目が覚めると、自室の天井が見えた。
 見慣れた筈の天井が、やけに懐かしい。
 どうしてだろうと考え掛けはしたが、どうにもまぶたが重くてそれどころでない。
 もう少し寝るかと寝返りを打つと、腰の辺りからがさりと乾いた音がした。
――がさ?
 何でそんな音が、と無理矢理に体を起こして布団をめくると、何故か腰の辺りにゴミ袋が巻かれている。
 音の正体が分かったのはいいが、何でこんなものが巻かれているかが分からない。
 ゴミ袋は、御丁寧に底を切って筒状に仕立てられているらしかった。
 が身じろぐと、それに併せてがさがさと音が立つ。
 どうにも不快だ。
 不快といえば、腰の辺りが妙に湿気っぽい。蒸れたのかとも考えるが、今一つピンとこない。
 何でまたこんなとこが湿気っぽいのかと、は不満げに眉を寄せ、次の瞬間、耳の裏まで一気に顔を赤くした。
「……あぁ、起きたか」
 襖が開くと同時に顔を出したのは、の友人だった。
 と言っても、同人繋がりで本名さえ未だ知らないという、親しいんだか親しくないんだか自身もよく分からない関係だった。
 携帯のナンバーやメルアドこそ知っているが、どこに住んでいてどんな生活をしているのかは知らない。修羅場を共にすることもある関係だったが、場の提供はもっぱら側で、それを不自由と思うこともなかったのだ。
 しかし、今はそんなことを確認している場合でもない。
 口をぱくぱくさせているに、友人は投げやりとも取れる無表情のまま、簡潔にの求める答えを与えてくれた。
「お前、ショック受けて気絶してたんだわ。悪いけど、さすがにパンツ脱がせていいとは思えんかったから、ゴミ袋でカバーさせてもらった。布団、掛けない方がいいかと思ったんだけど、寒そうだったし、重しの代わりになるならいいかと思って。今、適当にタオル探して持ってくっから、とりあえずそれで拭いて着替えー」
「……ありがと」
 訊きたいことのほとんどを、常の口調は変えずざらっと説明してくれる。
 これも一つの才能のような気がした。
 けれども、同人友の前で失禁してしまうという異常事態に、の気持ちは急降下を続けている。
 一度閉められた襖が、再度開いた。
 とにかく汚してしまったものを何とかしなくてはならない。
 こうなったら開き直るしかないと、恥ずかしながら視線を上げたの目の前に、心配そうな陸遜がたたずんでいた。

「ほらよ、おパンツ」
 丸めてしまっておいたパンツを、ぽいっと投げて寄越される。
 着替え(特に下着類)は趙雲に部屋を譲る為、すべて隣室に移してしまっていたのを頼んで取って来てもらった。
 一見、生き恥さらしたに気を使ってわざとざっくばらんを装っているように見えなくもないが、何のことはない。この友人は、いつもこんな感じなのである。
 オタクの中には妙に芝居掛かった仕草をする者も少なくないが、ことこの友人を見る限り、誰に対してであろうともこんな感じだった。
 が身を清める為の道具として、湯を張ったバケツに古めのタオルを選択という細やかな気遣いができる一方、物の扱いはかなり粗雑なのである。
 物より人の扱いの方が、中でもとりわけの扱いが粗雑なのだが、はそれを友なりの愛情表現と捉えていた。約束を破ったりを下げて他を持ち上げると言ったことが一切ないからだ。
 粗雑なのは、あくまで口の聞き方と接し方だけだったから、にしてみれば却って気の置けない友だった。
 パンツとその他の着替えを渡すと、友は何も言わずに襖の外に出る。
「着替え終わったら、風呂場行きな」
 襖の外から声が掛かり、は友の気遣いに心底感謝した。
 漏らしたままの格好で陸遜の前を横切るのは、あまりに辛い。罰ゲームにしても、性質が悪過ぎるだろう。
 簡易にでも身を清め、着替えた後にまた風呂に入るというのもおかしな話ではあるのだが、考えてみてもそれ以上の最善は浮かばなかった。
 それにしても、友の最強振りと言ったらない。
 を心配してではあろうが、失禁して下半身を濡らした格好のを覗き見する(選択する言葉が悪いのは十分承知の上だが)陸遜の頭を、友は何と片手で鷲掴みにして後ろに引き倒したのだ。
 如何に意識がに向いていたとは言え、武の鍛錬を欠かさないであろう陸遜の背後を取り、あまつさえ引っ繰り返すなどなかなか出来ることではない。
 少なくとも、には出来ない自信がある。
 友の素性もろくに知らないではあるが、この際もう少し知っておくべきだったろうかと悩んだ。
 着替え終わって、は汚してしまった服をゴミ袋に包んで抱え上げる。
 時が経てば経つ程臭いそうな代物だけに、部屋に置き去りにする気になれなかったのだ。
 布団には、念の為消臭剤をまき散らす。
 ほんの隙間分、襖を開けると、そこに座していたらしい友が振り返り立ち上がる。
「陸遜、そっちの隅に行ってて。で、背中向けて、こっち見ないで」
 既に陸遜を呼び捨て扱いしているらしい。
 が戸惑っていると、友の方から襖を開け、を手招きした。
「早く、入ってきちゃいな。でも、なるべく早く出てな?」
「う、うん」
 背中を押されるようにして風呂場へ向かうの耳に、『もういいよ』と陸遜に話し掛けていると思しき友の声が届く。
 が寝てしまっている間に、すっかり親しくなっているらしい。
 それよりも、友が陸遜を『陸遜』と呼んでいることが気に掛かった。
 友は、元々と同じジャンル出身である。萌が高じて歴史にはまり、今は三国志関連なら一通りという、イベントのジャンル選択が少々難儀なサークルをやっている。
 と言っても、基本一人サークルなのはと一緒で、ただし彼女の方は進んで売り子をしてくれそうな友人や信者に事欠かないから、何で出ようと問題はないかもしれない。
 ともかく、友は三国志には以上に詳しく、その彼女をして陸遜を陸遜と呼ばしめる経緯に不安を覚えた。
 あの超が付く程現実主義な友が、まさか陸遜を本当に陸遜と認めるとも思えず、の不安は増していく。
 引き返して確かめたい衝動に駆られなくもないが、今は風呂に入ってきちんと体を洗いたい誘惑が勝っていた。
 内容までは聞き取れないが、二人がぽそぽそ話している声が聞こえてくる。
 迷ってここで立ち往生しているくらいなら、さっさと入ってきてしまった方がいい。
 は、えいと決断して風呂場に駆け込む。
 服を脱ぎ捨て、浴室の扉を開けると、そこは白い湯気で満たされていた。
「おぉう」
 思わずうめいてしまう。
 湯船にはなみなみと湯が満たされ、御丁寧に洗い場にも湯がまかれて温められている。
 てっきりシャワーを浴びてこいという意味だとばかり思い込んでいたには、この状況は想定外と言っていい。
 それは、確かにただシャワーを浴びるだけより湯船に肩まで使った方がずっといい。気分転換にもなるし、濡れた服をずっと付けていた不快感も吹き飛び、冷えてしまった体も温められるというものだ。
 どこまで気の回る友なのだろう。
 そして、どこまでドライな友なのだろう。
「……これで『早く上がってこい』って、おま……」
 知らぬ間に呟いていた。
 には風呂好き兼長風呂の自覚があり、かつまともな風呂は本当に久しぶりだった。
 だというのに、友は早く風呂から上がることを要求している訳だ。
 これを泣かずに、何を泣けと言うのか。
 こうして泣き言を吐いている間も惜しい。
 急ぎシャワーを浴びると、体が冷え切っていることが分かる。
 ボディソープをスポンジに含ませ、泡立たせると、肌の上を滑らせる。
 ただそれだけのことが、何とも言えず心地良い。
 しばしうっとりしながら体中を洗い上げ、未練を感じながらもシャワーで流し、湯船に浸かった。
 皮膚という皮膚が痺れるようで、泣きたくなる程気持ちいい。
 かつて毎日のように使って馴染んだ風呂桶の感触に、意図せず深い溜息が漏れ出す程だ。
 はっとして目を開けると、盛大な水飛沫が上がった。温かいから、湯飛沫と言うべきか。
 いつの間にか眠り込んでいたらしい。思いの外、体が疲れているようだった。
 風呂場で居眠りなどするべきではなかろうが、溺れる直前に目を覚ましただけ、良かったかもしれない。
「……あ」
 早く上がって来るようにと言い付けられていたことを思い出し、は慌てて立ち上がる。名残惜しげに湯が絡み付いてきたが、振り切るように洗い場に足を下ろした。
 友は陸遜と二人、が風呂から上がって来るのを今か今かと待ちわびているに違いない。
 身を清める時間を与えてくれただけ、辛抱強かったと評されるべきだろう。
 洗い場と洗面所を隔てる引き戸に手を掛けて、ふと、自分が眠っていた間に何を話しているのだろうという不安が蘇る。
 陸遜があの陸遜と分かっているのかいないのか、それさえ分からない。
 友が陸遜を陸遜と呼んでいたことに間違いはないが、単に『陸遜です』と名乗られてコスネームとでも受け取ったのか、『無双の陸遜』と認識したのかで話の持って行き方にかなりの差が出る。
 だけでなく、『あちらの世界』のことをどう説明していいのだか、とっ掛かりさえ見出せなかった。
――趙雲がこっちの世界に来てて、帰る時に私も連れてかれて、色々あって陸遜と一緒に帰ってきちゃったの!
 想像するだに頭が痛い。
 嘘を吐くには陸遜の存在が邪魔をするし、そもそもいったいどんな嘘を吐けばいいのかも思い付かない。
 例え本当のことを言ったとて、果たして信用してもらえるかどうか。
 それ以前に、あちらで起きた出来事をまま伝えることにどうしても抵抗を感じる。二股三股どころでない、それこそ片っ端から『食い散らかした』ような関係なのだ。
 とは言え、それなしには説明し難い人間関係も多々存在している。
 犯ったの犯らないのはさておくとしても、異性に向けての好意を持たれていたことを隠していては、何一つ話せそうになかった。
――みんな、私のこと好きだって言うもんだから、私もついほだされて、趙雲と馬超と孫策と孫権と孫堅と周泰と周瑜と太史慈とは本番までしちゃったんだ! あと、星彩と大喬ともね! キスだけとかなら、もっと居るよ!
「……えへへっ……てか……」
 あまりに頭の悪い話に、自身眩暈を感じて扉に手を着く。
 反省して許されるものではないが、反省だけでもしておかなければ、人間として生きていてはいけない気持ちになってしまう。
 改めて、どう説明していいのか分からなくなった。

「わぁ」
 突然声掛けられて、は素で悲鳴を上げる。
 洗面所に友が居るらしかった。こちらからは曇っていて気が付かなかったが、はガラス戸に手を着いていたから、向こうからは見えているのだろう
「上がったんなら、早よ戻れ」
「あ、うん、ごめん……」
 友の気配が消えたのを確認してから、は溜息を吐きつつ風呂場から出る。
 どう説明していいか、本気で分からなかった。

「わぁ」
 今度は、洗面所の扉の向こうからだった。
 二度目の不意打ちにも関わらず、またもは驚き几帳面に声を上げる。
「とりあえず、お前が変に悩んでても面倒臭いから言っておくけど」
「面倒臭いって何」
 の突っ込みは、敢えてスルーされたらしい。
「あの陸遜が無双の陸遜だって、こっちはもう分かってるから。聞いたから」
「…………」
 何も言えなくなる。
 陸遜には自分が『無双の陸遜』であるなどという自覚などないだろうから、果たして友がどんな説明を受け、どうやって納得したのか定かでない。
 余計に難しくなったように思えて、は黙ってしまった。
 沈黙から何か察したのか、友はまた口を開く。
「つか、偶々お前らがぱっと出て来たとこ、見たんだよ。お前がスーパーイリュージョニストだなんて話は聞いたことないし、観客居ないとこでンな真似すんのもおかしいだろ」
 それは、確かに何の言い訳も出来ないし、目の錯覚かとうろたえることはあってもなかったことには致しかねる状況だったろう。
「お前、気絶してるしさ。陸遜、血相変えてお前のこと揺さ振り始めるしさ。勢い、絞め殺しそうに見えたから渋々声掛けてさ」
「待て、何で渋々だ」
 思わず突っ込むと、友は極自然に『おっかなかったもん』と返事した。
「で、そこで初めてこっちに気付いてさ。したら、奴、双剣構えやがってさ」
「すみません!」
 つい謝ってしまう。
 この平和な現代社会で、いきなり双剣向けられた日には金切り声の一つも上げたくなると言うものだろう。普段は冷静沈着な友も、さすがに仰天したに違いない。
 そう考えると、申し訳なさ過ぎて面目なくて、知らず知らずに頭を抱えたくなる。
「いや、いいんだけどさ。つか、こっちがお前の友達だっつったら、真っ青になって謝りまくってくれたことだしさ……あ、そういうことだったから、お前ん家、勝手に入った。ごめ」
「いや、それはいいけども」
 鍵はどうしたのだろう。
 問うてみると、答えは非常にあっさりしたものだった。
「開いてた」
「……あー」
 よくよく思い返せば、が買い物に出ている間に趙雲が外に出た筈だ。開け方はともかく、鍵はその必要もないので渡していなかったのだ。
 拠って、趙雲に鍵を閉められる筈がない。
 開いていて当然なのだ。
 よくもまぁ泥棒に入られなかったなぁと感心し掛けて、ふと、どのくらいの時間が経っているのか気になった。場合によっては、自動引き落としにセットしてあるここの家賃が、未払いになっているかもしれない。
 どころか、更新の手続き期間を過ぎている可能性すらあった。
 ただ、友の顔に変化が見られないのを鑑みる限り、それ程時間は経っていないに違いない。あるいは、が向こうで過ごしていたのとほぼ同じ一年程度の時間が経ったと安易に考えてもいいのかもしれなかった。
――それなら、何とかか。
 すぐにも口座の残高を調べなければと考え込み始めたに、友の訝しげな声が掛けられる。
「あ、いや、ごめん……あの、変なこと聞くかもしれないけど、今日って何年の何月何日?」
「……あぁ、そうだな、分かんなくなってても……しょうがないのか……?」
 友の声が不可思議げに揺れた。
 どういうことだと首を傾げるに、何か重大な秘密を明かすかのように、友はゆっくり、そしてはっきりと今日の日付を口にする。
 それは、があの日買い物に出た、正にその日の日付だった。

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