名を呼ばれて、正気に戻る。
 友に『今日』の日付を教えられた時、は一瞬訳が分からなくなった。
 あちらの世界に行った日を、最初は思い出せなかった。
 何でもない日だったと思う。
 会社を辞め、休日も平日もなくなっていたから余計だ。
 だからこそ、一日すら経っていないという事実は、を愕然とさせるに足りた。
 日付だけなら、一年後の『今日』と考えられなくもない。
 しかし、クールと評される友は、抜かりなく西暦から今日の日付を答えてくれた。
 それさえ瞬時には判断しかねたけれど、間違いない。
――今日は、未だ『今日』なのか……!
 ただただ純粋に驚いてしまって、その驚きのあまり真っ白になってしまっている。

 友の声は平淡で、あくまで冷静そのものだ。
 動じなさ過ぎて苛立つこともないではなかったが、今はその冷静さが有り難い。
「……どした。向こうとこっちじゃ、経つ時間がスゲェ違ってたとか」
 見抜かれて、意味もなく胸がどきんと跳ね上がる。
 友はしばらく黙っていたが、『とにかく、早く出とけ』とだけ言い残し、戻っていった。
 の鼓動は大きく、早く打ち続けている。
 理解不能な事態に出くわし、理解不能のままでいる。
 答えの出ない不安が、の心臓に平穏を与えないでいるようだ。
――どうしよう。どうしたらいい。
 鼻の奥に違和感を感じる。
「…………っくしょっ」
 くしゃみが出た。
 とにかく今するべきなのは、まず服を着るべきだということに気が付いた。

「おっかー」
 友は平然とを迎える。
 居間に戻ると、友は陸遜と差し向かいでこたつに入っていた。
 陸遜がやけに不安そうにを見る。
 それはそうだろう、陸遜は今、空気すら共有しない異世界に居るのだ。不安にならない方が、どうかしている。
 趙雲はともかく、だ。
「あれ」
 何かおかしい。
 否、おかしいと言えばの家に陸遜が居ること自体おかしいのだが、がおかしいと感じるのは別の『おかしい』だった。
「……こたつ」
 こたつは、壊れていた筈だ。
 唯一と言っていい暖房器具が壊れているから、寒さを少しでもしのごうと、点いていないこたつに当たっているのか。
 そうでないことは、友が証してくれた。
「髪も乾いてないんじゃ、寒いだろうよ。早くこたつ入り」
 めくり上げたこたつ布団の向こうは、暖かな赤い光に満ちている。
 怪音が唸りを上げているでもなく、とても壊れているようには見えない。
「……こたつ、スイッチ入った?」
 勧められて(のこたつなのだが)友と陸遜の間に入ると、友がふと思い出したように軽く頷く。
「あー。アレか、アレ、わざとじゃなかったんか」
「アレ?」
 友の言わんとすることが分からず、首を傾げる。
 一旦腰を落ち着けたを手招きし、友はが座った反対側の布団をまくって見せた。
 こたつの器械横からコードが延びている。
 友は、そのコードを指さした。
「これがー」
 が目を丸くしている前で、友は思い切りコードを引っ張った。
「ちょ」
 何すんだ、と言い終わるより早く、こたつのコードは根本からちぎれてしまう。
 が、よくよく見てみれば、ちぎれたのではなく抜けただけだった。
 何ということもなく、コードの端に付いた細長いプラグ状の金属が、友の手から伸びてぷらぷらと揺れている。
「コンセントはともかく、これも抜けてるし、の割にまとめもせんで放置してあるし。何か意味あんのかとか思ったけどよ、抜けてたの気付かんかったんか」
「……気付かんかった」
 ずっとコード一体型だと思っていたから、コードに接続プラグが着いていることに気付いてなかったのだ。暖かさを調整するツマミは別面に付いていたから、そのせいもあったと思われる。
「壊れたと思ったんなら、何故修理を呼ばぬ」
「いや、だって子龍が居たから……」
 口走った名にはっとして、慌てて押さえるがもう遅い。
「子龍……趙雲殿、ですか」
 陸遜の目が、何か黒い感情に染められていくのを目の当たりにする。
 怯んで口篭るを余所に、友は空気の読めない発言を続けた。
「あぁ、じゃあイベ会場で紹介したの、マジもん趙雲だったんか。気付かんかった」
 あれで気付く方がどうかしてるだろう。
 があうあうとうめいているのをいいことに、友は気軽くイベントの話を蒸し返し続ける。
「お前、よくあんなとこに趙雲連れてきたなー。あり得んだろ、常識として」
「いや、だって着いていくって聞かないから……」
「何、趙雲が行くって言い出したんだ。どんな場所とか、説明せんかったんか」
「したよ、一応……だけど。だって、嫌だって全力オーラで放ってみたけど、全然聞かないんだもん、あの男」
 こうして話していると、つい最近のことのような気がしてくる。
 にとっては、昔の話とは言えたかだか一年前の話でもあるのだ。
「そんなら、電車初乗りであの威風堂々振りか。全身肝の呼び名は伊達じゃねーな」
 友はしきりに感心しているが、あれは見栄っ張り王のなせる業ではないかとはこっそり考える。
 例え見栄だったとしても、あそこまで動じなければたいしたものと誉めてやるべきかもしれないが。
「あの」
 思わぬところで盛り上がっていると、脇からやけに切羽詰まった声が割り込んできた。
 誰でもない、陸遜だった。
 しまった、あんまり普通に盛り上がり過ぎたかと冷や汗が出る。
「あ、そういや名乗ってなかった」
「は?」
「名前」
 ひょいと自分の顔を指差す友に、は愕然とする。
「……え、何、私が居ない間、名前も名乗んないで話してた訳」
 が陸遜を振り返ると、陸遜も困惑したように眉を顰め、渋々の態で頷いた。
「よく、話続けられたね!」
 会話するのに名乗りを挙げないなど考えられず、ただひたすらに驚いてしまう。
 相手の名を呼び掛けることはすべての会話の基本だと思うのだが、それなしでしかも相当に込み入っていただろう話を進めた友と陸遜に、は改めて『頭いい奴って怖ぇー』と実感するのだった。
 ここは一つ、互いの関係者であるが乗り出すべきかと咳払いする。
「えーと、こちらは私の友達で」
「あ、待った」
 当の友がいきなりぶっちぎった。
 いきなり待ったを掛けられたは思わず、何、と冷たい目を向ける。
「ペンネーム、変えた」
「またかいっ!」
 陸遜がびっくりしている。
 知らないから仕方がないのだが、この友には妙な癖があって、最長でワンシーズン、短いと一週間経たずしてペンネームを変えてしまう。
 ペンネーム自体に執着しないこともあるが、何でも粘着質な相手と一戦交えてしまい、以来地味な嫌がらせが続いている為でもあるらしい。
 気の毒ではあるのだが、頻度が高過ぎてとしてはツッコミを入れずには居られなくなる。
 もっとも、友曰く、ツッコミ入れられることで笑い事だと認識できるからいいとのことで、だからこそも安心してツッコめるのだった。
 細かいことを考えたら負けだと思っている。
「いっそ、本名教えてくれりゃいいのに」
「嫌んプー」
 は『』と呼ばれているのに、何だか納得がいかない。
 けれども、やはりそこで考えた方が負けだと思うことにした。
 素性もろくに知らない友というのもおかしな話かもしれないが、こと同人活動に関してはそんなものだと認識している。
 少なくともはそうだし、友もそう思っているらしいから問題ない。
「ちぇー。……じゃ、今度のペンネーム……あ、ペンネームってね、芸名って言うか、本名明かしたくない時に使う……」
「偽名ですか」
 の要領を得ない説明に、陸遜がずばりと言い当てくる。
 明確に言うならば、『偽名』という程悪い意味合いで使うものではないのだが、友が横合いから『そうだ』と言い切ってしまったら仕方がない。
「……あ、だから口調が何か違うのか」
 の閃きに、友は頷いて肯定する。
 キャラ作りというか、友のおかしな癖の一つで、ペンネームに口調を合わせる傾向にあった。
 趙雲が来た頃は、『今田麻衣』という平凡なんだか愉快なんだか分からないペンネームだったのだが、一応女の子の名前ということで、口調も女の子(やや乱暴ではあったが)のものだったのだ。
 今は、割と乱暴な口調だから、恐らく男っぽい名前なのだろう。
「で、何にしたの」
「金紺完。完ちゃんって呼んでくれ」
 男っぽいだろうか。
 しばし悩むが、顔は真面目だから至って本気なのだろう。
「……完ちゃん」
 指を揃えて指し示し、陸遜に紹介すると、陸遜もまた微妙な顔をしている。
 まぁ、確かにいきなり『きんこんかんです』などと言われたら、名乗られたというよりのど自慢関係者かとでも思うに違いない。
 陸遜が、のど自慢など知る由もないが。
殿」
 陸遜がこたつから出て、に向けて膝を進める。
 何故か完が遮ろうとするのだが、敢えて無視しているようだった。
「大丈夫なのですか」
「だいじょうぶ……」
 何を言われているのか理解できず、は困惑する。
 大丈夫かと問うのであれば、よりも異世界に飛ばされた陸遜の方こそ心配されるべきだろう。
 はっきりしないの態度に焦れたか、陸遜が詰め寄って来る。
「ですから」
「陸遜!」
 珍しく強い口調の完に、はいささか呆然とさせられる。
 口調のバリエーションは多いが、『飄々とした毒舌家』というのが彼女の基本の性格だ。この友が、怒鳴ることは勿論、こちらが驚くような大声を出すことなどほとんどなかった。
 緊迫した空気を感じ、は居心地悪く二人の顔を見比べる。
「……何?」
 二人とも答えない。
「何なの?」
 の不安が方向性を失って暴走し始める。
 それを見て取った為か、陸遜の表情には後悔の色が濃い。
 けれど、それこそ今更と言うべきだった。ここまで引っ張られておいて、気にするなというのはあんまり惨い。
 の無言の圧力が、陸遜の口を割らせるに到る。
「……殿。殿は、こちらに来る前のことを、お忘れですか……?」
 恐る恐る、絞り出すような小さな声で問い掛けられた。
 瞬間。
 の時が止まった。
 身動ぎ一つしない体の中で、唯一、その眼だけが緩々と見開かれる。
「………………あ」
 突然、スイッチが入るように記憶が蘇る。
――殺され掛けたんだった。
 間近で対峙した女の高らかな嘲笑が、の耳の中にわんわんと木霊する。
 世界が回る。
 酔う。
、こっち」
 強く引き起こされ、は為すがままに連れ出される。
 ステンレスを叩いて弾き返る水飛沫の冷たさに、は心地良さと開放感を覚えた。
 まま、吐く。
 げぇげぇと、無様に吐き散らかす。
 吐くものがなくなっても、口内を湿らせる唾を、肺に溜まった空気を、胃液を吐き続けた。
「大丈夫。もう大丈夫だから。追っ掛けて来ないから。誰も、ここでは誰もに酷いことしないから」
 落ち付けようと穏やかに話しかけてくる声、背中を優しく撫で擦ってくれる温もりにさえ、吐き気を覚える。
 そんな自分が情けなくて、悔しくて、は眦からも水分を撒き散らすのだった。

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