が解らず困惑する孫策を余所に、傾げた首を今度は逆向きに傾げ、が訊ねる。
無論、構わなかった。
しかし、是、と答える前に、孫策は浮かんだ疑問をにぶつける。

「馬超の事、何て呼んでんだ」
「え?孟起の事、ですか?孟起、ですけど」

きょとん、と瞳を真丸と開き、孫策を見詰める。
当然のように馬超の字を呼び捨てる…其れも二度も…の姿に、孫策は自分でも言葉に出来無い感情を胸に抱えた。
先程から、自分の中で起きている事なのに、解析不明な事ばかりだ。
何だか苛々する自分に、孫策は更に苛立った。

「伯符」
「?孫策さんのお名前ですよね?」
「孫策さんじゃなくて、伯符」
「?伯符さん、ですか?」
「いや、伯符だ」
「え、あの」
「呼び捨てろ。伯符、だ」
「伯、符…」

ゆらり、と立ち上がり、真顔で近寄って来る孫策に、が怯えて身を引く。
の隣まで来たところで膝を着き、顔を寄せると、肩をがしっ、と掴んで言葉を続けた。
余りの剣幕に、は孫策に復唱するように、ぽつり、ぽつり、と言葉を紡ぐ。
すると途端、孫策はにかっ、と笑っての頭にぽん、と手を乗せた。

「良っし!!もっかい言ってみろ!」
「伯符…?」
「もう一回!」
「伯符…」

嬉しそうに要求する孫策には飽きずに繰返すが、しかしの顔には何処か違和感のようなものが浮かんでいる。
耳を澄ませば、うーん、と唸る声すら聞こえて来た。

「やっぱり、呼び捨てと言うのは…」
「何だよ。…馬超の事は、呼び捨ててんだろ」
「…でも、孟起は孟起ですし…」
「…俺の事呼び捨てにするの、何か問題でもあんのか?」
「いえ、問題はないのですが、その、失礼な気がして…」
「俺がこんだけ言ってるのに呼ばないほうが、失礼だと思うぜ?」
「………」

いよいよ困惑に顔を歪め始めた
正直、孫策はそんな顔をさせる心算はなかったし、見たくもなかったのだが、今更後には退けないし、如何してもに字を呼び捨てて欲しかった。
孫尚香が見ていれば、馬超に嫉妬してるのよ兄様、などとあっさりと言ってくれそうなものだったが、残念ながら孫尚香は今、困り果てているの寝台の上に転がっている。
口調の割りに余裕があるのかないのか判らない、微妙な表情を浮かべている事に、孫策は気付いているのだろうか。
は若干俯けていた顔のまま、視線だけを孫策に遣り…其の表情を見て困り顔ではあったが薄く笑うと、口を開いた。

「……判りました。…伯符」
「!!おう!やっぱそう呼ばれたほうがしっくりくるぜ!良し、宜しくな、!!」
「はい。よろしくおねがいします、伯符」

恐らく勢いで言ったのであろうから、本当にしっくり来ているのか如何かは謎であったが、先程までの微妙な表情は何処へやら、一転して底抜けの明るさ輝く笑顔を浮かべられ、は苦笑を交えながらも、釣られて頬笑んだ。
やっぱり笑顔が良く似合う、と思ったのは、どちらの心の中だったのか。



「伯符は、尚香ちゃんのお兄さんなんですよね?」
「ああ、そうだぜ」
「尚香ちゃんって、お姫様なんですよね?」
「ひめっ…、まぁ…確かにそう呼ばれちゃ居たな」

孫呉の姫君…確かに其の通りな筈なのに、当て嵌めては笑えるのは何故だろう。
しかし、そんな事を本人に言おうものなら何をされるか判ったものではないので、然しもの孫策とて、口に出したりはしない。

「と言う事は、伯符は王子様ですね?」

「………」
「………」

「……ぶっ」
「!?」

真顔で、瞳に幾らかの輝きを乗せ、が身を乗り出し気味に孫策に訊ねる。
おうじさま。
余りにも縁遠過ぎる言葉だった為に、其の五文字の単語を頭に思い浮かべる事に、少々の時間を要してしまった。
そして、其の言葉の意味を把握した瞬間、孫策の顔が、崩れた。

「おっ…皇子!?皇子…皇子!?俺が皇子様なんて柄かよ!!はははははははっ!!あー、腹
痛ぇっ!!」
「え、だ、だって、そうなんでしょう?尚香ちゃんがお姫様なら、伯符は王子ですよ?」
「俺が皇子なら権も皇子かよ!!え、じゃ、オヤジは!?オヤジは何だ!?」
「王様ですか?」
「あ―――っはっはっはっは!!!」
「な、何がそんなに可笑しいんですか?」
「ちょ、おい、もう、勘弁してくれ…!!」
「私、何もしてないですっ」

何が可笑しいのかさっぱり判らないにしてみれば、腹を抱えて大爆笑する理由の検討もつかない。
困ったような怒ったような顔で頬を膨らますの横で、皇帝、皇子、皇子、姫様となった己の家族を頭の中で思い浮かべ、孫策はより一層深い壷に嵌っていた。
似合わない、似合わな過ぎる。
とは言え、孫堅の場合、呉帝と置き換えれば如何にかなる。
孫尚香の場合も、百歩譲って、姫様でも良いだろう、耳に慣れているから。
だが、己と弟である孫権の皇子は、駄目だった。
もう、冗談としか思えない。

「っひ、ひぃ…、あぁ、凄ぇな、。俺、こんなに笑ったの久し振りだぜ!あー腹痛ぇ…」

眦に溜まった大粒の涙を親指で掬いながら、孫策がに笑い掛ける。

、最高だぜ。面白ぇー!!」
「…むぅ」
「ん?如何した、?」

とうとうむくれて、ぷい、と顔を逸らしてしまったに、孫策が全く気付かずに訊ねる。
顔を覗き込もうとすれば逃げられ、また追い掛ければ逃げられた。
孫策は困ったように頭を掻くと、ふと自分の右側に十数本固まって咲いている花を見る。
名前は分からなかったが、透き通るような蒼が美しい、さして大きくもない花だった。
真っ直ぐに伸び、しかし其の中にも可憐さを持ち合わす其の花は、孫策が僅かな時間で持った、の印象と同じ。
気付けば、蒼の煌く一角を、孫策は静かに黙って眺めていた。

「………」
「………」

突然黙り込んだ孫策に、腹を立てていた筈のが不安を覚え、恐る恐る振り向く。
何かに見入っている様子の孫策に首を傾げ、身体を傾けて其の視線の先を追う。
如何やら、蒼の花の一角を見詰めているようだった。

「………綺麗、だな…」

ぽつり、と、しみじみと言った風に孫策が言葉を漏らした。
其の表情は、からは見えない。
どんな顔をして、そんなに優しい声を出しているのだろう、とは少し気になった。

「なぁ
「!!」

そんな風に思いつつ覗き込んでいたものだから、突然振り返り名を呼ばれた時は、飛び上がりそうになった。
孫策は一瞬だけ不思議そうな顔を作ったものの、直ぐに戻し、問いを続ける。

「何でこんなに綺麗に育てられんだ?」
「私が綺麗に育ててるんじゃないんですよ。花達が自分で綺麗に咲こうとしている、其の背を私は押しているだけなんです」
「でもよ、の其の育って欲しい、って思う気持ちを受けて花が綺麗に咲くんだろ?やっぱりが綺麗に育ててるようなもんじゃねぇか」
「…そうなんでしょうか」
「あ」
「はい?」
「花は育てる人間の心を写す、って意味が解ったぜ」

腕を組みつつ首を縦方向に振り、独り肯く。
其れは、取りも直さず自分の心を綺麗と言われている訳で…は嬉しいやら恥ずかしいやらで顔を朱くし、顔を若干俯けた。

「此処でこんなに凄ぇ綺麗なんだからよ、中庭とかもっと凄ぇのか?」
「え、あ…中庭、ですか?」
「おう」
「…中庭は、ない、です」
「へ?其れなりに広ぇ家なのに、中庭ねぇの?へぇ」

風情がない奴なのか、と孫策は思ったが、自身は馬超と顔を合わせた事がない為に何とも言えない。
其れを口に出さない代わりに、変わってんな、と呟くに留める孫策に対し、は地面から生え出る緑の草を柔らかく手で撫でていた。
其の横顔は、何所か哀しい。

――がら

「あぁ、良く寝たわ。兄様、そろそろ帰りましょ。陽が暮れて来たわ」

「………へ?」
「………え?」

孫尚香の登場に驚いた二人が、発された言葉にも驚き天を仰ぐ。
切り抜かれた天井から空を見上げれば、鉄格子の隙間から橙色の光が降り注いでいた事に気付いた。
まさかもうこんなにも時間が過ぎていたとは気付かず、二人は二重三重に驚く。

、兄様が迷惑掛けたりしなかった?花食べたりとか」
「…おい、俺を何だと思ってんだ」
「ふふふ…大丈夫でしたよ」
「其れは良かったわ。それじゃ、馬超が帰って来るまで淋しいと思うけど…」
「私は大丈夫ですから」
「…そう。それじゃ、ね」
「はい、尚香ちゃん。伯符、じゃあ」
「…ああ」

橙の陽光を気にし始めたからだろうか、若干暗みを含んできた光に照らされ、の表情も暗くなった気がした。
孫策は気付かず握っていた拳を解くと、静かに立ち上がる。
も、ゆっくりと立ち上がった。
其れを見て孫尚香が部屋を出ると、孫策、が続く。
やはり孫尚香を先頭として、其の後に孫策とが横に並んで続き、玄関口まで出た。
玄関を出て振り返ると、はまるで壁に遮られているかのように、戸口から一歩すら足を踏み出さない。
は笑顔の筈なのに、孫策は見ていて何故か、胸を締め付けられそうだった。

「………あの、」

開けた戸に添えた手にぎゅっ、と力を篭めて、俯きがちにが声を掛けた。
二人はが続けるのを待ったが、如何しても言い辛そうにしているので、孫策は耐え切れず口を開く。

「また来ても良いか?明日」
「あっ……」

其の言葉に、弾かれたようにが顔を上げた。
とても嬉しい、でも期待しても良いのか、迷惑ではないのか、と本当にらしい心の裡が、真っ直ぐならしく隠される事なく表情に出される。
孫策自身も其の姿に嬉しくなり、の頭に手を置いて、ふっ、と笑んだ。

「明日、また来るぜ」
「…はい。ありがとう、ございます」
「礼は必要ねぇだろ?俺が勝手に来るんだからよ」

言われ、は視線を孫策の瞳に合わせたり、地面に向けたり、そしてまた孫策に合わせたりしている。
そして、数瞬考えた後、ぽつり、と言った。

「あの、……待って、ます」
「ああ。其れじゃな」
「はい。伯符も尚香ちゃんも、お気をつけて」
「ありがとう、

離れ難い気持ちを振り切りに背を向け、門へと向かう。
門兵が何か一言でも言ってくるかとも思ったが、道を開け、会釈したのみだった。

「…あ、仕舞ったわ」
「あん?」

馬超の屋敷から離れ、暫く黙って二人並んで歩いていたところで、孫尚香が思い出したように顔を
顰めた。

「私、明日玄徳様について、行くところがあるから…のところ行けないのよ」

孫策が約束しているのを目近で見て、其の上が喜ぶところも見てしまっている。
此れで明日行けずに、に待ち惚けを喰らわせるなど…と、想像するだけで胸がぎりぎりと痛む。
あの性格だ、は絶対に自分達を責めない。
其れ所か、何かあって来れなかったのかも知れない、と余計な心配を掛ける事になるだろう。
孫尚香が、孫策の横で奇妙な唸り声を上げながら苦悶していた。

「尚香が行けなくても、俺は行くぜ」
「…え?え、でも、無理よ、兄様。今日だって、私が無理矢理話を通したようなものだもの。兄様一人じゃ入れてくれないわよ」
「そんなの知るか。俺は、行く」

きっぱりと孫策が言う。
孫尚香は兄の相変わらずさに溜息を吐いたが…しかし、はっ、と何かに思い当たったかのように、驚きに顔を歪めた。
此れ、此れだったのだ。
孫策のこの、根拠のない自信…しかし、大丈夫だろうと思わせる何か。
そんな何かを持つ孫策だからこそ、孫尚香は助けを求めた。
如何すれば良いか判らない、けれど、孫策ならを助けてくれる。
孫尚香もまた、根拠はないけれど、そう、確信した。

「なぁ尚香、馬超の家、其れなりに広いのに庭がねぇって可笑しくねぇか?」
「庭?…あるわよ?」
「…何?いや、待てよ、はないって言ってたぜ?」

広い庭のほうが、もっと沢山花を殖えられるだろう、と思って孫策がに聞いたのだ。
其の時確かには、ない、と答えた。
可笑しいな、と孫策が其の時の会話を思い出し首を捻っている横で、孫尚香が顎に手を遣り考え込む。
苦々しい表情が、張り付いていた。

「…嘘は、吐いてないわ」
「へ?いや、別に俺は、が嘘吐いてる、って言ってる訳じゃ」
「中庭はあるわ。でも、にとってはないのよ」
「…如何言う意味だ?」
「そんなに広くはないけれど、小さな池もある庭が、あるわ」
「………」
「でも、は外に出られない、でしょう?馬超に言われてるから」
「なっ」
「花が大好きなが大好き、でも中庭にすら出す事を拒む。…だから、馬超はあの部屋を作ったのよ。態々、ね」

危険だから、とを屋敷に閉じ込める。
馬超にとって、己の屋敷の中庭すらも危険らしい。
だが、大切なは花が大好きだ。
花を育てる環境を与えたい。
ならば、安全な屋敷の中に作れば良い、花を育てられる、部屋を。

「………」
「馬超はが大切なんでしょうね。でも、あれは可笑しいわよ。絶対に、可笑しい。外が危険、って言うけど、馬超にとっての危険って何?自分の屋敷の中庭にすら出さないのよ?を誰の目にも触れさせないようにしてるとしか、思えない」

馬超とだけ話し、馬超が居ない時は花に囲まれるだけの日々。
が何を以って幸せと思うのかは分からない、けれど、周りからしてみれば、其の生活が幸せな筈が
ない。
馬超に飼われる、籠の中の鳥だ。

「…尚香が、ああまでして頼んで来た気持ちが、分かったぜ」

視線は、唇を噛む孫尚香を通り過ぎ、少し前までと共に居た馬超の屋敷に向けられる。
孫策の瞳に炎が揺らめいた気がしたのは、橙の燃える夕陽のせいか、否か。

「俺は、のあの綺麗な、澄んだ笑顔をもっと見てぇ。笑顔のを、護ってやりてぇ。あんな狭い、まともに太陽の光も浴びれねぇような部屋に閉じ込めてちゃいけねぇんだよ。風も、光も知らない花じゃ…強くなれねぇ」

あんなに条件の悪い部屋で、あれだけの花を育てる事が出来るのだ。
勿体無い、と純粋にそう思う。

「なぁ、何では我慢出来るんだ?俺だったら、あんな屋敷に閉じ込められたら…一日と保たねぇ」
「…私だって、何度も聞いたわよ。でも、『不満な事はない、孟起は良くしてくれる』…。は聞く度そう言ってるけど、不満がない筈なんてないじゃない。もっと広いところで、もっとたくさんの花を。そう、望まない筈がないもの」

全ては、馬超に迷惑を掛けたくない一心なのだろう。
何の文句も言わず、ふらふらと外にも出ず、穏やかな笑顔で馬超を迎え、見送る姿は正しく良妻。
けれど、は馬超の妻でも何でもないのだ。
其れに、幾ら妻と言えど、屋敷の中に閉じ込める事など、許されよう筈もない。

「俺に何が出来るか判んねぇけど、何か、の為に…力になって、やりてぇ。…ありがとな、尚香」
「…え?」

あんな笑顔を浮かべる事が出来る人間に逢わせてくれて。
助ける機会を与えてくれて。
有難う、と孫策が笑った。
夕陽に照らされた孫策の顔は、酷く穏やかな笑顔で。
同じ夕陽だと言うのに、其の橙は、表情に温かみを与えた。
先程の顔を照らしていた橙は、暗さを与えていた筈。
夕陽を受ける人間の表情に、より深みを与える効果でもあるのだろうか。

「………」

歩き出した孫策の後を、孫尚香が慌てて追った。

「…有難う、策兄様」
「うん?」

何の礼か判らなくなるほどの間を置いて、孫尚香が呟く。
何でもない、と笑んだ孫尚香の表情もまた、夕陽に彩られていた。


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