明け方。
自室に戻ったを出迎えたのは、目を真っ赤にしてむくれた大喬の姿だった。
が戻ってこないもので、眠らずに待っていてくれたらしい。
城の中とは言え、が戻らないでは鍵を掛けることも出来ず、それで眠れなかったということもあるだろう。だが、第一の理由は間違いなくを心配してのことだ。
口を噤んだまま頬を膨らませてを睨め付けている様は、まさに新婚ほやほやの新妻が夫の最初の朝帰りを出迎えるかの如くだった。
「……ええと」
「何処に行ってたんですか」
言い訳をしようとした瞬間、間髪居れずに問い掛ける辺りは本当にそれっぽい。
「いやあの」
「言い訳なんか、聞きたくありません。何処に行ってたんですか」
寸劇をやっているような感覚に陥る。
ならばいっそ、開き直って役どころに徹した方が無難かもしれない。
「ごめんね」
新妻のご機嫌を取る旦那よろしく、腰を落としてそそっと大喬の傍らに寄り添う。
「ごめん、ホントにごめん。早く帰るつもりだったんだよ、ホントに」
謝り倒すに、大喬の鼻がくん、と何かを嗅ぎ取った。
「……男の人の匂いがしませんか」
ドラマだと香水の匂いとでもなるのだろう。汗を拭っただろうとはいえ、練兵後の太史慈に夜の間ずっと乗っかられていたのだから、体臭が移っていても不思議はない。
だが、その事実はを追い詰めるに充分だった。
「え、えーと、酔い潰れて、雑魚寝になっちゃったから……」
「雑魚寝して、何で匂いが移るんです」
匂いが移る程近くで雑魚寝する状況など考えられないと、大喬はの言い分を一蹴した。
確かに、匂いが衣服に染み付くぐらいとなると、誰かの腕に抱かれていたとしか取りようがないだろう。明け方前の清冽な冬の空気の中を歩いてきても、取れないぐらいに染み付いていたのだ。
大喬の目が、を詰るように細められる。
悲しい、と無言で訴えられているようで、は酷く慌てた。
「でも、ホントに何にもなかったから。誓ってもいいです」
必死に言い募るが、大喬はを疑い怪しむばかりだ。
「ホントのホント。ほんっとに、何にもなかったから。お願いだから、それだけは信じて」
何せ、太史慈は途中で眠ってしまったのだ。
酒を煽り続けた太史慈は、不意に杯を置くと、を凝視した。
かなり据わった、あからさまに酔っていると分かる目だった。
「貴女は、相手を選ばれぬのか」
何のことだか分からない。
けれど、それがどれだけ無礼な言葉かは分かる。酔っているからと言って、許されていい言葉ではない。例えそれとしてしか見えなくとも、だ。
「選びますよ。ちゃんと」
もいい加減酔い始めていたので、むっとした感情のままに言い返す。
太史慈は、そんなを否定するように大きく頭を振った。
「選んでは居られない。否、貞操と言うものを分かっておられぬのだ、貴女は」
「貞操なんて、単に男に都合良く女を縛る為の言葉じゃないですか」
互いに酔っているから、自分の正当性を主張してはばからない。相手の言葉を吟味し譲り合う余裕は、酒が飛ばしてしまっていた。
「それが分かっておられぬというのだ。貞操とは女のみならず男にとっても当てはまるものだ」
「なら、伯符はどうなんですか。貞操、守ってないじゃないですか」
「そうだ」
主君と仰ぐ男を引き合いに出され、しかし太史慈は否定しない。
それどころか、まったくその通りと力強く肯定してしまった。
「だから、俺とて貴女を諦め切れんのだ。孫策殿が、貴女をのみ選んだのなら俺も諦めように、あの方は何故貴女を選ばぬのだ」
ぎょっとして、の酔いが引き始める。
客将が主を罵倒していい筈がない。その理由がどんな稚拙なくだらないものだろうが、誰かに聞かれて大事になったら後の祭りだ。
「太史慈殿、それ以上はもう」
「貴女も貴女だ、何故孫策殿を選ばぬのだ」
うろたえるまま、とにかく制止しようとが立ち上がると、太史慈も張り合うように立ち上がる。つかつかと歩いての前に来ると、見下ろすようにして立った。
「選ばぬのなら選ばぬで、きちんと拒絶なさらぬからこういうことになる。何故、拒絶なさらぬのか」
拒絶は、した。
何度か同じように繰り返し、しかし孫策が引いてくれたことなど記憶にない。却っていきり立ち、を得ようと遮二無二なってしまう。
太史慈も、一度はそんな場面に遭遇した筈だ。忘れてしまったのだろうか。
「だって、拒絶したって、無理矢理……」
「無理矢理されると、逃げられないと仰るか」
逃げられないようにされるから、無理矢理だと言っているのだ。
飲み込みの悪い太史慈に、が苛立った時だった。
太史慈の太い腕がを攫い、壁際に置かれた長椅子へと運ばれる。背もたれもない長椅子は、肘掛が片側に付いているだけの簡素なものだ。
運ばれ、その長椅子に倒される。
抗う余裕など、ない。力比べでは、に勝ち目がある筈もなかった。
「無理矢理ならば、良いのだな」
「ちょ」
その論理はおかしい。
けれど、否定はし切れない。
これまで、理由さえあればは肌を許すことに躊躇わなかった。
孫権の時には孫策が許しを与えたと聞かされ、周泰の時には死を与えられるかもしれない人だからと目を瞑り、孫堅の時には交換条件だと足を開いた。
理由と言う名の、言い訳が欲しかったに過ぎない。とて、否、むしろこそが快楽に呑まれ、犯されることに喜びを見出していた節がある。
襟元を、太史慈の指が暴く。
零れ出た胸乳を見詰める太史慈の目が熱い。
欲情している目だ、と思うと同時に、冷たい空気に刺激された乳首が硬くしこったのを感じた。
「……殿……」
太史慈の唇から、厚い舌が覗いた。
思わず瞼を固く閉ざすと、胸乳の先端に濡れた感触が触れる。
「あっ」
声が漏れた。
気を良くしたのか、太史慈の舌の動きは大きく派手になっていく。
ぴちゃぴちゃと音を立てて舐めていたものが、やがて唇で食み歯を立て始めた。
ぞくぞくして、声が止まらない。
太史慈は飽きることなく、左右の胸乳に代わる代わる吸い付いた。
腿がもじもじと擦り合わされ、尻が自然に浮く。
体はすっかりその気になっている。
絶望するよりも、今を楽しみたいという気持ちが遥かに強い。太史慈の熱くて固い肉を、自分の中に突きこんで欲しかった。
ああ、馬鹿だ、ホントに淫乱だ、と自分に唾しつつも、秘裂から滲んでくる大量の愛液はが快楽を待ち焦がれていると証していた。
「……殿……」
囁かれる名は、熱が篭もって耳に快い。欲されているという優越感に恍惚とした。
指に指を絡められ、口付けを受ける。
乗っかっている体は酷く重かったけれど、その重みも快感だった。
太史慈が、耳元にすやすやと安らかな寝息を吹きかけてくるまでは。
むっつりと黙り込んだに、大喬は少し遣り過ぎたかと反省した。
勘違いなのだが、人の心は見て読めるものでもない。
大喬は、の手を取り素直に謝罪した。
それでも我に返り、改めて騒動の原点に立ち返ることにした。
「……あの、ね。大喬殿のせいにするつもりはないんですけど、最近、おかしいですよね?」
はっとした大喬の表情に、これまでにない戸惑いがある。
「昨夜は、そのことを話してくれそうな人のとこに行ってたんですよ。何か、お酒の勢い借りないと喋れないみたいな感じで、まぁ、結局その人酔い潰れちゃって、朝帰りになっちゃったんですけど」
「そ……そうでした、か……」
大喬はしばらく逡巡するように黙りこくった。
目が忙しなくきょろきょろと動き、大喬の心の揺れを表しているかのようだ。
後、一押しすれば話してくれる。
「大喬殿。大喬殿は隠したいみたいですけど、でも、私も気になるから、教えてくれなきゃ自分で理由突き止めますよ」
大喬が教えようが教えまいが、いつかは誰かから聞きだす。
今知るか後で知るかの差でしかないと、事実として突きつけた。
大喬は進退極まったように眉間に深い皺を寄せる。
「教えて、下さい」
の言葉に、大喬は体に入っていた力を抜き、がっくりと肩を落とした。
訪問の先触れも出さなかったにも関わらず、突然の面会はすぐに許された。
待っていたのだろうかという苦い思いは、当の本人から認めてくれる。
「案外、遅かったな」
やはり、待っていたのだ。
腸が煮えくり返ると言うが、まさに今のの状態を指すのだろう。
確かに、思いを通じての行為ではなかった。
けれど、だからと言って人に吹聴していいことではない。まして、宴会の場とは言え、臣下の集う場所で君主として話して聞かすなど、許されよう筈がないのだ。
事の重大さに加え、自分の話にも関わらず自分が知らなかったという事実が、の怒りに油を注いでいた。
一人でを出迎えた孫堅は、何事もなかったかのように落ち着いていた。
怒り狂っているの方が馬鹿に思える程、酷く冷静だった。
「何が悪い?」
何がではない、何もかもが悪いのだ。
悪びれない孫堅の様に、の怒りは天を衝く。
「言っていいことじゃ、ないでしょう?」
それでも蜀の文官として、同盟を結んだ君主に対し礼を尽くさねばならない。怒りを抑えようとして足掻く声は、意に反してみっともなく震えていた。
孫堅は、ただ、笑った。
「何が悪い」
に大義名分を与えてやっただけだ、と、ただ笑う。
「大義名分……?」
「お前は、誰のものにもならぬだろう?」
だから、誰もがに触れられるようにしたまでだと笑う。誰のものにもならぬのなら、皆のものでも良いだろう。
「そんな」
「勝手か? お前は勝手ではなかったというのか?」
は唇を噛んだ。
勝手ではないと言い切れればどんなにすっきりできるか知れない。
しかし、言えない。
言えた義理などないことを、重々承知していた。
の生まれた場所では許されるとしても、この世界では通用しない。当たり前の人権は、守られるどころか守られるという発想すらない。
許されるだけの豊かさは、この世界では存在し得ないのだ。
その上、立場が許さない。
は孫堅に逆らってはならぬのだ。逆らうとしたら蜀の為、蜀の利の為でなくてはならない。
「無論、お前が相手を気に入らぬと言うなら、断ればいい。俺の誘いであってもだ」
孫堅の言葉に不意を突かれ、はわずかに気を緩めた。
その隙を斬り付けられる。
「だが、お前が俺の誘いを断り続けるようなら、俺は痺れを切らすだろうな」
結局、何の意味もない。
が孫堅を拒めば拒む程、手痛いしっぺ返しが待っているというだけの話だ。
顔面蒼白になったに、孫堅は優しく微笑んだ。
「俺から呼び出しある時は、お前を抱く時と思って差し支えない」
何というろくでもない宣言だ。眩暈を感じて倒れこみそうだった。
だが、孫堅の言葉はそれでも容赦なくを打ちのめす。
「朝だろうが昼だろうが、お前を抱きたい時にお前を呼ぼう。用があれば、構わぬから断ればいい」
次の機会を待つだけだ。
誰を抱こうが咥え込もうが、知ったことではないと承知した上で、孫堅もまたを抱く。
つまり、共用の娼婦に認定されたのだ。
の受けた衝撃は計り知れなかった。
「顔色が悪いな」
少し休んでいくといい、と肩に回された手は、暖かく優しかった。
が泣き出すと、孫堅はを緩く抱き、ただ髪を撫でた。
いつまでも、が疲れ果て泣き止むまで、繰り返し繰り返しただその髪を撫でていた。