は、物じゃねぇ」
 低い、恫喝めいた声だった。
 父に対して、君主に対して、非礼と言わざるを得ない。
「くれって言われて、やれるもんでもねぇよ」
 親父。
 取ってつけたような、他人めいた響きだった。
 周瑜の額に汗が滲んだ。

 大喬に引っ張られて廊下を行く。
 行きたくないと足を踏ん張っても何ら効果はなく、それでも抗うのを止めた。
 こんな可憐な美少女にいいように引っ張られる自分とは何なのだろう。
 眩暈を感じるが、それも現実逃避の為せる業かもしれない。
「あ、大姐!」
 廊下の向こう側から、小喬が跳ねて来た。
 血相を変えた小喬に、も大喬と顔を見合わせる。
「いっ、今来たら駄目、駄目だかんねっ!」
「小喬」
 ややむっとした面持ちの大喬に、はまたもや嫌な予感を覚えた。
「退いて小喬。大姐は、私と一緒に広間に行くのだから」
 ね、と微笑みかけられても、に頷き返すだけの勇気はない。
 案の定、小喬が焦れてじたばたと腕を振り回す。
「もう、お姉ちゃんたら何言ってるの! とにかく、行っちゃ駄目って言ったら駄目なんだかんねっ!」
「小喬こそ、何を言ってるの。広間に行ったら何かまずいことでもあるの?」
 ひきっと小喬の口元が引き攣った。
 何かあるのだ。まずいことが。
「……小喬、何? 大姐に関係のあることなの?」
 それ以外は思い当たることがないが、大喬は手順を遵守するかのように尋ねている。
 問われた小喬は、ご明察通りですと顔に描き出さん勢いで言葉に詰まった。ちらちらとの顔を見遣っているから、もう白状したのと変わらない。
「小喬、ちゃんと言ってくれないと分からないわ。広間で何が起こっているの?」
 大喬の厳しく詮議するような言葉に、小喬はあうあうと訳の分からない唸り声を上げる。
 に救いを求めるように視線を向けるが、とて理由が分からなければ何ともしようがない。
 追い詰められて、遂に小喬は降参した。
「……う、あの……そ、孫策様とね、」
「孫策様が!?」
 皆まで聞くこともなく走り出した大喬に、小喬は短い悲鳴を上げる。
 後を追おうと駆け出したのをに引き止められ、小喬は涙目でを振り返った。
「伯符が、どうしたんです?」
 何となく察するものがあった。
 あっただけに、きちんと確かめずには居られなかった。
 まごつく小喬だったが、の勢いが勝った。
「あの……孫策様と孫堅様が、何だかおかしいの……孫堅様が大姐をくれ、なんて言い出してね、それで、睨み合ってるの。だから」
 半ばまで聞いて、の足は既に駆け出していた。

が欲しいって言うんなら、本気出せよ、親父。本気で狙え。そしたら俺も、本気で相手する。親子だからって、変な遠慮は抜きだ。そうしたら俺は、本気で親父をぶちのめす。その覚悟があるってんならともかく。……ないんなら金輪際、に近付くな」
 孫策の挑発めいた言葉に、孫堅はただ静かに在るのみだ。
 そして、笑った。
「その、覚悟が俺にはない、と?」
 鼻で笑いつつも、どこか心底面白がっている節が見て取れた。
「そう言っているのか、策?」
 ざわり、と音を立てて鳥肌が立った。
 孫策の体が大きく震えた。
 けれど、口元には笑みが浮かんでいる。武者震いだったのだろう、爛々とした眼の光は、その強さを増すばかりだった。
「言ってるぜ、親父」
 場の空気が凝って強い。皮膚が攣るような錯覚に不快感を覚え、周瑜は眉を顰めた。
 息することも覚束ず、青褪めている者すら居る始末だ。
 戦の、それも大戦の直前に似た緊迫感で、辺りは水を打ったように静まり返っていた。
「よぅ」
 突然、気楽な声と共にすっと手が上がる。
「本気だってんなら、いいんだな?」
 甘寧だった。
 確かにこの男ならば、この緊迫した空気に馴染みこそすれ萎縮することはないかもしれない。
 が、あまりに間が悪い。
「あぁ!?」
 噛み付くように振り返る孫策に、甘寧は飄々と上げた手を振って見せた。
「だからよ、本気だったら俺があの女落としても文句はねぇなって言ってんだよ」
がお前と?」
 一瞬の間を空け、孫策が爆笑した。
「……ンだよ!」
 甘寧がキレて、咆える。腹を抱えて笑い転げる孫策は、息も絶え絶えに眦の涙を拭う。
「お、お前とがどうこうなる訳ねぇだろうよ」
 孫策の頭の中では、甘寧とはどうしても結び付かない。せいぜいがところ、お目付け役とその対象といったところだ。無論、がお目付け役なのである。
 だが、甘寧は余裕の笑みを浮かべる。
「知らねぇのはアンタの方だろ。……あの女、舌遣いがサイコーにいいのな」
 にやりと笑う甘寧と打って変わって蒼白となる孫策の対比に、周瑜は頭を押さえた。この上、が孫堅に肌を許したことを孫策が知ったらと思うと、気が気ではない。
 一応、孫堅は黙したまま事の成り行きを見守っているようだ。
 このまま口を封じていて下されよと必死に念じていた時だ。
「……少し、よろしいですかな」
 広間の影から姿を見せたのは、張昭だった。
 居たのか。
 周瑜の顔面から血の気が引く。出奔の騒動が治まったことを祝しての宴と聞いていたから、まさか張昭が来ているとは思いも寄らなかったのだ。
 一方、孫策は張昭の姿に愕然としている。
 老年と言ってもいい年の張昭である。名乗りを上げたと勘違いしたのだろう、言葉を失った孫策に構わず、張昭は話を続けた。
「先程から話を伺っていたのですが、何やら、若殿は殿と情縁途切れぬ仲のご様子。わしが聞いた話と、少々食い違っておりますようで」
 孫策の顔が、突拍子もない話だと如実に物語っている。
 周瑜は、なりふり構わず頭を抱えたくなった。が孫策との仲を友情へと転じたと皆に説明したことは、まとまった話だからと見切りを付けて孫策には未だ言ってなかったことだった。
 教えたところで嘘を吐ける男でもあるまいが、それでも何も聞かされていなかったよりはまだ幾らかマシな反応が返せたのではないかと思う。
 これでは、査問のやり直しになりかねない。張昭も、何を以ってそんな由々しきことを言い出すものか、味方を買って出てくれた筈ではなかったのか。それとも、張昭が先に出張ることで、事を最小限に食い止めようとしているということなのか。
 生半には判断が付かない程、事態はややこしくなったと言わざるを得なかった。
「……孫策様!?」
 勢い良く駆け込んで来たのは大喬だった。
 その乱れように、広間に居た者達は一時意識を大喬に集中させる。
「大喬? お前……」
「孫策様、ご無事ですか!?」
 誰に何を聞かされたのか、大喬の目は潤み目元は赤くなっていた。
 闖入者とも言うべき大喬に張昭も呆気に取られたが、すぐに立ち直って話を元に戻そうとする。
「それで、」
 どたどたと足音が鳴り響き、今度はが飛び込んでくる。
 場に乱入した途端、息切れしたのか肩でぜひぜひと息をしていた。
 ぐん、と胸を反らすと、孫策と孫堅に向けてびしっと指を突き付ける。
「人の居ないとこで、人の所有権争いすんのやめていただけます!?」
「いや、俺は」
 孫策は、を物ではないと言い、『くれ』と言った孫堅を諌めたのだ。別に所有権争っている訳ではない。
「だって、そう聞いたもん! つーか、やってたんでしょ、やめてよ、じゃなかった下さいよ!」
 ぶりぶり怒り狂うに涙目で孫策を見詰める大喬という、どちらを先に相手にしたものか分からぬ状況で孫策はうろたえる。
 戦場でなら二人まとめてぶっ飛ばせばいいだけなのだが、さすがにそうもいかない。
「で!」
 声が響く。
 忘れ掛けられていた張昭が、口元を引き攣らせて立っていた。
「わしの質問はどうお答えいただけるのでしょうな」
「質問てなんですか」
 間髪入れずにが首を傾げ、張昭の勢いを綺麗に削いでしまう。挙句、孫策がその勢いを横取りしてしまった。
「あっ、お前! 何だよ、何かおかしなこと言っただろ!」
「おかしなことって何よ、私何にも言ってないもん」
「言っただろ、張昭が何か言ってんだぞ」
「張昭殿が」
 の顔が、くりっと張昭に向けられる。
「何ですか張昭殿」
 間の抜けた会話の展開に、儒学の論争で鍛えた張昭も頭痛を禁じ得ない。素でやっているだろうと分かるだけに、怒鳴りつけるのも徒労の愚行と知れている。
「……殿。貴女のお話したところに寄れば、孫策様とは情縁ではなく友誼の縁。そうでしたな」
「そうですよ?」
 けろりとして言い放つので、孫策が目を剥く。
「聞いてねぇ!!」
 喚くのへ、が白い目を向ける。
「……言ったでしょ。大喬殿の……とこで」
 大喬の実家に行ったことは、一応伏せた。出奔していたことは既に周知の事実だろうが、何処に行っていたかを何処まで知られているかは分からなかったし、バレたからと堂々と言っていいことでもないと思った。
 孫策は、しばし考え込んだ挙句に、くわっと目を見開いた。
 思い出したらしい。
「……あ、あんなん、ナシだナシ!!」
「今更往生際の悪い。一度はうんって言ったんだから、男らしく認めなさいよ」
「言ってねぇっ!!」
「言ーいまーしたー」
 口喧嘩に発展した二人に、周囲は呆然としだす。
「な、おま、そっ……そうだ、甘寧と何したんだよ!!」
 俺の見てないところで、お前、何してんだと孫策が喚く。
 その言葉は、孫権が睦言の直前にを責めた言葉と重なるものがある。
 無意識に頬を染めたに、孫策が喚き散らした。
「何したんだよっ!!」
「……うるさいな、聞き分けないからちょっと黙らしてやっただけだもん」
「ちょっと待て」
 聞き捨てならんと、今度は甘寧が名乗りを上げる。
 うるさいのが一人増え、道化じみた遣り取りに拍車が掛かる。
 緊迫した空気は疾うの昔に何処かへ消え去り、離れた場所から段々と杯を乾す手が増えていく。
 皆、呆れたのだろう。
 周瑜とて、許されるなら呆れて背を向けたかった。
 背中に張り付いて目を潤ませている小喬の頭を撫でながら、周瑜はこの事態をすっかり傍観者の態で見守る孫堅を横目で盗み見る。
 ちらと視線を向けただけなのに、敏く気付いて笑みを返す孫堅の狙いは未だに分からなかった。

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