船が港に入ってくる。
 早かったのか遅かったのか、凌統には今一つ判断が着きかねた。
 詫び入れの書簡が一度届いたきり、後はなしのつぶてで、今日の到着も行程の中途にある呉の砦から早馬が駆けつけ初めてわかったくらいだ。
 やって来るのが建前上はただの文官とあっては、早々丁重な送り届けも迎え入れもできないという判断なのだろうか。
 しかし、曲がりなりにも同盟国の跡継ぎを乗せている船なのだ。もう少し仰々しくてもいいような気もする。
 隣に来た呂蒙にへの字口の理由を問われ、凌統は思ったことをそのまま口にした。
「まぁ、一応お忍びという扱いになっていること故な」
 呂蒙の口元には苦笑が浮いている。
 先発した船でを送り届け、戻ってくるものだと誰もが思っていた孫策が、まさかそのまま蜀に行ってしまうとは夢にも思わない。
 子供の使いでもあるまいし、と陸遜に説教された甘寧も、けろりとして留めようがなかった、罰は甘んじて受けまさぁなどと開き直ったものだからどうにもならない。
 追いかけて引き戻すのも馬鹿馬鹿しい話で、そも素直に戻ってくるとも思えない。
 孫堅が『仕方のない奴だ』と言ったのを最後に、この話は棚上げされた。
 戻ってきたからには何らかの処罰が下ろうが、それも孫堅の胸一つに掛かっている。
 あのしち面倒臭い変わり者の女が帰ってくると知れてから、呉の国はそわそわとして落ち着かない、浮き立った空気に包まれていた。その筆頭が孫堅なのだから、あの放蕩息子が処罰されるかどうか非常に怪しいと凌統は思う。
 文官風情の出迎えとあって、以前劉備が遣って来た時のような楽隊の行列や歓待の装飾などは何もない。
 けれど、いったい仕事はどうしたのだろうと思うほど、あちらこちらに武官文官がちらほらと姿を見せている。船が港に入ってくるまではともかく、船が入ってきたと触れが出るや、さささっと飛び出してそ知らぬ顔で接岸される岸辺に陣取っている。中には、しゃあしゃあと凌統に調子を聞いてくる者までいる始末だ。
 凌統の視線に気がついた呂蒙は、気まずげに咳払いをした。
「おお、若殿が居られるぞ」
 取ってつけたように指を差す呂蒙に、凌統は不承不承そちらへ目を向ける。
 船の先に腕組みした孫策が立って、こちらを睥睨している。
 間違いなく、それは睥睨しているといって良かった。勝手に出て行った者が、何を偉そうにと呆れ返る。反省の色もない不貞腐れたような顔に、孫堅がちゃんと罰を下してくれることを切に願った。
 船が着き、太縄を掛けて船を固定する。船員達が合図を送ると、船に渡し板が掛けられ、まずは孫策が降りてきた。
 中途まで来て後ろを振り返る。
 船縁の向こうから、若い娘が顔を出した。美しい、けれど笑みも浮かべぬ人形のような娘だった。
 誰だと訝しんで居る間に、娘は渡し板へと進み、その腕に誰か横抱きに抱かれているのが見えるようになった。
 抱かれているのはだった。
 ずいぶん青い顔をしているから、船にでも酔ったのかもしれない。それにしても力の強い娘だ。武官なのかもしれない。
「早く降りて下さい」
 孫策を睨めつける視線がやたらと厳しい。
 命じられた孫策は、やはり不貞腐れたように口を尖らせ、手を差し出した。
「やっぱ俺が運ぶって。お前じゃどうにも危なっかしくていけねぇ」
「お心遣いだけ戴いておきます」
 を隠すようにさっと身を引く。孫策の眉が跳ね上がった。
「お姉さまを早く休ませて差し上げたいの。貴方がそこに居ると、お姉さまを下ろせない」
 おねえさま?
 凌統が目をぱちくりさせると、隣の呂蒙もやはり目を瞬かせていた。孫策に対する不埒な言動も、この際気にしている余裕はなかった。
「……わかったよ!」
 孫策がぷりぷりしながら渡り板を降り、大地を踏み締めるとくるりと娘を振り返る。仁王立ちして腰に手を遣る様は、やたらと威張り散らしているようにも見えた。単に腹立ちを抑えているのだとは思うが、迂闊に声が掛けにくい。
 娘はを振り返り、何か話しかける。打って変わったように柔らかく緩む表情は、まるで蕾が花開いたかのような美しさを感じさせた。笑った方が、この娘の美しさをより引き立たせる。
「……誰なんです」
 凌統は前に進み出ると、出迎えの挨拶もそこそこ小声で孫策に問い掛ける。
 問われた孫策は凌統を振り返りもせず、娘とが降りてくるのを睨んでいた。
「せーさいだ」
「は?」
 名前を言ったようだが、凌統はどんな素性の娘かをこそ聞きたいのだ。
 重ねて問おうとした時、娘が降りてきた。
「お姉さま、着きました。もう、揺れませんよ」
 優しげに語り掛ける娘に、は唸り声で返す。
 礼儀も作法もない再会だったが、いっそこの女らしいかもしれないと凌統は思った。
「……文官殿は具合が悪いようで。医師でもお呼びしましょうか」
 半ばふざけての申し出だったが、『せーさい』は重々しげに頷いた。
 それを留めたのは、他ならぬだった。
 よろよろと拱手の礼を取り、引き攣った笑みを浮かべた。拱手の礼を取るなら降りてからとも思うのだが、あまりの顔色の悪さに軽口も叩けない。
「どうも、こんな具合で申し訳ないです」
 相当具合が悪そうで、凌統は部下に医師の手配を命じようとしたが、やはりに止められた。
「少し、ゆっくりしてれば落ち着きますから」
「でも、お姉さま」
 畳み掛けるのを制し、は娘に凌統達へ名乗るように命じた。
 不安げにを見遣り、そっとを下ろす。
 素早く孫策が回り込んでを支えた。気を利かせたというよりは、むしろ貸していたおもちゃをやっと取り返した子供のように見える。満面の笑みを浮かべていた。
「燕人・張飛が娘、星彩にございます」
 それまで気楽に構えていた凌統も、無論呂蒙もぴきりと顔を強張らせる。
 てっきり諸葛亮辺りが手配した護衛武将辺りだろうと思い込んでいたものが、蜀国君主劉備の義兄弟であり世にその人在りと謳われた張将軍の愛娘であるという。
 ただの文官風情に何と言う者を付けるのか。
 教えてやろうと言う気配りを欠片も見せなかった孫策にも腹立たしいものを感じるが、孫策はを胸に寄りかからせてにこにこしているだけだ。
 星彩は、身分的には下に当たるはずの凌統にも呂蒙にも丁寧に頭を下げた。
 我を忘れていた凌統も呂蒙も、それに応えて慌てて頭を下げる。
「本日の警備を任されております、凌統と申します。以降、どうぞ良しなにお取り計らい下さい」
 慣れない口調に舌を噛む思いだが、星彩は気にも留められないようだ。孫策に取り上げられたを気遣わしげにちらちら見ている。
 いったいどういう仲だと言うのか、を問い詰めたい気分でいっぱいになった。
「孫策様!」
「大姐、おかえんなさいっ!」
 何ともし難い空気をぶち壊してくれたのは、呉が誇る華、二喬の乱入だった。
 大喬は孫策を懐かしげに見上げ、小喬は考えなしにに飛びついた。
 甲高い悲鳴を上げたのは星彩だった。小喬から奪い取るようにを抱き寄せ、心配そうに顔色を伺ったりしている。
 事情を察していない小喬は、見たこともない星彩の存在にぽかんと口を開け、次いで烈火の如く怒り出した。小喬もまたの帰りを首を長くして待っていた口だから、事情がわからなければ致し方ない反応ではあった。あったがしかし、この際悪いのは小喬の方である。
 凌統は苦虫を噛み潰したような顔で小喬を宥めに掛かった。周瑜こそが適任の役割だが、お堅い周瑜は執務を優先していてこの場にはいない。凌統がやるしかなかった。
「何よっ、邪魔しないで!」
 言われるとは思っていたが、実際言われると何とも言えず切ない。
 見たらわかるだろうとは思っても、頭にきてしまっている小喬に冷静な状況判断を求める方が愚かだ。
 手に余る小喬の駄々こねに、凌統が辟易していた時だった。
「お姉さま、具合が悪いんです。お願いだから、少し静かにしていて」
 静かな、澄み渡る声が響く。
 星彩の目は湧き出る清水の清らかさで小喬を貫き、その熱を一瞬で冷ましてしまった。
 なかなか、やる。
 呂蒙は内心密かに感嘆していたが、ふと見遣ると星彩の腕の中でがぐったりとしており、その顔色の悪さにぎょっとする。
 慌ててを寝かせられる場所を用意するように命じ、星彩を先導して火の傍に案内した。
「風邪を引かれたのかもしれません。水の上は、ことのほか冷え込みましたから。夜もよく眠れないと仰っておりましたし、船酔いで食事もあまり召し上がらなくて」
 心配そうにを見つつ、あれこれ心当たりを述べる星彩に対し、呂蒙はとりあえず頷きつつも足を早めた。

 呂蒙たちが行ってしまうと、凌統は船の荷下ろしを指示した。贈答品の類を調べるのも凌統の役目だ。が心配なのは心配だったが、ならば凌統が早く仕事を済ませた方が結局はを居心地よく休ませられることになる。
 ふと振り返った先で、孫策と大喬が向かい合っているのが目に入った。
 大喬は、しばらくぶりの夫の帰還に喜びを隠せないようだが、孫策はが去っていった方ばかりを気にして大喬の言葉にも上の空だ。
 徐々に失望したように項垂れていく大喬の姿に、凌統はまたもや嫌な予感に囚われた。
 人の心は移ろいやすい。
 如何に大喬がを受け入れようとしても、孫策の心がに傾くばかりではその気持ちにも陰りが生まれよう。孫策こそがしっかりしなければならないことなのに、何をしているのだと舌打ちしたいのを懸命に堪える。
 大喬ですら我慢しているのに、部外者である凌統がキレていいはずがない。
 どうしたものか思案した挙句、何もできることはないと見切りをつけた。己の不甲斐なさに腹も立つが、ただ何事もないようにと祈る他ないのも事実だとわかっている。
 自分は巻き込まれないようにするのがせいぜいだ。
 凌統は眉間に皺が寄るのを感じた。

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