気が付くと、辺りは完全に人気がなくなっていた。
 無為な思索に耽っていたせいで、周囲に注意を払えなくなっていたらしい。
 が顔を上げ、ひたすらに追っていた背中を見遣る。
 敏く気付いた女官は、足を止めてに向き直った。
「少々お話したき義がございます。あい申し訳ありませんが、ご承知いただけませんか?」
 深々と頭を下げられては、も強く出られない。
 戻ると言っても一人ではどう戻っていいか分からぬこともあって、は女官の申し出を受け入れるしかなかった。
「有難うございます」
 如何にもほっとした、肩の荷が下りたと言わんばかりの様に、はやや大袈裟なものを感じる。
 何に付け、思い詰める感の強い大喬の女官、だからだろうか。
 犬猫と比較するのは失礼だが、飼われているものは飼い主に似るという説がある。主従にも通用する説なのかもしれないと、そんな風に感じていた。
 女官は再度深々と一礼して、を先導する。
 も後を追おうとして、ふと、誰かに呼ばれた気がして振り返る。
 けれども、人の気配もない場所でを呼ぶ者があろう筈もない。
 気のせいかと振り切って、足を早めた。

 錦帆賊の男達が、副頭目の元へ辿り着いたのは、と別れてすぐだった。
 見るからにしょぼくれた男達に、副頭目は小鼻を膨らませる。
「何てぇザマだ。お頭の試合が始まるってのに、そんな不景気な面を晒すんじゃねぇ」
 試合を前に控えた甘寧に聞こえぬよう、低く、けれど鋭い恫喝を加える。
「いや、そのことよ。兄ぃ、そのことなんだよ」
「お頭の試合が始まるってんで、だからよぅ、俺達も気を利かせて、なぁ」
「そうなんだ、兄ぃ」
 ぶつぶつしつこく呟くように訴える男達に、副頭目の眉尻が跳ね上がる。
「るせぇな、何だってんだ」
 副頭目が怒鳴り付ける前に、甘寧が口を挟んだ。
 途端、男達は子犬のように無邪気に甘寧の傍らに駆けこんで、その周りを囲う。
「お頭、俺達、お頭の為に姐さんを呼びに行ったんだけどよ」
 なぁ、そうだよなぁ、と、男達は一斉に頷く。
 埒が明かない。
「けど? けど、何だ。お頭は試合前なんだ、さっさと申し上げやがれ」
 苛立たしげな副頭目の叱咤に、男達は慌てて口を開いた。
「偶々、姐さんをお見かけしたんでさぁ」
「若殿の正夫人さんとご一緒のところを……」
「どうも、様子がおかしかったんでさぁ」
 今度は一斉に喚きだすもので、何が何やら分からない。
 しまいには我こそがとばかりにそれぞれが声を張り上げるもので、ちょっとした騒動になってきた。
「あぁ、うるっせぇ!」
 しんと静まり返る。
 甘寧は男達の顔を見回し、皆が黙りこんで甘寧に注視しているのを確認すると、不意にぱん、と一つ膝を打った。
「よし、んじゃあお前が話せ」
 甘寧に指差された男は、慌てて事情を話し始めた。
 通り一遍――と言っても大して内容の濃い話でもなかったが――聞き終えて、甘寧はむっと眉を寄せた。
 大の男が、しかも甘寧自慢の錦帆賊の男達が、雁首並べておきながら、たかが女官一人にいいようにしてやられたのが悔しかったのだろう。
 みるみる不機嫌に陥る甘寧に、副頭目は苦笑いを浮かべた。
「……お頭、一つあっしに出張らしちゃもらえませんか」
 甘寧の鋭利な視線が、突き刺さるように向けられる。
 付き合いが長いせいか、他の錦帆賊の男達が震え上がるその眼を、副頭目は笑みで受け止める余裕がある。
「姐さんが来たいって仰ったものを、大喬殿の名前を出して引き止めるなんざ、家臣のするこっちゃねぇ。まして、女中風情が何を言うやらだ。怒鳴り付けて、文句の一つも言ってやるってのが筋ってもんだ。ねぇお頭、そうでしょうが。あっしの言ってることに、何ぞおかしなところがありますかい?」
 流れるような副頭目の言葉に、甘寧の顔にもようやく笑みが戻る。
「おぉ、その通りだ。まぁ、相手は女だ。あの嬢ちゃんの顔もあらぁ、あんましきつく言ってやるんじゃねぇぜ」
 機嫌を直した甘寧の後ろで、錦帆賊の男達が拝むように頭を下げている。
 女にしてやられたのではなく、大喬の名に免じて引き下がったということであれば、錦帆賊の面目も保てる。また、副頭目が出向くことで事を大袈裟にすることも舐められることもなく苦情の申し立てを行えるとなれば、甘寧にも文句はない。
 瞬時に上手く事を治める才は、甘寧が絶大な信を置く副頭目ならではだった。
「それじゃあ、行ってめぇりやす」
 副頭目の後を何人かの男達が追おうとするが、しっと払われて留まった。
 むさい男連中で、群れ成すようにぞろぞろ向かえば恥の上塗りに他ならない。
 それが分かっているから一人で行くとし、他の男達もそれを受け入れた。
 一人で肩をそびやかして歩く副頭目の背を、男達は頼もしく思いながら見送った。

 副頭目が大喬の元に辿り着いた時、大喬は陸遜に小言を喰らっている最中だった。
 仮にも、孫策の正夫人たる大喬相手に小言と言うと語弊があるかもしれないが、ぱっと見た印象で言えば小言以外の何物でもない。
 しゅんと肩をすぼめる大喬に、やや困惑した顔を見せながらも何事かを言い聞かせている陸遜、その脇でえらい目をして陸遜を睨んでいる小喬の様は、他人事ならいい見せ物だ。
 副頭目はしかし、今まさに受難中の大喬に用事がある。
 逡巡している間も惜しく、仕方なしに割り込みを掛ける。
「ご無礼申し上げます、陸遜殿」
「……貴方は、確か、甘寧殿の副官でしたね」
 副頭目の登場に、陸遜の目がきらりと輝く。
 どうも雲行きがおかしい。
 陸遜を睨んでいた小喬も、更に目を険しくして副頭目を睨め付けている。
 無言で頭を下げると、小喬は唇を尖らせてそっぽを向いてしまった。
様のことでしょうか?」
 大喬がおずおず口を開く。
「やっぱり、お寒いのではないですか? あの上掛け、暖かいとは仰ってましたけど、水に浮かべた船の上ですもの。風も相当冷たいのではないですか?」
 副頭目は大喬の言葉に小さな異和感を感じる。
 問い掛けようとするも、今度は陸遜が口を挟んできた。
「貴方に言っても詮ないことかもしれませんが、錦帆賊の横暴は目に余ります! 殿は、今大会において重要な役割を果たされる方なのですよ。それを勝手に連れ出すなど……後で甘寧殿に、陸伯言がお話したいことがあると言っていたとお伝えいただきたい!」
 異和感が明瞭になる。
「お待ち下され、殿は、今どちらに」
「だからあなた方が……」
 陸遜が噛み付こうとする脇で、大喬がざっと青ざめる。
「大姐は、あなた方とご一緒しているのではないんですか!?」
 悲痛な叫びに、陸遜もはっと息を飲む。
 一瞬で事情を察し、頭を切り替え副頭目に迫る。
「どういうことです!」
 不穏な気配に、副頭目は額に薄く汗を滲ませる。
 それでも、すぐに陸遜の問い掛けに答えた。
「うちの手下共の話では、殿をこちらにお連れする途中、大喬殿の女官がお迎えに来た、と」
「女官? ……私は、知りません」
 大喬は小喬を振り返る。
 もしや、と、大喬と小喬を聞き間違えたのではないかというわずかな可能性に賭けてのことだったが、小喬も青ざめながら首を横に振った。
「……手下に詳しく聞いてめぇりやす」
 失敗した、と、副頭目は己の間抜けさに舌打ちした。
 一人でいい、居合わせた者を連れて来て居れば、貴重な時を損なわずに済んだ筈だ。
「陸遜殿は、お手配を」
「分かっています」
 駆け出す副頭目を見送る間もなく、陸遜は傍に控えていた兵に素早く指示を繰り出す。
「おねぇちゃん!」
 大喬の足元が揺らめき、崩れ落ち掛けるのを小喬が支える。
 それでも倒れそうになるのを、陸遜が支えた。
 細身の、如何にも少年めいた陸遜ではあるが、歴とした将である。軽々と大喬を支え、背付きのの椅子にもたれ掛からせた。
「……陸遜様、大姐は、大姐……私……!」
 気を失いそうになりながらも、必死に陸遜に訴え掛ける大喬に、陸遜は微笑んだ。
「大丈夫です、大喬殿」
 凛とした、自信に満ち溢れた声に、大喬は口を閉ざした。
「大丈夫です、大会中とはいえ、国境の守備に抜かりはありません。また、どこかに兵を伏せている可能性がないとまでは言えなくとも、少なくともこの近辺でそのような振舞いが見逃されることはありません。伏せているとしても恐らくは国境まで、そこから内への侵入は難しいでしょう。で、あれば、殿を連れているのはたかだか女官一人、早々遠くに行けるとも思えません」
 すぐに見付かります、と力強く言い切った陸遜に、大喬の目が涙に潤む。
「私が、絶対に殿を連れ戻します。安心して、任せて下さい」
 こくりと頷く大喬を小喬に託し、陸遜は自らも捜索に加わるべく立ち上がる。
 その胸の中は、言い知れぬ不安で一杯だった。
 大喬に言った言葉に嘘はない。
 けれど、穴がないと言うのは嘘だ。
 闘技会の為に国境の守備を薄くしたつもりはないが、折角の闘技会を見れなくなった兵達の気が引き締まっているとは言い難い。
 潜入した目的がであるとするならば、逃げ足には相応の自信のある者と読んで間違いはないだろう。逃走路の確保も準備も、まったく抜かりない筈だ。闘技会の開催が決まってから、十分な時間も在った。
 会場には、そこかしこに兵の配置はしていたが、それは元より興奮して暴れる観客が居た場合に備えてのことである。恐らく、今も手一杯だと考えて良い。
 とは言え、闘技会を中止すれば更なる混乱を招く。敵に有利な展開をむざむざ与える程、陸遜は愚かではない。
 状況は、かなり劣悪と言えた。
――こんな時、諸葛亮先生であれば……!
 願って手に入る才であれば苦労はない。
 噛んだ唇から、鉄錆の匂いが滲んだ。

 は、崖の下から吹き上げる風に身震いした。
 水の上を渡って冷たくなった風は、暖かな上掛けをも貫いてを冷やそうと襲い掛かって来る。
 何も、こんな場所で話をしなくとも良いではないか。
 は辺りを見回した。
 人気は、無論ない。
 二時間ドラマの締めの場に使われそうな、断崖絶壁の上だった。
 眼下には、湖と見紛うばかりの広い川が流れている。
 遠くに船が固まっているのが見えるが、あれが闘技会の会場に違いない。
 相当の距離を歩いてきたのだと知らしめられた。
 女官は、断崖絶壁の縁に立ったまま、無言を守っている。
 危ないな、と思った。
 風は、女官にも容赦なく襲い掛かっているが、女官に動じた様子はない。
 普段からの鍛え方が違うからだろうかと、多少うらやましくなりながら、は上掛けの端を強く握り掻き合わせた。
 いい加減、水を向けた方がいいのだろうかと悩み始めた時だ。
「お話というのは」
 女官が口を開いた。
 は改めて姿勢を正し、続きを待つ。
 しかし、女官は再度口を閉ざした。
 それきりまた口を噤む。
 は、首を傾げた。
 そんなに言い辛いことなのだろうか。
「……言い難いことなんですか?」
 別に、何でも聞いてくれ、話せることなら話すから……そんな気安い気持ちで、は問い掛けた。
 女官の唇が、急に左右に伸びる。
 笑う、というより、本当に左右にみゅっと引き延ばされた感じで、は思わずたじろいだ。
 それまでは、年相応に落ち着いた感があったのに、不意に人の皮を被った化物然として見えてしまう。
 まじまじと女官を見詰める。
 老女というには若過ぎるが、若い娘とは到底形容し難い。
 元々、年の判別など不得意なだったが、それでも年齢不詳な女官だと思う。
 の視線を受けて、女官が目を向けてくる。
 あれ、とは胸の奥にざわめきを覚えた。
 どこかで見た目だ。
 思い出せそうで思い出せず、そんなもどかしさに眉を顰める。
 女は、を見詰めながら、静かに口を開いた。
「……お話、と言うと、どうも違いますわね……伺いたいことがある……そう、その方がしっくりいたします」
 聞きたいことがある。
 何だろうかとは胸の辺りを押さえた。
 不思議に手のひらが汗ばんでいる。
 ざわざわとした胸の内が気持ち悪い。
 何故だか無性に逃げ出したかった。
 の顔をじっと見詰めながら、女官はさり気なくの退路を塞ぐ。
 逃げ出したいという気持ちを読まれたのだろうか。
 鳴り響く心臓の音が、うるさい。
「伺いたいことが、あります」
「なん、でしょう」
 緊張して声が上擦る。
 女官が微笑んだ。
「……どうして、殺したのですか……私の、娘を」
 風が吹き抜けた。

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