人の話し声が聞こえたような気がして、は目を覚ました。
いい加減寝不足だ。
起き上がると、冷たい空気が寝汗を掻いた肌に張り付いてくる。
ぶる、と身震いすると、上掛けを被って話し声がしたと思しき扉の方へと向かう。
大喬が、扉の前で仁王立ちしている。
声は小さいが、腹立たしそうに荒げているのが分かる。
やっぱり。
扉の向こうに居ると思しき人間が立ち去ると、大喬は深い溜息を吐いた。
「大喬殿」
声掛けると、大喬の肩が大きく跳ね上がる。青い顔をして振り向いた大喬は、慌てての元へ駆け寄ってきた。
「申し訳ありません、起こしてしまいましたか」
不安げなその可愛らしい顔に、薄っすらと隈が浮いている。
ここのところ、大喬は毎晩の室に泊まりに来ていた。
それはいいとして、やはり毎晩、誰かは知らないが訪問してきているようなのだ。
泊まりに来ている大喬がすべて応対してくれているらしく、寝汚いが目を覚ますのは大抵大喬が応対し終わる直前か終わった後だ。
まず一例の漏れなく、疲れ切った顔で溜息を吐く大喬の姿がそこにある。
誰が来ていたのか問い掛けても、大喬が答えた試しがない。
の室に訪れているのだから、に用があるのではないだろうか。
少し心配になるのだが、大喬はそんなことは絶対にないと言い張るし、それ以上問い詰めようものなら泣き出してしまいそうな顔をするので、訊けもしない。
けれど、今宵でもう二週間かそこらになる。
正月の宴の際も、大喬はの横にぴったりと張り付いて離れなかった。宴を楽しんでいる風情はまるでなく、四面楚歌の例えのように居並ぶ者は全て敵と言うように殺気立っていた。
おとなしく慎ましやかな美少女に相応しくないたたずまいに、はずっと疑問を持ち続けていたものだ。
しかし、問い掛けても言わないとなれば、この少女が口を割ることは決してあるまい。
「……寝ようか」
促せば、困惑したような悲しげな顔でこくりと頷く。
伏せた相貌にやつれたような影を見て、は困惑を深めた。
朝になり、大喬は自分の室に戻っていった。
また夜になったら来ると言い残して去っていく、その足取りが覚束ない。
このままでは倒れてしまう、とは不安になった。
孫策は、正月が明けてから近場にあるという実戦用の練兵場に出向いている。近場とは言え馬の足で半日やそこら掛かるということで、現地に泊り込んでいるからこちらにはなかなか戻ってこない。
孫策に訊くのが一番楽なのだが、それ以外の相手となるとどうしていいか分からない。
小喬には内緒だと言い含められていたから、小喬に尋ねる訳には行かない。
では、と考えると、大喬に縁がある人物になかなか心当たりがなかった。
仮とは言え人妻なのだから、当然と言えば当然かもしれない。の呉での知人となると、呉の武官文官になる訳で、当の旦那を除けば人妻と親しくできるような立場に在ろう筈がない。
の脳裏に、ふと、大喬の義弟の姿が思い浮かんだ。
けど、なぁ……。
大喬義弟はにとっては苦手な人物の一人だ。
それに、義姉の私生活に詳しそうな感じもしない。
絡みらしいとは思われるのだが、訪問客の特定も出来ない以上、どう尋ねていいかも判然としなかった。
理路整然としない言葉は、彼の癇に障ること間違いない。
線の細さも相まって、神経質な感のする周瑜のことだ。正月早々機嫌を損ねることもあるまい。
では、じゃあ誰にと考える。
思い浮かばない。
こんな時は、アレだ。
はてふてふと歩き始めた。
哀れな犠牲は太史慈に決まった。
何のことはない、歩いていて最初にぶつかった知人に問う、というだけの話だ。
大喬云々は置いておくとして、の室に夜訪ねてくる『訪問者』について何か知り及んでは居ないか訊いてみようと思ったのだ。これなら、何気ない世間話で済む。ような気がする。
ありきたりの差障りない時候の挨拶を済ませると、は早速切り出した。
「……最近、夜になると私の室にお客が来ているみたいなんですよ」
なんでもないことのように口にすると、太史慈の表情が一変した。
ぎょっとする程怖い顔付きをした太史慈は、辺りを見回しを引き摺って手近な室に飛び込んだ。
二の腕の辺りを掴まれ、まるで人形か何かを振り回すように簡単に運ばれてしまった。
痛みは相応にあったのだが、驚きが先行して声も出せない。
どれだけ力持ちだというのだ。
武将達の神業に近い能力はこれまで幾度も見てきたことではあったけれど、何度見ても慣れそうにない。これらの驚異的身体能力の前では、如きは一寸の虫にも満たない存在だろう。
日の当たらない薄闇に覆われた室で、更に太史慈の体に覆い被されている。
非現実めいた空間に、の意識にも見えない膜が掛かってしまったような気がした。
「それで」
「……え?」
冷や汗が背中を伝う。
太史慈の顔は極真顔で、の気持ちをぐいぐいと萎縮させてしまう。
そんなに怒らせてしまうような話なのだろうか。
「それで、どうなさっておられるのか」
「どうって……」
どうもしていない。
訪問理由も定かでないから、『来ているみたいだ』と言ったのだ。
戸惑いつつも答えると、太史慈はみるみる顔を赤くした。
緩まった緊張感に、もほっと息を吐く。気が抜けたせいか、太史慈に掴まれたままだった二の腕に痛みが走り、思わず手を添える。
手と手が触れると、太史慈は飛び上がるように後退った。
「も、申し訳ない」
大の男が赤面してうろたえる様は、見ていて中々に微笑ましい。
腹を立てる間もなく、は続けて疑問を口にした。
「太史慈殿、何か知ってるんですね?」
ぎく、と効果音が形を成して見えたような気さえした。
太史慈の表情は明らかに動揺しており、知っていますと白状したようなものだ。
そわそわとしだした太史慈は、練兵がどうこう言いながら立ち去ろうとした。
その手を、がむんずと掴む。
「いや、殿、俺は、これから急ぎ向かわねばならぬのだ」
言っていることがよく分からない。
とにかく急ぐからの一点張りで踵を返そうとする太史慈に、は足を踏ん張り掴んだ手に力を込める。引き摺られるのも先刻承知の上だ。
太史慈に振りほどかれさえしなければいい。
礼儀正しい太史慈のことだ、よもや女を突き飛ばしはしないだろうと踏んでいる。
ならば、このまま引き摺られていって、このままでは周囲の者に晒し者になると分かれば、太史慈も閉ざした口を開かざるを得まい。
室を出る辺りになって、太史慈は思惑通りにを振り返った。
「殿、俺は本当に急いでいるのだ!」
「じゃあ、待ってます」
後程、と簡単に話をまとめたに、太史慈は更にうろたえた。
「い、いや、困る。今日の練兵は遅くまで掛かるし、そんなに待たれても」
「じゃあ、明日」
「いや、明日も、その、大切な軍議が」
「じゃあ明後日」
「あ、明後日はその」
ならば、やはり今夜だ。
遅くても構わない、その方がこちらも都合がいいとは一人勝手に話を決めてしまう。
太史慈の言い分が恐らくすべて嘘である以上、それに付き合ってやる理由はない。
「何か渡したいものがあるって話、あのままになってましたもんね」
ちょうどいい。
ぱっきりと言い放ったに対し、太史慈は何事か言い募ろうとして結局口を閉ざした。
無骨な武者には、口ばかり達者なを言い負かすことなど叶うまいと覚ったのだろう。
正論であるし、むしろさっさと諦めりゃいいものを、とは意気軒昂だった。
がっくりと肩を落とした太史慈の後に、洋々とした足取りでが続く。
好対照な二人は、挨拶も交わさぬまま互いに背を向け、廊下のこちらとあちらに別れた。
夕方前、人に会う旨大喬へ文をしたためた。
相手の都合次第だから、遅くなるやも知れない、泊まりに来るのは一向に構わないので、もしそうするのなら室に入っていてくれという短いものだった。
説明不足かもしれないが、夜半に人と会うことはあまり良いことでもなかったし、それで太史慈に対して変な誤解をされても困ると思ったのだ。
太史慈とは、その後何もない。
当たり前に思えた。
一連の馬鹿騒ぎの後、太史慈との仲は恋情のそれとズレてしまったように思う。
学生時代の片思いが風化するような感覚に似ている。
好ましいと思うし、甘い感情が残り香のように胸を掠めることもある。けれど、沸き立つような熱には変じようがない。『始まることなく終わってしまった恋』とでも言えばいいのだろうか、友達ではないけれど、恋人にもなりようのない不思議な関係なのだった。
太史慈の指定通り、裏庭の池で太史慈を待つ。
こんな寒いところで待てという指定をもらったのだが、その指示には待てないだろう、待てなければこの話は御破産だと言う太史慈の底の浅い意地悪が透けて見えていた。
なので、は二つ返事で了承してやった。
分かりましたといった時の、太史慈の間の抜けた顔を忘れられない。思い出すだけで笑いが込み上げてきた。
「……何が可笑しいのか」
むっとした声が聞こえて、太史慈が暗闇から姿を現した。
いつ終わるか分からないからと自分で言ったくせに、が凍えないように急いでやって来る辺りが太史慈の太史慈たる由縁だろう。
「早かったですね」
の言葉に、太史慈は目を逸らしながら、口の中でぼそぼそと『偶々』などと呟いている。
そのままに背を向け歩き出したので、も足を早めて太史慈を追った。
暗い庭を二人並んで歩く。
「貴女がこれ程頑固者とは思わなかった」
「頑固者なんですよ、知らなかったんですね」
軽口を叩きながらの道行きは、以前には考えられなかったような気安さだ。
と、は木の根か何かに蹴つまづく。
倒れこむ程ではなかったが、足元がよく見えていなかった。暗いのだ。
何事もなく再び歩いていると、太史慈が横から手を引っ張った。足の横を擦る感触に、また木の根か何かがあったのだと知れる。には見えずとも、太史慈には見えているらしい。
並んで歩きながら軽口を叩き、太史慈の誘導を時折受けつつ、目的地に辿り着いた。
初めて訪れる太史慈の私宅は、そこそこ大きい割に人の気配は少ない。
家人が一人出迎えに来たが、太史慈に何か頼まれるとすぐに駆け去ってしまった。
太史慈自ら案内に立ち、客間と思しき室に通される。廊下もそうだが、全般的に質素だと感じた。
「少し待っていてくれ」
母に帰宅の挨拶に行くと聞かされ、は何気なく席を立った。
挨拶せねばと思ったのだが、客がわざわざ挨拶に赴くなどとんでもないと叱られてしまった。そんなものかと詫び、腰を下ろすと、太史慈は少し渋い顔をしつつも詫び返してきた。
「特別な意味に取られかねぬ故、他の家でも用心した方がよろしかろう」
忠告とも取れる言葉に、どういう意味だと考え込む。
嫁にくる女と勘違いされるとでも言いたいのだろうか。
けれど、嫁入りの際には顔を隠し、夫になる男に顔を見せるのは初夜の、と考え、そう言えば劉備と尚香の場合は戦場で顔を合わせていたような気がするぞと思い当たる。
何事もケースバイケースと言うことなのかもしれない。
太史慈を待っている間に酒肴が運ばれてきて、すぐに太史慈も戻ってきた。
「で?」
「……で、とは」
早速切り出すに対し、取り繕っている風な太史慈の酒を注ぐ手が微かに揺れている。
はじっと太史慈を見詰めた。
太史慈は、またも目を逸らす。
動揺しつつも、何事か考えているようにも切り出す言葉を捜しあぐねているようにも見えた。
も敢えて口を閉ざし、しばし酒の味を楽しむことにした。いずれ、酒の力を借り受けた太史慈が自棄になって口を開くだろうと思ったのだ。
それぐらい太史慈の杯を煽る速度は速かった。杯を満たしては一気に干し、また満たしては干す。
そんなに言い難い話なのかと、逆には不安になってきた。
太史慈は何かに促されるようにして目を覚ました。
すっかり酔い潰れてしまったらしく、頭がぼんやりとして重い。
「お目覚めですか」
腹立たしげなの声が聞こえ、そう言えば話をすると約束して(させられて)家に連れ帰ったことを思い出す。
一人で酔い潰れた面目なさに、慌てて起き上がった。
ようやく開いた視界に、半ば剥き出しになったの裸体を見出して固まる。
は太史慈の体重と言う逃れ難い圧迫からようやく解放され、だるそうに起き上がると寛げられた襟元を正した。
「お」
俺は、何をしてしまったのか。
問い掛けは喉に張り付いて言葉としての態を成さなかった。
それでも意図は伝わったものか、不機嫌に輪を掛けた不機嫌な顔で睨めつけられる。
「何も」
ぼそ、と呟いた声に、太史慈はうろたえる。
の様子に、とても何もなかったとは思えなかった。
「……ほんっとに、なんっにもなかったですから」
ただ、酔っ払った太史慈がの服を適当に暴いた挙句、押し倒した体勢のまま潰れてしまったというだけの話だ。
太史慈の顔が青褪める。
いっそ、本当に犯した方がマシだった。
笑い話にもならぬような話だが、太史慈はそう思ってしまった。
「……帰ります」
ぷいと立ち上がったを引き止めることも出来ず、太史慈はしかし帰り道を案内するべく、酔いの残る体を制しのろのろと腰を上げた。