を嫁にもらってくれる酔狂者が現れた。
文官の父の血を濃く継いだらしいは、女だてらに文官の職を得、常ならば尚香なり二喬なりの女主人に側仕えするところを良しとせず、父と同じ孫権の文官として立ち働いていた。
男勝りと言うか、元来負けず嫌いのは己の研鑽に励み、そこいらの文官ではまったく歯が立たないほどの知恵者に成長していた。
女子の身には恐ろしかろう戦にも平気で付いてくるし、出世が遅いのも父に言い含められていたお陰もあって不満も漏らさない。
代わりに、愛想も媚も売らない、取り付く島もないので色目を使う男も寄って来ない。
嫁に行かぬ気かと嘆く父親に、不思議そうな顔を向けて何がまずいか聞き返す始末である。
兄が居る、その兄には嫁も居る、二人の子供は十を頭に五人もいて、かつ皆丈夫に育って病一つ得ない。この上が子を為さずとも、家も血筋も安泰であろう……というのがの主張だ。
確かに、家系や血筋のみの心配をするならの言う通りであるが、父が言いたいのはそんなことではない。
女として生まれたからには、女としての幸せを望むのが、当人にとっても周りにとっても極自然な望みだというのがわからないらしい。
下手に知恵が回るお陰で、一を言えば十になって返ってくる。
年から言っても本人の望む通りにするしかなくなってきて居て、父親も諦めかけた時に、降って沸くが如くの縁談だった。
これを逃してなるものかと、父親は孫権にまで懐柔の手を回し、に否やを言わせる暇すら与えなかった。
何でそんなに嫁にやりたいのかと呆れつつ、そうまで熱心に結婚させたいのであれば、とりあえずするだけしてやろうかという気になった。
相手は、あの周泰だという。
父親が浮かれるのもわかる気がしたので、了承した。
寡黙な武人と噂の男は、結婚の儀式の日もやはり寡黙だった。
笑み一つ零さないところを見ると、やはり周泰も押し付けられた口だったのかもしれない。
結婚しようとしない男に、結婚しようとしない女が嫁ぐ。
案外似た者同士で良いかも知れない、とは他人事のように思っていた。
孫権の計らいで宴が催され、夜を徹して呑み会が続いた。
は女だったから許されて、その夜は早々に牀に就くことが出来た。
慣れないお式で疲れていた。
ぐっすり寝こけて、翌朝、目が覚めても周泰が牀に戻ってきた形跡はなかった。
身仕度を手伝いにきた家人の話によれば、夜明け頃に山賊襲撃の報が伝わり、その規模が埒外に大きいとのことで、周泰も鎮圧に向かったのだという。
「起こしてくれれば良かったのに」
見送りくらいするのが妻の役目ではないか、と珍しくしおらしげに考えてみたのだが、当の周泰が起こさぬで良いと命じたので、と家人に頭を下げられた。
「そう。……なら、仕方ないわね」
は身なりを整えると、城に参内して父に仰天された。
何をしておるかと怒鳴られて、当の夫が居らずやることがないからと告白すると、父親はみるみる萎んでいった。
山賊の話は聞いてはいたが、新郎たる周泰が出なくてはならない程とは聞いていない。
となれば、周泰自らが望んで戦に参じたことになる。
その点を鑑みれば、周泰が今回の婚姻を如何に考えているかなど、推して知るべしと言えた。
「そうか……ならば、仕方ない……か……」
に家事の才能がないのは、他の誰より父親が悟っている。
主が居らぬなら、は家に居るより参内して執務に取り組んでいた方が余程良い。
とりあえず、皿は壊れぬし衣服に穴が空くことはないし、雑多な用を記した竹簡の数は激減する。
任命されていた文官の職は辞していたから、今日は父親の手伝いに従事することになった。
「……文官の……執務を……また、頼む日が来るやもしれぬなぁ」
一人言じみた父親の言葉が、離縁される日の到来を指すとは察した。
それも仕方ないかもしれない、何せ自分の事は人よりよくわかっているし、ともぼんやり考えた。
静定には三月と言う月日を要した。
山賊の鎮圧と言うより謀反の鎮圧と呼ぶに相応しい戦だったらしい。
はいつもと同じように参内し、その話を聞いた。
父親が、今日はもういいから帰って旦那様のお帰りをお出迎えして差し上げろ、と熱るので、もその命に従って城を後にした。
屋敷の近くで、顔馴染みの女に出くわす。
友達でも幼馴染でもない。
何となれば、が嫌いな女だった。二度結婚して二度とも夫と死別している。だが、夫が居る間も居ない間も複数の男を股に掛け、鼻に掛けているような女だった。
向こうも、が勉学に親しんでいるのを鼻に掛けてと悪口を言い触らしているようだから、お相子だと思っている。
ともかく、そんな相手だからは黙礼をしただけで立ち去ろうとした。触らぬ神に、という奴だ。
「ちょっと」
しかし、相手はどうやらが目当てだったらしく、の袖口を乱暴に引っ張った。
何事かと眉を顰めるに、女はぎらついた目を向けて吐き捨てた。
「アンタ、調子に乗ってんじゃないわよ。幾らあの周将軍の嫁に納まったからってね、別にアンタの器量で嫁に望まれたってわけじゃあないんだからね」
鼻に掛けていた分野でに遅れを取ったとでも思ったのか、女は酷く腹を立てているようだった。
「別に」
女の言っていることは正しくもあったが、調子に乗っているつもりもない。
素っ気無く切り捨てて立ち去ろうとするのを、筋の通らない悪口を並べ立てられて邪魔される。
苛立った。
「別に、私だって好きでお嫁に来たわけじゃないわ」
離して、と振り払うと、女はよろめいて尻餅を着いた。
「そんなら周将軍がアンタを見初めたってのかい、お笑い種だわ! アンタみたいな面白くも何ともない女、どこの凡暗だってお断りだよっ!」
それは、そうだろう。
女らしくない、可愛げがないとはよく言われ続けていた。
今更だから、動じるものでもない。
風が強くて、寒くて、はだから、冷えた体を抱えて大きく身震いをした。
が屋敷に帰り着き、夜が更けても周泰は帰ってこなかった。
鎮圧祝いに宴でも行われているのだろう。
今日は帰ってこないかもしれないと、冷めた夕餉の膳を見遣りながら考えていた。
家人は先に休ませてやったし、一人で灯り一つを頼りに周泰を待つ虚しさにも疲れてきた。
寝よう、構うまいと腰を上げた時、門の方から物音が聞こえてきた。
帰ってきたのだ。
何故か、泣きたくなってきた。
体を硬くして立ち尽くしていると、果たして周泰が入ってきた。
「……どうした……」
まだ起きていたことに驚いているようでもあった。世の妻ならば、こうして夫を出迎えるのが当然で、喜ばれこそすれ驚かれるいわれはない。
「お出迎えするように……父から……」
やっとそれだけ言うと、周泰は目を顰めた。
「……要らぬ……気遣いだ……俺が遅ければ、先に休むといい……」
周泰の目は、犀花からついと逸らされる。
与えられた言葉の持つ重さと真実味を、痛い程感じた。
――そうか。
――要らないか。
――それなら、仕方がない。
「実家に戻ります」
頭を下げ、室を辞そうとするの腕を周泰が捕らえた。
ぱっと振り返った先で、周泰が酷く焦った顔をしているのが見えた。
焦っているのだろうか。
この人が。この男が。
そう考えると、焦って見えたのはただの気のせいに思えた。
この人が、自分のことで焦ることなど一つもない。
そう思えた。
は、自分はそういう女なのだから。
他の人もそう見ている。
あの女が言っていた。
周泰が、自分のことで心を動かす訳はない。
その通りだ。
式の最中も笑み一つ浮かばず、初夜を遣り過ごし、妻の務めも果たさせない。
そんなものが妻だとは思えない。
「……何故だ……」
どこまで行っても静かな人なのだな、とは思った。
せめて怒ってくれたらいい。
お情けで同情して囲っているよりは、怒り憎んでくれた方がいい。
あの女のように。
そうしたら、振り返らずに居られる。
自分を上に置いて、蔑んで居られる。
それなら、我慢できる。
「だって、居ても、居なくても、変わらないじゃありませんか」
居ても居なくてもいいのなら、ここに居る意味がない。
実家に帰れば兄の子供達に書なり学なり教えることも出来る。父の蔵書の整理や模写をしてやることもできる。兄嫁の愚痴に、お小言に付き合って心の澱を取り除いてやれる。役立たずなりに、やれることがあるのだ。
周泰の側で、にやれることはなかった。
やることがない嫁に、何の価値があろうか。
体が宙に浮いた。
周泰に抱えられ、運ばれている。
下ろされた先は、寝室の牀の上だった。
口に何かが被さった、と思った。驚きから目を閉じたが、ぬるっとした柔らかいものだと知覚して、ぱっと目を開けた先に周泰の閉じた眼があった。
口付けられているとわかって、目が見開かれる。
夫婦なのだから驚くことではなかったかもしれないが、こうも突然ではなかなか容易に受け入れられなかった。
目を開けたままのに気付いたのか、周泰も閉ざしていた眼を開けた。口付けが止む。
しゅる、と甲高い音がして、はっとして見遣ると周泰の指が帯を解いている。
「何を」
思わず止めようとした手を、周泰は捕らえて頭上に縫い留める。
「……お前は……俺の、妻だろう……」
子を為そうというのか。
確かにそれは夫婦の大切な仕事だ。
周泰が、自分の子を欲しがっているなら、叶えてやるのが妻の役目だろう。
それなら、にも出来るかもしれない。
意識はどうあれ、の体は子を生せるように出来ている筈だった。
女なのだから。
妻なのだから。
ならば、その務めを果たそう。
は意識して体の力を抜いた。
何をどうするのかわからないから、とりあえず目を閉じて、未知に対する恐怖をなるべく小さくするよう努めた。
これでようやく、妻としての務めが果たせる。
喜ばしいことだ、と、必死に自分に言い聞かせた。
不意に周泰の手が止まる。
間近にあった熱が遠ざかり、は何事かと目を開けた。
牀の縁に腰掛け、背を向ける周泰の姿が見えた。
半裸にされた体を起こして、襟元を掻き合わせる。
周泰は力なく背を丸め、肩を落としている。
やはり、妻として、女として物足りなかったのだろうか。
空虚が胸を満たし、凍えてしまう。
やはり、駄目なのだ。
は小さく詫びた。
周泰は顔を背けたまま、すっくと立ち上がる。
「……帰るといい……」
そのまま室を出て行く周泰の背に、は声もなく涙を落とした。
父に詫びると、父は苦笑いを浮かべた。
「お前は、誰かの妻として生きるより、文官として忠義を尽くす方が向いているのやもしれぬなぁ」
そう言っての肩を抱いてくれた父に、は思わず泣きついてしまった。
わんわん泣いて、涙が目の周りの薄い皮膚を真っ赤に焼いた頃、家人が転がり込んできて孫権の急の来訪を告げた。
苛立たしげな孫権の様子に肝を冷やしつつ、父はそれでもを庇うようにして前に立つ。
「……周泰から、を離縁したいという申し出を聞いた。どういうことか」
「そ、それはもう、私の娘が至りませんで」
「そなたの話では、には想う男など居らぬ、そうであったな!?」
「はい、それはもう、ですからこの度のお話、娘には勿体ないと思いつつもついその気に……」
どうも話がおかしい。
は思わず口を挟んだ。
「周泰様は、私に愛想を尽かして離縁なさりたいと仰られているのではないのですか」
孫権は不機嫌そうにを睨めつけ、父親は差し出がましい口を聞くを慌てて諌めにかかる。
しかし、は引かなかった。
「周泰様は、私を押し付けられて迷惑に思っておられたのではないのですか」
「……何を言っているのだ、お前は」
一気に困惑した風な孫権に、父もようやくおかしいと気がついたらしい。
「娘の話では、周泰様は娘に何もするな、気遣いも無用……と……その、夜の方も、お手すら付けられず……と聞いておりますが」
孫権は眉を寄せてを見下ろした。
「本当に、周泰がそのように?」
閨の話の恥だ、恥ずかしさで身が焼かれるようだったが、は正直に今までのことを申し述べた。
孫権は苦慮する様を隠しもせず、腕組みして唸り声を上げた。
止むなし、といった態で溜息を吐くと、周泰から聞いた話をに聞かせた。
そうするより他になく、またそうするのが一番話が早いと踏んだのだろう。
孫権の話を聞き終えたは、そのまま家を飛び出した。
執務室で静かに竹簡を広げていた周泰が、溜息を吐く。
珍しい眺めだった。
竹簡は広げられたまま、朝から微動だにしていない。それだけで、目を通していない、単に広げられただけとわかる。
周泰としては、読もうとはしているのだ。
都督からの竹簡であり、その返答を求められている。早めに返すに越したことはない。
だが、頭に入らない。目には映る。映るだけで、何と書いてあるのか理解が出来ない。
頭の中が一杯になってしまっている。
周泰は再び溜息を吐いた。
客人の来訪が告げられ、目線を上げた周泰は驚き立ち上がる。
そこにが居た。
人払いを命じると、兵は頭を下げて出ていった。
「……何故……」
うろたえた風の周泰に、は腹立たしげに目を険しくした。
が、次の瞬間、大粒の涙を零して泣き始めた。涙を堪えていたが故の、険しさだったのだ。
「言ってくれなきゃ、わかりません」
顔をくしゃくしゃにして泣き続けるに、周泰は困惑し、恐る恐る近寄ると腕の中に抱き締める。
は腕を周泰の背に回し、しっかとしがみついて泣き続けた。
要するに。
周泰はにベタ惚れしていたのだ。
寡黙さからそれと言い出せず、また悟られず、ただ物陰からを見るに留めていた日が続いていた。それ以上は、我が身の上では不遜と思っていたらしい。
一応水賊の出であるから、周泰の気遣いもあながち考え過ぎという訳でもない。はあれでも文官として迎えられる家柄であったし、よって生まれはそこそこ良い方だ。
周囲からは、水賊の出自より君主孫権の覚えめでたき立場を評価されているとは、慮れなかったのだろう。
廊下での父親が、あれは嫁にも行かずかび臭い竹簡と生涯を共にする気だ、それを不幸と分からぬのがまた不憫だと嘆いているのを聞き及び、ならば自分相手でも嫁に来て貰えるやも知れぬ、と、思い切って縁談を持ちかけた。
仲人も立てない周泰が、心底を嫁に望んでいようとは誰も思わない。
貰い手のなさを哀れんでのことなのだなと皆が思い、事実もそう思っていた。
孫権だけが周泰の本気を察していたが、そも、わざわざ口に出すことでもない。縁談は無事調ったのだし、と甘く見ていた。
まさか、周泰がを大事にし過ぎた為の擦れ違いが起こるとは、想像だにしなかった。
婚姻の夜はの寝顔を見守って夜を明かすわ、宴を抜け出してまで帰ったくせに、が起きていたことを己如きの為にと気遣うわ、挙句それらすべてが好意の逆と受け止められていることに気付けという方が無茶なのだ。
口付けられても目を開けたまま、脱がそうとすれば抵抗を見せ、遂には諦めきったように体の力を抜いたに、さては想う男が、そうでなければやはり自分など、と卑屈になったということも、孫権の口から初めて聞かされた。
言わなければ伝わらないだろう。周泰の愛情は、世間のそれとはずれ過ぎている。
羞恥する周泰は、突然の唇を奪った。
驚いて目を見開くだったが、二の轍は踏むまいと慌てて目を閉じる。
口の中に、蛇のようなものが入り込んできた。
ぞっとして体が竦む。
蛇は、ちろちろとの口内を物色して回り、やがての舌を見つけたらしく執拗に舐め突いてくる。
息が出来なくなって、苦しさからは周泰の胸を幾度も叩くが、周泰は気が付かないのか逆にその手を捕らえてしまった。
やっと開放される頃には、は体に力が入らなくなってしまっている。
周泰の喉が鳴るのを、恐ろしげに耳にする。
ふわりと体が浮き、隣の室に運ばれる。長椅子の上に置かれて、周泰が覆い被さってきた。
ここで? 今ここで!?
は慌てふためくが、やはり二の轍は踏めず、周泰の為すがままに従った。
周泰からの返答の竹簡を携えて、使いの者が周瑜の元を訪れた。
丁寧に礼を述べ受け取り、早速中を改める。
「ん……?」
周泰の字ではない。無骨な、少々読むのに手間取る周泰の字の代わりに、流麗で美しい、読みやすい字が竹簡を埋めていた。
誰の字だと首を傾げた周瑜は、しかし内容の的確さに満足して、竹簡を処理済の棚に仕舞った。
このままこうであってくれれば良いと、勝手ながらにそう思っていた。
続(性描写有り) →