は、女官の言葉の続きを待った。
ある訳がない。
女官の方こそが、の返事を待っていた。
それでも、は必ず続きがあるものだと思い込んでいた。
心当たりがまったくない。
には、当たり前だが人を殺した経験などない。
ないものを『ある』と言われて、混乱を窮めている。
罪科に関わる問題だ。慌てない方がどうかして居よう。
人を殺したら、捕まるのが相場だ。
捕まっていないのだから、人を殺したことなどない。
そんな、理屈にもならないような理屈が、の頭の中をぐるぐるしていた。
「……覚えて、らっしゃらないんですか?」
のろのろとした、それでいてはっきりと紡ぎだされる声が、呪詛めいていた。
女官の目には、もうはっきりとした憎しみの色が見える。
殺意と言っていいくらい、鮮烈な色だった。
剥き出しの憎悪に晒されて、は身震いする。
けれど、どうしても心当たりがなかった。
殺したことなど、ない。
殺され掛けたことなら、あったけど。
そこで、の記憶は一気に繋がった。
――あ。
「……思い出されました、か?」
女の口が左右に伸びる。
薄い唇が更に薄く引き延ばされ、紅を注した唇の色だけは薄まらず、鮮やかに赤い。
細い線で描いたような唇が、ぬめぬめと光っていた。
思い出した。
どこかで見たような女官の目は、かつて、の命を狙った者と同じ目の色をしていた。
もう、遠い昔のことのように思っていた。
せいぜい一年過ぎた程度のこととは思えないくらい、深く沈んで色彩を薄くしていた記憶が蘇る。
あのひとは、彼女は、趙雲の副官をしていた。
趙雲に恋して、叶わなくて、の命を狙って逆に命を落とした。
逆恨みだ。
ぞっとした。
が殺したと言うが、殺したのはではない。
彼女は元々埋伏の毒として趙雲の下に付いたのだ。
毒としての役目を捨て、また逆上しての命を狙いさえしなかったら、命まで落とすことにはならなかったろう。
逆に、きっちりと毒の役目を果たしてさえ居れば、やはり助かっていたかもしれない。
危険の多い任務と知って尚、その任を受け入れたのは彼女の方だ。
だから、のせいではない。
踵が、じりっと土を掻いた。
自分のせいではない。
そう思ってはみても、それが通用しないことくらい、も理解していた。
したくはなくても、そうなるだろうことは分かった。
が居なければ、彼女は死なずに済んだかもしれなかった。
恋敵の存在は、良かれ悪しかれそれだけで未練に繋がるものだ。
想像でしかなかったが、恋というものについて幾度も悩み考えてきたは、そういうものだろうと考えている。
空虚な恋が、彼女の冷静な判断力を奪った。
そうして彼女は道を誤り、見る者が見れば馬鹿げた行く末としか言いようのない最期を迎えた。
彼女を知らぬ者には、それだけの話だ。
何の問題もない。
だが、遺族にしてみればどうだろう。
悪いのは、憎いのはということになりはしないか。
否、なる。
なるに違いない。
ならずとも、そうしたいと、そうであって欲しいと希うに違いない。
理不尽だ、と喚き散らしたい気持ちも無論ある。
喚いたところでどうにもならない現実を、はどうしようもなく理解していた。
が忘れていたという事実と思い出したという事実、この二つが女官にとって良い作用を及ぼすとは思えない。
ドラマなら、ベタに刺される展開だ。
歯の根が合わなくなる。
カチカチという音を聞かれまいと、は必死に歯を噛み締めた。
「寒いのですか?」
女官が、無表情に訊ねてくる。
聞かれた。
恐怖が倍増しになる。
口の形は笑みに歪んでいるのに、笑っているとは露程にも見えない。
能面のように貼り付けたような笑みは、恐怖の源でしかなかった。
その女官が、おもむろにから視線を外した。
視線の先には、闘技場となる船が見える。
「どうしてかしら」
女官がぼそりと呟いた。
「娘が死んだというのに、何故か日は昇るし、皆笑っているんですよ。楽しそうに、可笑しそうに……どうして、なのかしら」
「…………」
何も答えられない。
どうして、と言われても、そうだからだ、としか言いようがない。
誰が死のうと日は昇るし、誰が死のうと故人を知らない者にはどうしようもない。
どれだけ理不尽であろうと、そういうものなのだから仕方がないのだ。
「……どうして?」
女官は、誰も居ない空に向かって問い掛ける。
首が、ぐりんと捩じ曲げられこちらを向いた。
「どうして?」
「どうして……って……」
答えられない。
「どうして? どうして答えられないの? 貴女、頭がいいんでしょ? 臥龍の玉、なのでしょ? それなのに、どうして答えられないの? どうして答えてくれないの? 答える気がないの? 馬鹿馬鹿しくて、阿呆らしくって、だから答えるつもりもないの!?」
徐々に狂気の熱を孕む女官の声に、は圧倒されて声が出ない。
逃げたくても、足は縫い付けられたようになっていて、動けなかった。
「どうして? どうして? どうしてよ!」
――どうして、あの子を殺したのよ!!
女官は素早く襟を割り、何かを取り出した。
それが細身の刀身であることは、弾いて輝く光が雄弁に語っていた。
取り出す時に下手したものか、女の乳房の間に赤い糸が走る。
じわりと滲んで太さを増す赤さに、の視界が歪んだ。
こんな時に、と思う。
あまりの展開、そしていきなり見せ付けられた血の赤に、貧血を起こしていた。
目が回る。
押さえていた上掛けが、風に舞い上がった。
「死んで」
つんと、鼻を抜ける痛みが暗い天から落ちてくる。
「死んで、あの子に謝って、それで、どうしてか教えて。あんたが笑っている時に、偉そうに説教している時に、あの子がどうしていたか、教えて。早く、帰って来るように言って。私、ご飯を作って待っていたのにあの子が戻るのをお迎えに行ったのにあの子帰って来ないのどうしてか教えて早くねぇ早くねぇ教えてよ頭いいんでしょあんたねぇ早く教えてよ早く早く早く早く教えて教えてよねぇ早く教えて」
抑揚を失くして平坦に、呪文のようにぶつぶつと呟く声が近付いて来る。
恐ろしさからともかく逃げようと這うのだが、見えている地面ですらぐらぐら揺れるので覚束ない。
狂気とは、こんな一瞬で解放されるものなのか。
誰かがふざけて寸劇でも仕組んでいるのではないかと、いっそそうであって欲しいと、は必死に願っていた。
三半規管が、役に立つどころかの行動を邪魔してさえ居るというのに、何故か女官の声だけははっきり捉えてしまう。
まるで、あのひとが女官に手を貸し、自分の恨みを晴らそうとしているかのようだ。
怖くて、涙が出た。
泣いてもどうにもならないと分かっていても、涙が出る。
全身鳥肌立って、歯の根は疾っくに合わなくなっていた。
死ぬ、と思った。
殺されると思った。
話したいことがあるなんて、訊きたいことがあるなんて全部嘘っぱちだ。
殺したかったんじゃないか。
殺して、恨みを晴らしたかっただけだ。
自分の娘が死んだのに、男達にちやほやされるが妬ましかっただけだろう。
それだって、別にのせいではない。
どうしてこんな目に遭うんだ。
「あははははははははは!!」
甲高い、暗い感情に満ちた笑い声が辺りに満ちる。
「みっともない! 何であんたなんかに皆惚れるんだろう! うちの娘は、可愛くて、気立てが良くて、皆、誰もが褒めてくれるとってもいい子だった! それなのに……それなのに……可哀想な子……どうして……」
女官がぐすぐすと泣きじゃくり始める。
可哀想、可哀想と繰り返し繰り返し呟いている。
の頭の中で何かが破裂した。
「冗、談じゃ、ない」
逃げるには絶好の機会かもしれなかった。
けれどは、その機を逸した。
どうしても、許せなかった。
「何で惚れるとか、そんなの知らない……でも、気立てのいい子? 皆が褒めてくれる、いい子? 冗談じゃ、ない……!」
美しい子だったと、も正直思う。
それでも、気立てがいいとか、それこそ冗談だろうと思う。
恋敵だったに対し、露骨に邪魔者扱いしてきた女だ。
幾ら感情的になったとしても、あんな態度を取られていい子だと思える筈がない。
にとってはそれが真実だった。
が、今言うべきことではなかった。
我が子を悪し様に罵られた女官は、刹那に呆け、転瞬それまでの無表情をかなぐり捨てた。
憎悪に滾る目は最初のあの目とは比べようもなく、火を吹きそうな勢いでぎらぎらしている。
「死ね。死んでしまえ……お前なんか……お前なんか!!」
飛び掛かって来た凶刃を、腰を抜かしたにかわせる由もない。
恐怖に目を瞑った瞬間、蛙を潰したような声が上がった。
――死ぬ時もみっともないんだなぁ。
他人事のような感想が胸の内に沸く。
「殿!!」
はっとした。
開きたがらない瞼をこじ開けると、遠くから陸遜達が駆け付けてくるのが映った。
「……うあぁぁぁぁぁっ!!」
絶叫が響く。
ぎょっとして振り返ると、女官が再び腕を高々と掲げ上げているところだった。
手には、刃が握られたままだ。
落ちてくる、と思った瞬間、横合いから錦帆賊の副頭目が体当たりを仕掛ける。
女官は不意を突かれ、最早言語として成り立たない奇声を発して暴れ続ける。
刃を持つ手は素早く取り押さえられており、女官にはもう屈強な将を傷付ける手段はなかった。
「大姐!」
大喬が走って来るのが見えた。
その後ろには、まだ試合になって居なかったのか馬岱が続いている。
大喬が大姐と呼んでくれたことに、また馬岱の顔を見出したことに、は、自分が助かったのだと実感した。
よろけながらも立ち上がろうとした時だった。
「あああああああっ!!」
伏せるようにして取り押さえられていた女が、に何かを投げ付けて来た。
後で良く考えれば、それは刀が納まっていた鞘だったのだろう。
は反射的にその鞘を避けた。
同時に、の足元を支えていた石が崩れる。
ふわりと体が宙に浮いた。
悲鳴が迸った。
「殿!!」
浮いた状態ながら、誰かに力強く抱きかかえられた。
陸遜だった。
世界が白く染まる。
水音は、しなかった。
「……このアマ……!」
けたたましい嘲笑に、苛立った副頭目は加減なしに女官を引っ叩く。
痛みも衝撃も、相当だった筈だ。
けれど、笑い声は消えない。
更に大きく、高らかに響き渡る。
「大姐……!!」
大喬が崖に駆け寄り見下ろすも、の姿も陸遜の姿も見えなくなっていた。
「……どうしよう、大姐……!」
水音はしなかったから、崖の岩影にでも落ちて、身動きが取れなくなっているに違いない。
半ば放心状態の大喬は、うろたえながらも打つべき手を懸命に考える。
早くしなければ、動かなければと焦っていた。
「私、孫策様にこのことを知らせて……」
隣に立つ馬岱を振り仰いだ大喬は、馬岱の醸す異和感に言葉を切った。
じっと黙したまま、気難しげに川面を睨む馬岱の目が険しい。
狂ったように笑う女の声だけが、虚しく辺りに響いていた。