旅路は、予想以上に賑やかに楽しいものになった。
見物人にはだが。
はへろへろになった頭で、目の前の掛け合い漫才を見物していた。
見物してはいるものの、は関係者の基点とも言うべき存在だったので、ちっとも面白くなかった。
「お前、ホントにそろそろいい加減にしろよ」
「何を仰っているのか、私にはわかりかねます」
女相手のせいか、今一つ突っ込みきれない孫策と、それと薄々察していながら譲歩の気配をまったく見せない星彩が睨みあっている。
頼むからほっといてくれないかと、は心の底から念じていた。
先の、往復の船旅を経てだいぶ慣れたと思っていたのに、今また激しい船酔いに悩まされている。吐き気は止まらないし眩暈はするしで、と言って船足を遅めるのも気が引けて頼めずにいた。
遅くしたって揺れるものは変わらないし、今回の船旅はが代表を務めているようなものだ。あまり初手から情けないことをしたくはなかった(情けない姿を晒す点についてはもうとっくに諦めた)。
「お姉さまは具合が悪いんです。どうかお引取り下さい」
「だから、ここに居るだけだっつってんだろうが!」
孫策と星彩は、互いに自分の権利を主張してはばからない。
趙雲や馬超相手の時はあれほど堂々とに触れてきた孫策も、星彩相手では勝手が違うのか、苛々しながら舌戦で応じている。不利と見れば口を閉ざしてぷいっと外に出てしまうのだが、またしばらくすると戻ってきてまた舌戦を繰り広げる。
元来、この手の面倒ごとが苦手なはずの孫策だから、の傍に居たいが為の健気な行動であるとも言えた。
けれど、星彩は己の役割たるの護衛任務の内容に、どうもの操を死守するということをも含んでしまっているようで、孫策がの傍に近付いてきただけで目を剥く始末である。
孫策が傍に居るのもの安静の邪魔になる(それは概ね当たってはいたのだが)と確信しているようで、孫策が来ると敵意剥き出しで追い出しに掛かる。
一時期の春花を髣髴とさせる様に、も頭が痛かった。好意でしてくれているとわかるだけに、どう宥めていいのかよくわからない。
一度、孫策がおとなしくしているという条件付きで、狭い船室に三人で居たことがある。五分ともたずに孫策がごね出し、星彩の不興を買い漁ってしまった。それ以来、もこの二人を宥めてどうこうしようという努力を放棄している。
二人とも別に手を出して争うわけでもなし、うるさいだけだから自分が我慢すればいいとは心掛けていた。
「孫策様が居られると、お姉さまは落ち着けないんです!」
「何でだよ!」
「星彩」
心掛けていても、現実は非情だ。
すぐに根を上げ、星彩を手招く。
星彩はぱっと飛びつくようにの元に駆けて来た。
「お茶、熱いのが欲しいの。もらってきてくれないかな」
の頼みごとに、だが星彩は眉を曇らせた。ちらりと孫策に目を遣り、哀願するようにひたとを見詰める。
先にあの男を追い出してくれと訴えているのがわかり、は苦笑いを浮かべた。
「いい子だから、ね」
星彩の頬に指を添えると、星彩の顔が朱に染まる。
リトマス紙の反応のようなわかりやすい色の変化に、孫策は何故かむっとしている。
腕組みして立ち尽くす孫策に、星彩は船室を出る直前まで睨みをきかせると、扉を閉めて出て
行った。
扉が閉まる直前、星彩の足がぴょんと跳ね上がったのが見えたのはご愛嬌だろう。出来得る限り早く戻るべく、走っていったのだと容易に知れた。
が笑っていると、孫策がの横たわる牀の横に腰掛けた。
「どうにかなんねえのかよ、あいつ」
不貞腐れて唇を突き出す孫策に、はやはり苦笑した。
「あんた、そもそも私を置いて行こうとしたんだから文句言うんじゃない」
痛いところを突かれ、孫策は思わず口篭る。
孫策の単純な頭は、そう細かいところまで思考を廻らせてはくれない。こうだからこう、ああだからああ。単純だからこそ、思い込んだら虚仮の一心で大概のことは遣り遂げる。そういう孫策だからこそ同性にも魅力的に映るのだろうし、もまた好ましいと感じている。
おいでおいでをすると、孫策は疑問を素直に顔に出しつつもの傍に寄る。
指先で掲げるようにして口付けると、孫策の頬が薄っすらと染まった。
から何かをしてくるということはほとんどない。いつも強制して、されてというのがほとんどだ。だからこそ、時折気まぐれに向けられる愛情表現に未だに慣れることができない。
選んではいない。
けれど、好いている。
そう、強烈に知らしめられる。と言う女が実にややこしい所以だ。
唇はすぐに解放されたが、は困惑したように顎の辺りをしきりに摩っている。
「…どうした?」
「ヒゲ」
くすぐったい、と不平を漏らすと、はまた顎の辺りを摩った。
孫策には顎髭がある。口元には生やしていなかったが、それなり長く形も整えてある。口付ければ相手の顎をくすぐることになるのは当たり前のことだが、言われるまでは気がつかなかった。
何故か恥ずかしさを覚え、孫策は眉間に皺を寄せた。
「つったって、普通は生やしてるのが当たり前なんだぞ」
孫策も、身分の高さゆえに幼い頃から極当然として受け止めてきた風習である。馬超や趙雲は生やしていなかったが、髭が生えにくい体質なのかも知れないと無意識に受け止め、気にもしていな
かった。
孫策にとって、髭は生えてないよりは生えていた方がいい、身分が高いならまず生やすべき、という程度のものだ。エチケットだのマナーだのの類に準じると思えばわかりやすい。
にしても、別に何の気なしに言っただけなので、孫策が何故そこまで気にするかがわからない。本来の古代中国であれば、確か髭を生やしていない男性は宦官扱いされてしまうはずだった。宦官は、男性ホルモンの関係で髭が生えない。生やすのが当然の世界観で、髭を生やしていないのがイコールで宦官に結びつくのは仕方ないことだと言えた。
自分から口付けることによって、その存在を改めて感じる余裕があったというだけで、別に悪いと言っているわけではない。
けれど、孫策は何故か不貞腐れたようにして体を縮こまらせている。
「伯符」
声を掛けてはみたものの、何と言えば孫策の気持ちが解れるのかわからない。どんな理由で不貞腐れるに至ったのかがそもわからないので、言うことも定まらない。
結局、もう一度指先で引き寄せ、口付けるに留めた。
顎の先に、やはりさわさわと触れる感触がある。強い毛がの顎をくすぐるが、今度はくすぐったいというよりぞくぞくとした。
離そうとすると、孫策がさっと手を回しての顔を固定してしまう。船酔いからくる気持ち悪さが蘇り、孫策の肩を掴むが許されなかった。
孫策はしばらく執拗にの唇を食んでいた。ぐったりしたの体を横たえ、おもむろにその胸に耳をぴったりくっつける。の鼓動が鼓膜を震わせ、その規則正しさに眠りに似た安らぎを感じた。
「…無茶して」
最中に吐いたらどうすんだとは苛立たしさを露にするが、孫策は平気な顔をしていた。
「俺、気にしねぇ」
「気にしろ」
どんなプレイだとぷりぷりしているに、孫策は『ぷれい』という聞き慣れない言葉に首を傾げる。
「いいから。星彩も、慣れない任務で一生懸命なんだから、あんまり苛めないでよ。年上でしょう、あんた」
「だってよ」
「だってじゃない、だってじゃ」
ぶー、と不貞腐れる孫策に、は溜息を吐いた。
耳の際に口付けると、孫策の頬がようやく緩む。
「口じゃなくても、気持ちイイな」
悪戯するようににこにこしながらの顔に口付けを降らしてくる。柔らかく暖かい湿った感触には辟易しながら、しかしくすぐったい悦びに笑みを浮かべた。
無邪気な遣り取りもまた、楽しい。
機嫌が直ったらしい孫策を見上げながら、は安堵の笑みを浮かべて応じた。
その時、扉が叩かれた。
入室を促すと、星彩自らが盆を手にして入ってきた。
盆の上には、湯飲みが三つ置かれている。
それを見た孫策が意外そうに目を見開き、恥ずかしそうにに目を向ける。
は、船酔いも忘れたかのように満面に笑みを浮かべ、星彩に微笑みかけた。
微笑みかけられた星彩も、少し恥ずかしそうに頬を染めている。
誰かに忠告されたのかもしれないが、二人が仲良くしてくれればもゆっくり安静にしていられるのだとやっとわかってくれたのかもしれない。
星彩が淹れたお茶は少し濃くて渋かったが、にとっては何とも言えず美味だった。
孫策が船の行程を確認しに外に出ると、はゆったりと横たわり目を閉じた。
ふと気配に目を開けると、星彩のどアップが目の前にある。
驚きに声も出せずにいると、星彩は意を決したように口を開いた。
「お姉さま、私にもすきんしっぷをして下さい」
「す」
星彩の口から『スキンシップ』などという単語が出てくるとは思いもよらず、は目を白黒とさせた。
そう言えば、湯治に出た時、趙雲といちゃついていたのを目撃されて、うっかりそんなことを言ってしまったのだった。
ひょっとしたら、孫策との遣り取りを見られてしまったのかもしれない。戸がちゃんと閉まっていたかどうか、記憶がなかった。
「して下さい」
ぐずぐずと強請る子供のように体を揺する星彩が、何故か無性に可愛く思える。
いかん、いかんぞともう一人の自分が叫んでいるが、それもまた煽られているような気になる。
おずおずと頬に口付けると、星彩は甘んじてそれを受けはしたが、が離れると同時にふるふると頭を振った。これじゃない、と態度で示している。
えぇと、と焦る頭は妙案を思いつくこともなく、その場の空気と勢いに呑まれた。
ちゅ、と微かに触れた唇は濡れたように潤っていて、ほのかに甘かった。
甘いとか、そんなはずはないと思うのだが、目を開けて飛び込んできたのは顔を真っ赤にして恥ずかしそうに俯く星彩の愛らしい姿だった。
心臓がどきんと大きく鳴り響き、釣られたように頬が熱くなる。
いかん、そんな属性は持ち合わせていなかったはずだが。
いい加減爛れた行為にも慣れたと思っていたのに、思いがけない衝動に他ならぬ自身が一番戸惑っていた。
「寝る」
ショートしかける頭が、休息を欲して止まない。
短い宣言の後、星彩に背を向けて固く目を閉じた。
上掛けを肩に掛け直してくれる星彩に、自分が昂ぶっていることを知られないようにと必死に祈った。