いい加減焦れたらしいは、突然孫策の手を掴んだ。
振り払おうと思えば出来たが、両の手で柔らかな胸乳に押し付けるようにされて、怯んでしまう。
うるっと目を潤ませると、は高らかに宣言した。
「私達、良いお友達でいましょうね!」
虚を突かれた孫策が反論の言葉を考えている内に、はとっとと退避してしまった。
その後を追おうと爪先を踏み出した孫策の前に、甘寧がさっと立ち塞がる。
にやっと笑ってするりと身を翻す様など、性悪の狐を髣髴とさせる。
絶妙の間で勢いを殺され、孫策は一歩目を踏み出すことが出来なくなった。
その脇を、孫堅がすたすたと通り抜けていく。
自分から喧嘩を吹っ掛けてきたくせに、まるで何事もなかったかのような顔付きだ。
むっとして何か言ってやろうと思うものの、これもまた間が悪く、孫堅と孫策の間にある距離は既にだいぶ開いてしまっていた。
対象が分散してしまったもので、孫策の怒りも同時に拡散する。
乳兄弟の扱いに長けた周瑜が、この機を見逃す筈もなかった。
「孫策」
周瑜の咎めるような声に促され、孫策は盛大に膨れつつもその場に腰を下ろす。
甘寧や孫堅がの後を追った訳ではないのも、孫策が追跡を諦めた要因の一つだった。
は張昭目掛けて歩いていた。
張昭もそれと気付き、の為に座る場所を作る。
「どうも、失礼致しました」
へこりと頭を下げるに、張昭は苦笑いして杯を差し出す。押し頂いて、杯に酒が満たされるのを見詰めた。
「乾杯、でしたかな」
張昭の言葉に、も応えて頷く。
小さく乾杯と呟き杯を軽く打ちつけると、喉を湿らせる。久し振りの酒は、妙に染みた。
「……で、孫策殿の件は」
「ああ、ご覧の通り、はく……孫策様の方がど忘れされていたまでの話です」
男と女であるという点を除けば、気落ちした友を訪ねるなど極々普通にやることではないかと逆に尋ねると、張昭も逆らわずにの意見を肯定した。
「まぁ、お前さんは女故、なかなか納得されぬことも多かろうて」
おや。
貴女と言ったりそなたと言ったり、今度はお前さんと来たか。
なかなかに気忙しいこと、とは密かに思った。
「私、実は男に生まれたかったんです」
の本音に、張昭が笑い出した。
「何が可笑しいんですか」
「……いや、何、お前さんが男だったらどんな男になっていたかと考えてな……折角の牀技も、男が持ち合わせては珠の持ち腐れではないかと」
「私自身が珠なだけに、珠は持ってませんよ」
が言い返すと、何が可笑しいのか張昭はげらげらと声を上げて笑い出した。そっくり返るように笑うもので、背面に居る人に手やら頭やらがごすごすぶつかっている。いい迷惑だ。
「そんなに可笑しかったですか」
「可笑しいな、ああ、可笑しいな。これ程笑ったのは久方振りではなかろうか。いや、お前さんは真に以って儒の怨敵とも言うべき女子だの」
心の感情を露に表に出すのは、本来良くないことなのだという。
そんなものか。
まだまだ知らないことが多くあると思い知らされる。もっと、学ばねば。
「……で」
「は」
まだ何かあるのかと、杯に口を付け掛けたは顔を上げた。
「で、今宵辺り、どうかな」
何がだ。
「……ほれ。その、わしがまだまだ現役だと言うことを、立証せねばならぬからなぁ」
は勢い良く逃げ出した。
最早、礼とか義とかはこの際どうでも良かった。
広間を横切っているところで甘寧に捕まる。
「何でぇ、おら、ここに来いよ」
膝をぱんぱんと叩くもので、一瞬その後頭部を引っ叩き掛けた。
幾ら何でも命に関わると自重したが、代わりに甘寧の隣に居た呂蒙が甘寧を諌めてくれたので、鬱憤も多少晴れて座ってやってもいいと思えるようになった。
腰を下ろすと、早速甘寧が肩に寄り掛かってくる。
重いと文句を垂れると、顔の傍で人懐こい笑みを浮かべて寄越した。
「なぁ、いっぺんでいいから犯らせろよ」
「やだよ」
もういい加減慣れて、恥ずかしくもなくなる。
むげな態度に甘寧がむくれ、黙ってくれればいいものを犯らせろ犯らせろと騒ぎ出した。
「うるさいなぁ、お頭に犯らせて私に何の得があるの」
呂蒙が酒を噴いた。気の毒だが、も相当気の毒なので勘弁して欲しかった。
甘寧のことは嫌いではない。に相応の理性がなければ、相手しろと言われれば断る理由が他にないのだ。
割とどうなんだそれは的な気の毒具合だと、自分でも思った。
甘寧一人が何の気兼ねもなく盛り上がっている。
「すっげえ得じゃねえか、いいぜ〜、俺のは」
これまで数多の女をよがり狂わせてきたと自慢され、何だかカチンときた。
「演技じゃないの」
ずばっと言ってみる。
甘寧の笑みが凍りついた。
「……演技?」
「うん、男の気分盛り上げる為にわざと感じてる演技するんだって、聞いたことあるよ」
甘寧は元より、呂蒙まで何だか複雑な顔をしている。
可笑しくなって笑うと、不意にいいことを閃いた。
「お頭、公績と仲直りしたら、考えてあげてもよろしくってよ」
「げっ」
爆弾発言に、周囲もぴきりと固まる。
絶対に無理だ。
「無理でしょう。殿も策士でいらっしゃる」
陸遜が酒瓶を手に現れる。
その酌を有難く受けて、は久し振りに見る美少年の笑みにやや腰が引けた。
美形が苦手だと言う意識に変わりはない。
の様に、陸遜の顔色が曇る。
「……やはり、まだ許してはいただけないのでしょうか」
それでようやく思い出した。
陸遜は、知らぬとは言えに媚薬を盛っていたのだ。だからここのところ見掛けなかったのか。
「いえあの、忘れてまし……」
陸遜の大きな目が更に大きく見開かれる。糾弾されているようで、は身を縮こまらせた。
「……いや、あの、単に私、綺麗な男の子ってどうも苦手で……」
すいません、と弾かれるように場を離れる。
後に残された陸遜は、ぽかんと口を開けている。
甘寧が爆笑し、呂蒙に苦く諌められた。
この後陸遜に八つ当たりで手酷い目に遭うことを、甘寧は知らぬままに笑い続けた。
広間の隅で、縮こまるようにしている巨躯を発見し、近寄る。
巨躯という言葉には似つかわしくないかもしれないが、きっちりと鍛え上げられた太史慈の長身を上手く表す言葉は他に見つからなかった。
が腰を下ろすと、怯んだように後退る。
だが、すぐ壁際に座っていたのが災いして、それ以上は進退極まった。
「この度は、どうもお騒がせ致しまして」
へこりと頭を下げるに、太史慈の表情は暗い。
「……否、俺は何もできなかった」
こんな騒ぎになってさえ、太史慈に出来ることは何一つとしてなかった。保身を量ったと責められても言い訳は立つまい。
それは、太史慈を陰鬱にする事実だった。
自分には、何も出来なかったのだ。
「太史慈殿が背中押してくれたから、伯符のところに行けました」
思い掛けない言葉に、太史慈は驚き固まる。
「事情があるなら確認し、理由があるなら問うべきって、あの言葉がなかったら私、きっと思い立ったりしなかったしあのまんまずっとうじうじしてたかも知れない。だから、太史慈殿が私の背中を押してくれたんですよ」
有難うございますと頭を下げるに、太史慈は呆然と呟いた。
「では、事の発端は俺だった、ということか?」
が、下げていた頭をぴょいっと上げる。その顔もまた、驚きに満ちていた。
丸くした目を向き合わせ、次いでくすくすと笑いさざめく。
陰鬱がもたらした緊張が解けていった。
「……嬉し、かったです。あの時の言葉……本気で、私なんかでもいいって言ってくれる人が居るって安心して、自信、ちょっと付きました」
それが、太史慈を気遣っての言葉だと太史慈自身も気付いている。
決して太史慈を選択しての言葉ではない。
だが、それでも良かった。
「その言葉が、俺には有難い」
酌を受け、返す。
「……貴女に、渡したいものがある」
やっと自分の口から言えた。
そのことは、太史慈を覆い立ち塞がっていた壁が粉微塵に吹き飛んだような、爽快極まりない解放感を与えてくれた。
太史慈と約定を取り交わすと、は何となく居辛くなって太史慈の元を辞した。
さて、何処へ行こうかと頭を廻らせていると、大喬から何か耳打ちされたと思しき孫策と目が合う。
何を考える間もない、次の瞬間には孫策が目の前に降って(文字通り)来て、を抱え上げるとすぐにまた高く飛び上がる。
こいつらの身体能力はどうなってんだ、と、天井近くの梁を間近に見て改めて感じた。
人間じゃねぇ!
が武将の神秘に気を取られている隙に、孫策は広間を抜けて人気のない廊下にを運び出していた。
「どういうことだよ!!」
「は?」
泣きそうな目で喚き散らしている孫策に、しかしは心当たりがまるでない。
何をしたと考えてはみるが、先程の『お友達宣言』以上に孫策が喚く理由は思い浮かばなかった。
「大喬は、俺の嫁だぞ!!」
眩暈がした。
紹介しろと連れて来たがなし崩しに離れていってしまったので、業を煮やした大喬は自分で孫策に言ってしまったのだろう。
いわく、聞いて下さい孫策様、私、大姐のお嫁さんになりました。
目に浮かぶようで、は眩暈に頭痛を追加した。
「俺が友達で大喬が嫁って、お前なんなんだよ、どーいうことだよ!!」
こっちが聞きたいわい。
やさぐれたが返事を渋っていると、孫策は深く息を吸い込んだ。
「……よしっ、決めたっ!! 俺もお前の嫁になるっ!!」
「意味わかんねぇよっ!!」
即座に却下するのだが、孫策はもう決めたことだとばかりに胸を張る。
「だってよ、お前の国じゃそうなんだろ?」
大喬が何と言って説明したか分からないが、多大な誤解があるようだ。
がどう誤解を解いたものかと眉間に皺寄せていると、孫策は焦れたようにに唇を寄せてきた。
「ちょっ! 馬鹿、友達同士でこーゆーことはするもんじゃないでしょうがっ!!」
「友達じゃねぇ、嫁だ」
違うって。
否定の言葉は、孫策の力押しにはまったく敵わなかった。
ペンは剣より強しなんて言ったの、誰だ。
蹂躙される口中に辟易としながら、は頭の隅でそんなことを考えていた。
「この中に」
ざわめいていた宴の広間が、不意に静まり返った。
おもむろに口を開いた孫堅の一挙一動に、呉の武将文官の注目が即座に集まる。
「を抱いた者は、居るか」
ざわっ。
声にならない動揺が広間を走り抜ける。
周泰と共に酒を楽しんでいた孫権も、一気に酔いが醒めたようで赤かった顔がむしろ青白くなっている。
条件に当てはまる二人は、互いに顔を見合わせ孫堅の次の言葉に固唾を呑んだ。
「……俺も、女は疾うに抱き飽いたと思っていたが」
一度言葉を切り、意味ありげに杯の表面に彫金された線などをなぞっている。
広間の皆が、孫堅の次の言葉に耳をそばだてていた。
「未だの者は、機会があれば一度相手をしてもらうといい。女を見る目が変わる」
それだけ言うと、何の気なしに杯を煽る。
だが、言い放った言葉はとんでもないの一言に過ぎる。臣下に向けて、あの女は悦いぞと公言し、相手をしてもらえと勧めているのだ。常識では考えられない。
が居なくて勿怪の幸いと言うべきか、どちらかと言えばが居ないのを見計らっての公言としか思えなかった。
周囲の男達の目の色が変わっているのが見て取れる。
慎みない言葉は、儒の上で言えば礼節を冒すものだ。とても褒められない。
けれど、この場に置ける儒の象徴とも言うべき張昭までもがからから笑って見ているだけとなると、如何ともし難かった。
孫堅は、一瞬にしての『乱行』を認めさせてしまったのだ。
中原の男達の性に対する関心の深さをも利して、儒の枠すら越えた位置にを置いてしまった。
これが孫堅の狙いだったのか。
唖然、呆然とでも言うしかなかった。
周瑜が孫堅を鋭い目で非難すると、孫堅は軽く受け流して肩をすくめるのみだった。
恐らくは、そうすることで自らを有利にするつもりなのだろう、が、如何にして有利にするつもりなのかはまったく見当が付かない。
ただ分かるのは、孫堅が君主と言う立場を蔑ろにしてまで『楽しもう』としていることだけだった。
我が君主ながら、まったく計り知れない。
この先の呉の道行きを考えて、周瑜は陰鬱な気持ちに陥った。
孫策とは、未だ戻ってくる気配もなかった。